第10話 大砲
「火事だ、火事だあ!」
厩から上がった火は、あっという間に隣接する建物にまで広がった。炎と煙が渦を巻いて激しく立ち上る。
厩から次々と飛び出してくる馬は一群となって門へと押し寄せる。先頭は既に扉の前に殺到し、いらだって後ろ足で立ったり、取り静めようとする門番たちを蹴飛ばしたり、手に負えない。
誰かが扉を開けると、雪崩をうって城外へと飛び出していく。その中に慶次郎と菊を乗せた馬もいる。
慶次郎は、足軽の一人が焦って突き出した槍を簡単に奪い取ると、立ちふさがる兵たちを引っ掛け突き刺しはねのけて、がむしゃらに進んでいく。
彼の背中にしがみついた菊は、慶次郎が笑っていることに気がついて、ぞっとした。先程馬の鼻面を優しく撫でていた子供のような表情の彼とは別人のようだ。
まるで悪魔に追い立てられているように早い早い、行く手を邪魔する者を情け容赦なく排除していく。
だが、快進撃もここまでだった。
兵たちが一斉に矢を射掛けると、菊たちの乗った馬は尻を射られて棹立ちになった。振り落とされた慶次郎は空中で一回転して着地したが、菊は追っ手の目の前に投げ出された。
慶次郎は目の前に突き出された槍の柄を掴んでぐいと引っ張り、バランスを崩した相手を引きずり落とした。槍を支えに地面を蹴ると空の馬に飛び乗り、菊を救いに駆けつけようとしたが、もう追っ手が殺到していて、彼女を馬のひづめで踏みにじろうとしていた。
あわやという瞬間、轟音がとどろいて、追っ手がばたばたと落馬した。
いつの間に現れたのか、馬上筒を構えた十数騎の武者たちが、追っ手に向かって一斉射撃を行ったのだ。
その中から一騎飛び出して、倒れている菊の元へ駆けつけてきた。武者は菊に手を差し伸べて叫んだ。
「さ、早く!」
菊が手を伸ばすと、素早く掴んで彼女を馬の背に引き上げ、慶次郎にも声を掛けた。
「ついて来い!」
菊がしがみつくと、武者は馬に一鞭くれて走り出した。仲間の武者たちも後に続いた。
一行は海辺の道を走っていく。
片側は海、もう一方は切り立った崖になっている細い一本道だ。岩場で足元も覚束無いのに、武者たちは慣れているのか、巧みに馬をあやつって飛ぶように走っていく。でも追っ手は多勢で、次第に間を詰められてきた。
もう追いつかれるかと振り返った菊の目に、岩の陰から現れた巨大な船の姿が飛び込んできた。
その側面に備えつけられた二門の大砲の砲口は、追っ手に狙いを定めて一斉に火を噴いた。一発は炸裂はしないものの、隊列の中を跳ね回り、もう一発は崖に命中し、下にいる者に岩と砂の雨を降らせた。
追っ手を恐怖に陥れるにはこれで充分だった。
乱れに乱れてほうほうの態で逃げ戻っていく追っ手を見やりながら、菊を乗せた武者が、合図の火矢を海に向かって放たせると、船は静々と方向を転換して帰っていく。
一行は少し歩を緩めて、波の花で白く染まった浜を進んでいく。海岸には黒々とした松林が迫っている。低く垂れ込めた灰色の雲が割れて、差し込んだ幾筋もの光が、沖に立つ波を赤く染めていた。
「兵が足りなくて」
菊を乗せた武者が謝る。
「大変お待たせ致しました。」
赤い面頬を着けている為、顔がまるでわからないが、声からするとまだ少年といってもいい年のようだ。
「越後に仏狼機があるとはな。」
慶次郎が言う。
「仏狼機って何?」
菊が尋ねると武者は、
