第117話 深淵
天守閣の大捕り物が終わって、曲者が捕らえられた、というので、客人たちは、ぞろぞろと大広間へ移動した。
皆を先に行かせて、秀吉は厠でゆっくりと用を足した。
城の奥深くに忍び込んで、暴れるとは。
一体、どういう奴なんだろう。
小姓を二人連れただけで、先ほど宴が開かれた広間を通りかかった。
すっかり後片付けも済み、灯も落とされて真っ暗な座敷の横を、手燭を持った小姓に足元を照らされながら、急ぎ足で通り過ぎようとした。
ところが、誰も居ないはずの上段の間に、ぽつんと灯りが燈っている。
ちゃりーん、ちゃりーん、という音も聞こえてくる。
小姓たちは目配せしあった。
一人は灯を高く掲げ、もう一人は刀の柄に手を掛け、広間の奥を透かし見た。そして次の瞬間、二人とも腰が砕けたようになって、昏倒した。
秀吉は、小姓が取り落とした灯をあやうく空中で掴んで、二人を上から照らしてみた。
気を失っている。
秀吉とて老いたりといえども、何度も死地を潜り抜けてきた歴戦の強者だ。声を励まして、奥の間に向かって尋ねた。
「何者か。名乗れ。」
「小僧。」
音が止んで、声がした。
「かような折は、すぐ灯を消すもんじゃ。丸見えではないか。もうよい、今更、遅い。そちの居る所は、ようわかっとる。」
しわがれた男の声だった。
段々、暗闇に目が慣れてきた。
誰か上段の間の、自分の席に座っている。その周りが妙にきらきらと明るい。
「こっちに来んかい。取って食いやせん。」
他人に命令し慣れている人間の声。
(上さま)
身体が勝手に動いていた。
蟷螂のような頭をした老人だった。
背を丸め、ちんまり座っている。皺々くちゃくちゃで、どのくらい年を取っているのかもわからない。
老人は手文庫を引き寄せて、中にあった天正大判をありったけ畳に敷き詰めていた。さっき、きらきらして見えたのは、金が灯を反射していたのだ。
「城というのも久しぶりじゃが」
金を落とした。
ちゃりーん、と鳴った。
「変わったかと思ったが、いやはや、変わらんの。」
又、ちゃりーんと音をさせた。
「天下人の座、とやらに一度座ってみたかったんじゃ。息子がずっと座りたがっとったからの。」
でも、こうして座って見る景色は、と老人は言った。
「思ったより大したことは無いのう。」
又、金を落とす。
「わしから見れば、ぬしも小僧っ子じゃが。」
ちゃりーん。
「そなた、能を作ったり茶壷を売りつけたりして、自分の美意識は利休なんぞよりずっと上じゃと皆に言わせているそうじゃが、ほんとはこれをこうやって並べて、悦に入るのが一番好きじゃろう。」
図星だった。
「そっ、そちっ、何者!どうやって、ここに入った!」
老人は気にも留めない。
「わしも金を作ったものじゃ。大判小判は市場で流通しているものではない。家臣たちに褒美として与えるために作ったものじゃからの。気分良いものじゃろう、そちのように下から這い上がってきた者には。今まで這いつくばって、追従言って、殿から頂いていた物を、上座から、元上司や元同僚に与える気分はどうじゃ?上から、這いつくばって、追従言っている連中を見下ろす、その気分は?最高じゃろう。権力の味はどうじゃ?気分のいいものじゃろう。」
「だ、誰か、おらぬか!」
叫んでもどういうわけか、誰も来ない。
薄気味悪い老人は続ける。
「しかしこのような夜半、ふと心の端をよぎる恐怖も又、下におったときには感じなかったものじゃ。誰かその暗闇から現れて、わしの寝首を欠こうとするのではないか?誰も居ないはずの庭の隅から今にも、研ぎ澄まされた矢がこちらを目指して飛んでくるのではないか?今食ったばかりの団子に毒が仕込んであったのでは?刀を捧げ持って後ろからついてくる子飼いの可愛がっていた小姓が、敵に内通して寝返っているのでは?平伏しておるあいつもこいつも、わしの座を狙うとる。明日の朝、目が覚めなんだら、笑うのはあやつか、こやつか。心配で心配で、目を閉じるのが恐ろしいじゃろう。静かな宵、誰も居ないところで、感じる恐怖は?そちのような者は知らずに済んだかもしれない、この権力の味は、如何なものじゃろう?」
「た、頼む……。」
腰が抜けそうだ。
「去ってくれ、頼む……。」
ヒェッ、ヒェッ、ヒェッ。
老人は笑った。
ぬめぬめと赤黒い歯茎がにゅうっと剥きだしになって、黄色い長い歯がまばらに見えた。奥は黒々とした洞穴になっている。
底知れぬその暗闇に今にも吸い込まれる、そんな錯覚を覚えた。
「ば、化け物!」
泣くような声で曲者、と叫びながら、刀を抜いて、闇雲に振り回した。
ぱっと煙が立って、見る見る部屋を覆い尽くした。
老人はかき消すように居なくなっていた。
遠くからバタバタと駆けつけてくる足音を聞きながら、天井裏で、猿若は信虎を抱えて、額の汗を拭った。
「大殿。」
猿若が言った。
「お戯れを。」
「かけておったのよ。」
信虎は又、笑った。
「呪いを、な。」