第116話 天守
天守閣からも、月見櫓でわいわいやっているのが見えた。
信長は天守閣を住まいにしていたが、この城では、いざ籠城、となった時に使用するつもりらしく、普段は武具を仕舞う物置になっていて、灯も点いておらず、見張りも居ない。
天守の二階の隅で息を殺していた菊たちだったが、そのうち、兵士たちが列を組んで上ってきているのに気がついた。
いよいよ追い詰められて、後は上がっていかざるをえない。
「上へ、との御指示です。」
猿若が言った。
「輿が使えない場合は、天守を登れとのことです。御心配無く。」
「御心配無くったって……。」
とうとう天守の最上階に追い詰められた。
まだ気づかれてはいないが、真っ暗な中、すぐ後ろに、槍を構えた兵士たちが、これも無言で続いている。
(やっぱり、心配!)
その均衡は、達丸が緊張のあまり足がもつれて転んだことによって破られた。
兵たちは一斉に槍を突き出した。
と、最後列の兵たちが皆、のけぞって倒れた。
白い刃が暗闇の中、宙を裂いている。
白い鬼の、顔だけが浮かんでいる。
真っ暗で何も見えない寄せ手は、大混乱に陥った。
空に雷鳴が轟いて、辺りが一瞬、明るく照らし出された。
そのおかげで菊は、自分のすぐ側に、白刃を構えた兵が居るのに気づいた。
いつの間にか忍び寄っていた兵は、気付かれたと知るや、刃を振りかざして襲ってきた。
「!」
思わず腰が砕けて座り込んだ菊の、今まで首があったところに刃が届いた、と思った瞬間、彼女の頭上で白い光が閃いた。
兵の首がころりと落ちると、少し遅れて胴体が、血を吹き出しながら仰向けに倒れた。
菊は、おそるおそる後ろを振り向いた。
緑の鬼の顔が目の前にある。
「ぎゃあっ!」
悲鳴を上げると、
「しっ、俺だ。」
鬼がしゃべった。
「けっ、慶次郎!今まで何処、行っていたのよ!」
「ちと野暮用でな。こっちだ。」
彼が来てくれたから状況は好転する、と思ったら。
今、菊は、屋根瓦に四つんばいになってしがみついている。
菊のすぐ横には『鯱』とかいう中国の建物の飾りが立っている。
信長が安土城に付けたのが本邦初らしい。何ものも尊重しない男のように思っていたが、中世的な教養を身に付けた人間の常として彼も又、中国文化に憧れがあったらしい。
下に居たときは、小さく見えたのに。
(こんなに大きかったなんて知らなかった)
関係無いことばかり、とりとめもなく頭に浮かぶ。
そうじゃなきゃ、やってられない。
自分が置かれた立場をまともに考えたら、恐ろしくって気が狂ってしまうかもしれない。
雷雲の足は速い。
強風と土砂降りの雨を伴って、もう伏見城の上空まで押し寄せている。
菊が押さえつけているのは白い、もとい、白かった、と言うべきかもしれない、布だ。
強風にあおられて、ばたばたと暴れまくっている。
菊も一緒に飛ばされてしまいそうだ。
魔法のように現れたこの大きな布は、慶次郎と猿若が、天守の最上階の物陰から引っ張り出してきた物だ。
すぐ下の階では惣蔵が一人、刀を振るって押し寄せる軍勢を防いでいる。
楼へ上がる階段が狭くて、兵が一時に上がってこられないから、なんとかもっているが、さすがの惣藏も、じりじりと後退する一方だ。
屋根の上では、菊と猿若が必死になって押さえつけている布から、蛇のようにうねり暴れながら伸びている紐を、ねじれないように注意しながら、緑鬼の面を被ったままの慶次郎が身体に付けている。
「こんなの、ムチャよっ!」
菊が大声で叫んだ。
でもその声も、横殴りの雨風の音にかき消されてしまう。
稲光が空を斜めに走った。
大きな音がして、何処かに雷が落ちた。
どんどん近くなっている。
菊は、顔を流れ落ちる雫を、無駄と知りながら拭った。
慶次郎が雷に負けないよう大声で言っている。
「実験したときは、ここまで風が強くなかったが」
ついでに言えば、晴れていたが。
「上手くいったら、修道士が喜ぶぞ。」
こんな時に、コイツは。
猿若は思った。
笑ってやがる。
「さあ、準備は出来た。」
猿若に向かって言った。
「ここはいいから、御隠居さまを迎えに行ってくれ。」
猿若はちらりと菊を気にしたが、頷いた。
屋根の端に手を掛けると、弾みをつけて下の階の屋根に飛び降りた。
樋に手を掛けると、身をよじらせて何処ぞの窓から建物の中に入って、姿を消した。
「これは次善の策だった。」
慶次郎は菊に言う。
「姫君はここに置いていかねばならない。」
「いいの、最初っからそのつもりだったから」
菊は真っ青な顔をしているが、声はしっかりしている。
「あたしは大丈夫。」
もう二度と会えないかもしれない。
何か言うことが、言わねばならぬことがあるような気がして、もどかしかった。
でもお互い、何を言っていいのやらわからなかった。
「どうか無事で。」
じっと見つめあった。