「南蛮人が石造りの建物を攻撃する時に使用する大砲です。日本の城の造りは、南蛮のものとは違います。今、御覧いただいておわかりになったと思いますが、陸の戦闘ではちょいと驚かせてやるくらいのことしか出来ません。日本ではもっぱら海戦に使用します。船ならば一つ二つ穴を開ければ沈みますからね。今回は主が出陣していて、留守居の人数が少なかったので使ったのです。ただ、あれは仏狼機ではございません。デミ・カルヴァリン砲と申します。南蛮人が使っている物を、堺で模造させたのでございます。」
仏狼機では有効射程が短すぎる、一町{約百十メートル}くらいしか飛ばないから、などと武者は説明し、慶次郎は更に幾つか、菊にはよくわからない専門的な質問をし、武者はすらすらと答えた。
「デミ・カルヴァリン砲、か。後でよく見せてもらってよいか。」
「どうぞ、ご自由に。」
「それにしても、大砲が二門。尾張の織田と豊後の大友以外に大砲を持っている国主が居たとは。」
武者は、南蛮風の天使の翼が前立に付いたしゃれた兜の奥から、じっと慶次郎の顔を見て言った。
「もう名乗りをあげて弓矢で戦する時代ではありません。越後には瀬戸内のそれなどと比べれば大した水軍はございません。冬は海が荒れて船が出せませんし。とはいうものの、海岸線が長く、海上交通が盛んなこの国では、海を押さえる者が勝つのです。あの船はこの夏、堺から取り寄せました。私、あれなら取り扱いに慣れているもので。」
こともなげに言う。
「鉄砲なんて普通、足軽に持たせるものだろう?それを武士が持つのか。」
「近づいて撃てば、弓矢より効果がございます。面子より勝負です。」
さらりと言った。
「ねえ、あの船、私にも今度見せてくれる?」
黙って話を聞いていた菊が突然口を挟んだ。
「ええ、さすがは武田の姫君、御興味おありですか?」
「ううん、武田は関係無いの。絵を描きたいだけ。」
菊と武者のやりとりを、慶次郎はおもしろそうに聞いていた。
一行が、府中から南西に約四キロ内陸に入った所に位置する春日山城にたどりついた頃には、日もとっぷりと暮れていた。標高百八十メートルの堅固な山城で、実城と呼ばれる本丸を中心に二の郭、三の郭を始めとする居城、その周りに家臣の屋敷を配した総面積五万ヘクタールを超える広大な領域を誇る。
大手門を入ると、あかあかとかがり火のたかれた広場には大勢の人が集まっていた。
その中から一人の女が弾かれたように飛び出してきて、菊の足にしがみついてわっと泣き出した。頭や手足に巻かれた白い布も痛々しい揚羽だった。
「ひ、姫君、よく御無事で……。」
菊も馬から下りるのももどかしく、尋ねた。
「揚羽、大丈夫?皆はどう?」
「あの後、上杉勢が駆けつけて、助けてくださったのです、あの方が。」
と、揚羽が指差したのはあの武者だった。
武者は馬から下りると、兜を脱ぎ、頬当を取って、片膝ついて菊の前に色代した。
艶やかな黒髪が肩にぱらり、と広がった。おりしも暗い空からは粉雪が後から後から舞い降りてきて、武者の、銀箔を押した緑の伊予札を卯の花で威した鎧に降りかかる。手足に結んでいる緋の紐が目に鮮やかだ。
顔を上げた武者を見て、揚羽がはっと息を呑むのがわかった。
透き通るように白い卵型の顔、形良い眉、細く高く通った鼻梁、珊瑚の玉のように赤く円やかな唇、くっきりした涼しい切れ長の瞳には、かがり火の影が映って瞬いている。玉を掘り起こしたようなその美貌に、
(これが例の若者だ、四郎兄さまを口説いて甲越同盟を結ばせたという)
一目でわかった。
「宇佐美紅と申します。姫君の僕としてお仕えさせていただきます。何なりと御用をおおせつけ下さいませ。」