第115話 月見櫓
宴が終わって皆、相当出来上がっていたが、今日はまだ趣向があるという。
「出入りの商人が呂宋から戻ってきておってな。」
秀吉が言う。
「茶道具をたくさん持って帰って来よった。欲しい者は選び放題じゃぞ。」
秀吉には目論見がある。
海外貿易の権限が自分の手の内にあることを、殊更に示したい。
助左も勿論、秀吉の考えを知っている。
そのうえであえて、その企てに乗っかっている。
天守閣の下にある月見櫓に移動した。
目の前に聳える天守は、鼠漆喰の壁、黒漆塗りの窓・下見板・破風・木連格子、青みがかった鼠色の屋根の上には一対の金の鯱が据え付けてある。『月見の機械』と南蛮人にいわれた、外観五層・内部七階の望楼型天守だ。
生憎の天気だが、『指月』という地名のとおり、晴れた日は、月が絶景だという。
広間の隅に控えているのは、異人のような風体の男、その後ろには店の者だろう、やはり日本人には見えない男たちが並んでいる。
あれが噂の呂宋屋の主か、新進気鋭の貿易商で、一年の大半は異国で過ごし、社交の場である茶会に顔を出さないので、姿を見た者は殆ど居ないと聞く。女房は三国一の美女で、上杉に妾奉公に出している、とかいう。
越後権中納言も、ああ見えてなかなか、ともっぱらの噂だが、趣味で集めている名刀は大層切れ味が良いとの評判だし、あんまり冗談の通じるお人柄にも見えないので、直接問いただした者は今だかつて、居ない。
部屋一杯に大小の壷が並べられ、三段階にランクが付けられている。
あれが噂の『るすん壷』。
利休が死んでから急に巷に出回り始めた、呂宋からの舶来の品だ。
この頃フィリピンの代理総督であったアントニオ・デ・モルガの『フィリピン諸島誌』によると、色は褐色で、外観はよくなく、あるものは中型で他のものはもっと小さく、しるしがあり押印してあるが、どこから来たものか、いつ頃来たものか誰も説明出来ない。というのは、今はもう、どこからも到来せず、又、島でも作られていないからである。『るすん壷』は現地でも既に取り尽され、枯渇状態にある。
イタリア人商人カルレッチによると、現地フィリピンではかつて一ジュリオという無料同然の価格だった。
現存する唯一の『るそん壷』取引の文書である『組屋文書』によると、日本にもたらされたそれは、最高のものが金子四枚九両{金一両が米一石として換算すると四九石余り}という高値で売買されている。
又、外国人商人や宣教師の記録によると、通常取引の最高価格が二千ドゥカ―ドである。これは七百人以上の人員を抱える在日イエズス会の年間経費の五分の一ないし六分の一となる巨大な金額である。
『るすん壷』のことを、松平忠明の『当代記』では『日本国之宝物』、モルガは『もっとも高価な宝物』としている。
ロンドン大学のボクサー元教授は、こう述べている。
『あと一つの重要な日本向け輸出品は、フィリピンの墓で見出された中国製の古い陶器であった。そのうちの幾つかは茶の湯の目利きから法外な値段を付けられた。この商品は、極めて投機的な市場を形作っていた。』
呂宋には、先年から秀吉が服属を要求していることを、誰もが知っている。朝鮮の次は呂宋に兵を出すと言い出すかもしれない。
皆、げんなりしたが、『バスに乗り遅れる』わけにはいかない。よその家が、時代の最先端の異国の品を高値で競り落としている。安い値を付けるわけにはいかない。そうでなくても、きこしめて気が大きくなっている。皆、競って高値を付け始めた。
太閤は満足そうに見守っている。助左からは、堺代官の石田正澄{三成の兄}を通じて、既に、壷五十、唐傘・蝋燭千本、麝香鹿二匹などを献上されている。今日は、その礼も兼ねての競売会なのだ。
「若、何だか、臭いません?」
目の細長い若い男が囁いた。
「お前がそう思うんなら、そうだろうよ。」
助左が言った。
「下も騒がしいし。何か仕掛けてあるか。」
「一端、席を外しちまったからねえ。」
痩せた剽軽な男が言った。
「壷が減って、部屋が空いたらわかるでしょう。」
小柄な年寄りが言った。
「間に合いそうか。」
助左が尋ねた。
「へっ、おもしれえ。」
ずば抜けて背が高く、たくましい黒人が薄く笑った。
皆、手分けして、一つ一つ壷を調べ始めた。
結局、一抱えほどもある一番大きな壷と、妙な形の壷、あと二番目に小さい壷が売れ残った。
「残ったか。では、わしが引き取ろう。」
太閤は、一番大きな壷に近づこうとする。
人ひとり入れそうな大きさだ。
助左も寄って、さりげなく中を覗いた。
これだ。
埋み火を目の端に留めた。
(仕掛け火薬だな)
目で合図すると、黒人がゆらりと立って大股で壷に近づいた。
太閤の目の前から壷を掻っ攫うと、つかつかと高欄に寄った。何のためらいも無く、反動をつけて壷を空中に放り出した。
外はいつの間にか低く黒雲が垂れ込め、強い風が吹いている。
遠くの空がちかっと光った。
細かい雨が降り出した。
壷はくるくると不規則に回りながら、夕闇の中、蝙蝠の群れを蹴散らして飛んでいった。しばらくして、どっぽーんという音が聞こえてきた。
「太閤殿下に、このように小さな壷は到底ふさわしくはございません。」
すかさず助左が言った。
「実は店に、とても運べないような大きな壷が残っております。本日の会の御礼に、そちらを改めて献上いたします。」
皆、度肝を抜かれていたが、誰かが気がついて手を叩くと、一斉に拍手した。
「のう、助左。」
人々が席を立とうとして、がやがやしている中、秀吉は助左に寄って囁いた。
「ほんとは何ぞ、あったろう。」
「いえ、ほんとに何も……。」
助左が言った、その時だった。
バラバラと屋根から瓦が落ちてきたかと思うと、長い悲鳴の尾を引きながら、今度は壷ではなく人が飛んでいった。
皆、一斉に高欄に駆け寄って、空を見上げた。
「Oh,Dio!」
助左が小さい声で言った。