第118話 絵合戦
菊は、大広間の真ん中に引き据えられた。
放心状態の松は、後ろの方でくずおれて突っ伏している。
正面には秀吉が陣取り、一段下がって横のほうに石田三成が控えて、心配そうに見守っている。
狩野の一門も到着して、かたまって座っている。
下座には諸将が居並んでいる。
本当はここで絵を披露するはずだったが、菊を尋問する場に変わってしまった。
「本来ならば所司代で尋問させるところだが、かかる重大事件ゆえ、わしが直々に裁定して遣わす。」
秀吉は言った。心なしか顔色が青ざめているのを、人々はいぶかしく見た。
「一体これはどういうことか。説明してもらおうか。」
「御覧になったとおりでございます。」
菊は言った。
「罪は全て私にございます。どうぞ罰は、私にお与えください。」
「そう言うと思った。」
秀吉が合図すると、襖がさっと開き、次の間に、帰したはずの家来たちが後ろ手に縛られて座らされていた。
菊は顔色一つ変えない。
「さあ、これでも言うことは無いか。」
「ございませぬ。どうぞ私に、死を賜りとうございます。」
質問をかえた。
「そなたはここに、牢を破って罪人を逃がすために参ったのか。」
捕らえておいた盗賊団が皆、逃げた。
「世間を騒がせて、そんなに愉快か。」
菊はぴくりと眉を動かした。
「それは初耳。盗人を解放したのは、私ではございませぬ。」
「殿下。」
はらはらしながら見守っていた三成が、口を挟んだ。秀吉に向き直って言う。
確かに、盗人を入れておいた牢の番人たちは無残にも斬り殺されていた。だが、子が入っていたほうは誰も殺されていない。
「子供をさらっていった者と、盗人を解放したのは別の者でございましょう。子をさらったほうは、市中の安寧を乱すつもりはございますまい。」
「ふむ。」
佐吉{石田三成}め、随分この女に肩入れしているようだが。
もっとも、だからといって、事実を曲げるような男ではない。本当のことだろう。
「盗人一味は五条の河原で処刑されることになっておる。そちは、この太閤の決めたことに逆らうつもりか。」
「御定法に逆らう者を処断なさるのは、政を司る方のお勤め。何を逆らうことがございましょう。でもあの子は盗人ではございませぬ。さらわれて、無理やり連れてこられただけです。何の罪も無い人間まで、吟味することなく纏めて処断なさるのは、有るべきご政道の差し障りとなると存じます。」
すらすらと論破していく。
「その女は」
秀吉は、菊の後ろでぺちゃんこになっている松を指差した。
「鬼の面をつけて暴れていた男が、屋根から落ちそうになっているのを助けようとしておったそうな。それでも一味では無い、と申すか。」
「殿下は」
澱みなく言った。
「かつて敵の面前で、一夜にして城を築かれ、戦を勝利に導かれたとか。家臣たちの無駄死を防いだ、仁愛深い御所業と聞き及んでおります。もし先ほど殿下が天守においでになり、目の前に死に瀕する者が居たならば、勿体無くも同じように、手をお差し伸べになったことでしょう。私の父は」
誰のことを言っているかは、そこにいる全員がわかった。
「守護大名でしたから、家臣たちに上から命令することが出来ました。でも会議を開くときは必ず合議制でした。皆、自由に発言し、それを最後に父が取り纏めるのです。又、目安で、父の政道の問題点を検討することも出来ました。殿下は日本全国を掌中になさっているお方。父よりずっと力のある方です。」
適わぬと知って、追従を言う気か、この女。
「誰も殿下に逆らうことは出来ません。だからこそ仁愛を垂れ給い、下々の意見をお取り上げになれば、古来聖人の政道の範となりましょう。」
ほう、と諸将がざわめいた。
「もちろんだからといって、牢破りをしていいわけはございませぬ。子を逃がすことを計画したのはこの私めにございます。他の者に罪はございませぬ。」
「そちには、屏風を持って来いと命じたはずじゃが」
秀吉は言った。
自分の中では、子供が盗人ではないことは納得がいっている。でもこの女は、武田の残党だ。つぶしておくに越したことは無い。
「だったら、屏風は何処にある。ただの口実で、最初からわしに逆らう気だったか。」
「屏風は控えの間に置いてございませぬか。」
「陰も形も無い、とのことじゃ。」
菊はふうっと息を吐いた。
「やっぱり。」
思ったとおりでございます、と言った。
「屏風は控えの間に置き去りになっておりました。店の者は帰して、私は子を助けに行っていました。部屋には誰も居なかったのです。」
「その間に、独りでに無くなった、と申すか。さような戯言を。」
「最近、妙なことが起きるのは珍しくございませんでした。」
菊は平然と言った。
「以前、祇園祭の会所に置いてあった屏風が破られ、舁山が壊される事件がありました。又、ある絵師の御子息が曲者に襲われ亡くなる事件もございました。絵師の世界にも」
ちらりと狩野のほうを見た。
光信が顔色を変えて宗秀をにらんだ。
宗秀はそ知らぬ顔で、あさってのほうを見ている。
「戦はございますから。」
「屏風が無いなら」
秀吉は鬼の首でも取ったように言う。
「絵合戦にはならぬの。」
「問題ございませぬ。」
まだ随分顔色は青かったが、菊の唇の端に微笑がある。
話しているうちに、少し落ち着いてきたようだ。
後ろを振り向いて、言った。
「お願いします。」
さっと襖が開いて、助左が手下と共に入ってきた。手下たちは屏風を運んでいる。
屏風を菊の傍らに横たえた。上座に向かって一礼すると、狩野の向かいになる位置に座った。
「こちらのお店の方々に搬入していただいたのが、本物です。用心のため、と思いましたが、予想が当たりました。良かったです。」
又、お前か、と秀吉がにらんだが、助左は澄まして座っている。
前日、呂宋屋が壺を運び込んだ時、預かっていた慶次郎のパラシュートを天守に隠し、絵屋の屏風を荷に紛れ込ませておいたのだ。
どうも埒が明かない。
何だか、こちらがやりこめられているみたいだ。
「では、屏風を見せてもらおうか。」
仕方なく言った。
何、あちらの屏風はどうせ基準に合わないものだ。これで息の根を止めることが出来る。
「まず、狩野のほうから。」
弟子たちがわらわらと立って、屏風を準備する。屏風を立てて、端からゆっくりと開いていった。
諸将から感嘆の声が上がった。
一面の金の中に、目に鮮やかな緑。真木・檜などの常盤木、瀟洒な桜。姿優しい梅、石楠花、海棠、可憐な花木が流れるように連なっている。紅葉の足元を彩るのは菊をはじめとする極彩色の草花。
華やかにして優しいその絵は、明への贈り物の基準にぴたりと合っており、正統的でありながら、見る人の目に嬉しい。
「見事じゃ。」
秀吉は満足した。
「ようやった。さすが狩野じゃ。」
「ははっ。」
光信が頭を下げた。
当代は下手だ、と言う者もおるが。
(これだけ描ければ十分ではないか)
「今度、わしの寿像も描いてもらうことにしよう。」
「身に余るお言葉。有難く存じます。」
狩野の人々から安堵の息が漏れた。
どうなることかと思っていたが。これで今後も、狩野の地位は安泰であろう。
大体、最初に見た物のほうが印象が強い。後に回った女は不利だろう。
「では、次を見せてくれ。」
秀吉は言った。