達丸の悲鳴に、二人は、はっと振り向いた。
いつの間に上がってきたのか、一人の兵士が、達丸の手を掴んでいる。
又、稲妻が空を走った。
次の瞬間、そいつは、たたらを踏んだ。
バラバラと瓦が落ちる。
達丸も曳かれて屋根の端へと吸い寄せられていく。
兵士は魂消る叫びを上げながら屋根から落ちていった。
達丸の肩を、伸びてきた手が、しっかりと掴む。
もう片方の手で、ついさっき兵士の血を吸った槍の石突きを、剥がれた瓦の隙間に打ち込んで、自分と達丸の身体を支えたのは、白鬼だった。
達丸を安全なところに立たせて、白鬼は色代した。
「仇討ち、出来なかった。」
達丸は言った。
白鬼の正体がわかったようだった。
「武田の再興は成らない。ふがいない息子だと、父上は怒っておいでだろうか?だからこんなに」
空を見上げた。
真黒な雲の中、稲妻が天を切り裂き、又、雷鳴が轟いた。
「雷が暴れるんだろうか?」
「いいえ。」
白鬼ははっきりと言った。
「仇討ちだけがお父上の遺志を継ぐことではございません。武田家は今まで何度も存亡の危機に遭いました。敗れ去る者も多かった、でもご先祖さまは苦難を乗り越え、力を尽くされたのです。だからこそ今ここに、若君がおいでなのです。生きてください、それがご両親やご先祖さまに報いる道です。この黒雲もいつかは必ず去っていくのです。」
達丸は頷いた。
「私はあなたの為に生きて参りました。」
白鬼は頭を垂れて言った。
「たとえ身が滅びようとも、私の心はずっとずっと、あなたさまのお側にあります。」
「達丸。」
緑鬼が声を掛けた。
「行くぞ。」
白鬼と緑鬼は目を交わした。
おそらくこれが今生の別れとなろう。
菊に階下に行くように言うと、緑鬼は手にした縄で、達丸を自分の身体に括りつけた。
「ねえ。」
達丸が囁いた。
「ほんとは慶次郎、なんでしょ?」
いつも機嫌よく朗らかな子だが、今日はさすがに口調が硬い。
「違う。」
緑鬼は子供に笑いかけた。
「俺は風の神だ。」
又、稲光が天を走り、屋根に立つ鬼の姿をくっきりと照らし出す。
間をおかず、轟音が轟いた。
「すごい。」
達丸は手を、鬼の首に巻いた。
「そなたは全てのものに守られている。この自然の中の、何もかも全てのものに。」
「じゃあ」
子供は恐怖を忘れたようだ。
弾んだ声で、どうしてもなりたいものがある、と言った。
「鶴になれる?」
「なれるとも。」
「飛んで!」
達丸は叫んだ。
「何処まで?」
風神は尋ねた。
「天まで!」
菊が布から降りた。
助走をつけた。
瓦がバリバリと剥がれて宙に散った。
踏み切って、飛び出した。
慶次郎の肩に力がかかり、紐がぐうんと長く伸びた。
白い布が、風を一杯にはらんで大きく広がった。
門の近くでは、脱獄した盗賊どもが兵士相手に戦っていた。
彼らは強かった。
誰も彼も、滅ぼされた者の怨念で真っ黒になって信じられないほどねばっていた。
蟻の群れのように地面を血で染めて殺しあう人々の頭上を、白い翼が天を指して飛んでいった。
強い風に煽られて一瞬ぐらぐらしたが、体勢を立て直すと、稲光が走る暗い夜空を、垂れ込めた雲を掠めて斜めに横切っていった。
堀を越えて、波風が荒々しくたつ巨椋池の上を一回りすると、城に迫る深い森の中へと、ゆっくりと姿を消していった。
屋根に残された白鬼は、満足そうに翼の行方を追っていた。
深手を負い、肩で荒く息をしていたが、相手から刀や槍を幾つも奪って、まだ戦う気でいた。
が、多勢に無勢で、囲まれて段々、追い詰められていった。
一人の兵が繰り出してきた槍の柄を掴んで相手を落としたが、自分も足を滑らせて屋根の端へと流されていき、あっという間に転落した。
そのまま下に落ちるかと思われたが、下の階の高欄から伸びてきた腕に摑まれた。
白い鬼の面が外れて、下へ落ちていった。
が、掴んだほうも、はずみで身体が半分以上欄干から出てしまった。
ユライが解けて宙を舞った。
誰かがその腰に飛びついて、二人とも落ちてしまうのを防いだ。
惣蔵は、思わず閉じていた目を開けた。
「姫君。」
掴んでくれたのは松だった。
松を後ろから抱きとめているのは菊だった。
でも菊の力では、二人を部屋の中まで引き込むことは出来なかった。
じりじりと、松の身体も一緒に部屋の外へ出て行く。
「もう、いい。」
「駄目っ、あきらめちゃっ!」
松は必死で、惣蔵を引っ張りあげようとする。
「いやっ、離さないっ!」
「姫君。」
彼は微かに笑った。
「有難う。好きになってくれて。」
彼の唇がゆっくりと動くのが見えた。
好きだ、と言ったのだろうか。
彼が離れていくのを、それでも松は、最後まで目が離せなかった。
その身体が黒い闇の中に消えていき、深い水音が耳に届くまで。
泣き叫びながら虚空に手を伸ばす妹の身体を抱きしめる菊の目の前に、ぎらぎらする白い刃が、何本も突きつけられた。