第113話 海の色
伏見城は、東山から連なる丘陵の最南端に位置する指月山にある。
城の一端に険しい崖がなだれ込んでいる。
猿若はその山の端の一角に菊を案内した。
蔦が生い茂る崖の一部が天然の洞穴になっており、そこに牢が作られているという。
「他の牢とは離れて、一つだけあるのです。」
猿若が囁いた。
「達丸さまはお一人で、そこに閉じ込められています。太閤の命を狙った大罪人でございますからね。」
菊は、建物の陰から覗いてみた。
番人が二人、立っている。
猿若は筒を取り出すと、唇に当てた。素早く二度吹くと、牢番たちは首に手を当てたが、そのままくずおれた。
「し、死んだの?」
猿若は菊の顔を見て、言った。
「姫君が殺生をお嫌いなのは、よく存じております。吹き矢の毒が回って気絶しているだけです。」
菊は牢の前に走っていって、覗き込んだ。
「達、達丸!」
押し殺した声で呼んだ。
中は真っ暗だ。
暫くすると、かさかさと音がして、這いつくばって出てきた。
「お、叔母さま?」
「ああかわいそうに。今、出してあげるからね。」
真っ黒に汚れて髪もざんばら、目だけ光っている達丸を見て、菊は涙ぐんだ。
猿若が牢番から鍵を取ってきた。
扉を開けると、転がるように出てきた。
菊はしっかりと達丸を抱きしめた。
「大丈夫、怪我は無い?」
「うん、怖かった。」
轟く音がして、鼻先をぴっと何かが掠めた。
猿若が二人を岩陰に引っ張り込んだ。
銃弾の狙いは段々正確になっていく。
こちらは身動きも出来ない。
猿若は決心した。
「姫君、私が囮になります。その間に、どうか……。」
その時、向こうで、妙な音が続けざまにしたかと思うと、唐突に銃弾の雨が止んだ。
「ご苦労だった。猿、出てきていいぞ。」
呼びかける声がした。
「慶次郎?」
菊は立ち上がった。
向こうからも誰か来る。
篝火が投げかける光の中に姿を現したその男を見て、菊は息を呑んだ。
さらさらと金色の滝のようになだれ落ちる腰まで届く長い髪は、強い風に渦を巻いて、なびいている。
すらりとした長い足、高い背、広い肩幅、日本人離れした白い肌。
やや青みがかった白い羽織に、同じ色合いの小袖を裾長の着流しにしている。
片手には杖をついて、足を少し引きずっていた。
きりりとした眉、高い鼻梁、引き結んだ口元、しかし何といっても目を引くのは、明るい青と碧の混じった瞳の色だった。
あれは、
(海の色)
ジョヴァンニが話していた、日本では見ることの出来ない南の海の色。
「わあ」
大声で言ってしまった。
「Bellissimo!」
同時に、何故紅が彼女の髪を、気になさることは無い、と言ったかを瞬時に理解したのだった。
彼は一瞬、とまどったような顔をした。
でも次の瞬間、大きく笑み崩れた。
「女房が申しておりました。」
彼は言った。
「きっと姫君は、手前のことを気に入ってくださると。」
うやうやしくお辞儀した。
「Piacere diconoscerla,Vostra Altezza.呂宋屋の主、納屋助左衛門と申します。」
惣蔵は牢の扉を開けた。
「さあ、思いっきり暴れて来い!」
ぞろぞろと出て行く囚人たちの後姿を見送りながら、言った。
「右府{信長}や太閤に滅ぼされた北条、浅井、朝倉、伊賀などの残党だ。死ぬまで戦うだろうよ。」
「ねえ、私たちも達丸を助けて帰りましょうよ。」
「まだだ。」
言下に否定した。
「ここまで来たんだ、太閤に一塩付けてやる。」
「何処へ行くの?」
「この後、茶道具の競売が、月見櫓で開かれるそうだ。」
惣蔵が言った。
「面白い仕掛けがしてあるんだ。」
「そりゃ、聞き捨てならねえな。」
現れた人影を見て、惣蔵は刀の柄に手を掛けた。
「又お前か。何処まで邪魔すれば気が済むんだ。」
「別にお前の邪魔をしたいわけじゃない。」
慶次郎は唸った。
「でも俺は姫君を助けなきゃなんねえ。」
その時、空で、何かが弾ける音がした。
松が仰ぎ見たときには、暗い空に、黒い煙が薄くたなびいているばかりである。
慶次郎は、鬼の面を二つ、懐から取り出した。
緑の鬼の面を被りながら言った。
「俺は顔を知られるわけにはいかない。勿論、お前もだ。」
白い鬼の面を惣蔵に放った。
松は慌ててユライを深く被りなおした。
輿の周りを大勢の侍が取り巻いて、調べている。
何だか城内が騒がしかった。
しっかりと門が閉じられ、篝火が煌々と焚かれ、列を組んだ兵が続々と集まってくる。
信虎が乗ってきた輿に達丸を隠して、城外へ出る手はずだった。
でもどうやら、無理のようだ。
「こりゃ、バレたな。」
助左が言った。
「仕方ない。こっちだ。」
猿若が、皆からすっと離れた。
建物の陰にかがんで、何かしている。
手元がふっと明るくなった。
顔が光に照らし出された途端、避ける。
火の尾を引きながら舞い上がったそれは、ポンッと軽い音を立てて、空中で弾けた。
見張りの兵が、その場に駆け付けた時には、もう誰も居なかった。
助左は四人の手下を連れている。
皆、猫のように音を立てずに歩く。
「今日は、月見櫓で茶道具の競売が開かれるのです。手前どもは、そちらに回らねばなりません。どうか隣にある天守閣に隠れていてください。前田殿も、おっつけ見えるはずです。」
こちらに注意をひきつけておきますから、その間に若君をお逃がしください、と言った。
「有難う。」
菊は礼を言った。
「どうってこたぁ、ありません。」
助左が笑った。
「女房がお世話になっておりますから。」
去っていく男を見送りながら、菊は言った。
「良い男じゃない。紅ったら、果報者ね。」
猿若は小さく笑った。
2018年2月12日 相関図 アップしました。