第112話 Trickster
何々大臣、何々の守、と皆、偉そうな肩書を持っているし、立派な衣装で着飾っている。押し出しも堂々として申し分ない。
けど中身は、昨日戦場で槍を振るっていた暴れん坊のまんまなので、ちょっとでも酒が入ると、もういけない。
部屋の真ん中に仁王立ちになって、刀の柄に手を掛けて怒鳴りあう二人を、周囲が必死になって分けるのは日常茶飯事だ。
でも今日は、まだ酒が一滴も入らないうちに、
「斬るっ!」
と怒鳴っているのは権中納言で、その肩にしがみついて必死に止めているのは従一位太政大臣だ。
「今日こそは許せん!そこへ直れっ!」
「ちょっと、落ち着いて……。」
うんざり。
(やってくれるわ)
周りは総立ちなのに部屋の真ん中で一人、すまして畳に手をついている男の頭を眺めて思う。
(何なんだ、この髷)
本人は頭を深く下げているのだが、髷だけ、あさってのほうを向いている。
礼をしている、けど、していない。
まるで本人の心根がそのまま形となって現れているよう。
(ようもまあ、次々と)
妙なことばかり、考え付く。
(コイツの頭の中はどうなっているんだ)
こっちの考えを拒否するような、髷。
「我らは、太閤殿下の御為に働いとるのじゃぞっ!」
男の叔父が怒鳴る。
戦場で鍛えた大声を耳元であげられると、こっちの鼓膜が破れてしまいそうだ。
「何じゃ、その髷はっ!そちのようなふざけた男は見たことないわっ!見ろっ、この肉をっ!虎の肉じゃぞっ!」
いい加減小言の種が尽きたのか、頭に血が上ってしまったのか、妙なことを言い出した。
「休戦状態になっても皆、太閤殿下の滋養強壮の御為にと、虎狩りをしとるのじゃっ!今日はそのお相伴に預かろうて、皆で集まっとるのにっ!」
膳に載っている皿を指して、吠えた。
「そちは、なーんにもしとらんじゃないかっ!」
「では私は、虎を生け捕りにしてみせましょう。」
しらっと言う。
「もとより虎にも、明にも、何の恨みもございませねば、朝鮮に渡ることもございませんでしたが」
あーっ、ここにいる全員が思っていても誰一人言い出せなかったことを、どさくさ紛れに何気なく、さらりと言いやがってっ!
「太閤殿下には象、鸚鵡、ジャコウネコ、馬、牡牛など様々な動物を贈られておいでとか。私めがその中に、虎を加えて進ぜよう。」
何言い出すんだ。
あんな凶暴な動物を、生け捕りだなんて。
そんなこと出来ないから皆、殺して肉にしているのに。
すかさず太閤が言った。
「よう言った。では頼む。虎を捕まえて来い。」
ああ、年はとりたくないものだ。
息が切れる。
もう又左{利家}を抑えきれない。
「そちゃ、とりあえず、下がれ。」
ははっ、とかしこまる慶次郎を見ながら、言った。
「踊りじゃ、踊りじゃ、踊りの一座を呼べ。皆の者、虎の肉を賞味するとしよう。」
慶次郎は下がりながらふと、舞台に並ぶ一座の中の一人に目を留めた。
「まずいな。」
独り言を言うと、姿を消した。
城、と名の付くものに入るのは久しぶりだったが、菊が知っているそれとはもう大分違ったものになっていた。
驚いたのは、畳敷きの部屋が多いということだった。
菊の知っている躑躅ケ崎も春日山も、板の間が殆どだった。大広間からして黒光りのする板敷きだった。
でもこの城には、黄色い畳を何十枚も並べて襖で仕切られた部屋が、何処までも続いている。畳には細くて美しい草筵で金や絹の縁がつけられている。
襖も調度品も、華やかな狩野の筆で埋め尽くされている。狩野の屏風も又、この部屋に合ったものに違いない。
周りは全て敵だった、部屋さえも。
くじけそうな心を懸命に支えた。
屏風の搬入を済ませると、店の者たちに帰るよう言った。
「じゃ、手はずどおりに、ね。」
皆、心配そうに別れを告げて出て行った。
菊が一人になったのを見計らったように、猿若が姿を現した。
「松のほうはどう?」
「踊りが済んだので、皆を帰しました。」
「松も帰ったでしょうね?」
「いや、それが……。」
猿若が言いにくそうにするので、菊は青ざめた。
「大体、何で慶次郎は来ないの?」
「ちと、問題が起きましてな。」
舞台は長さ六丈{約十八メートル}、幅二丈五尺で、床下には数多くの柱が並んでいるのが見える。巻き柱になっていて、欄干には最上の漆が塗られている。金箔を貼り付けた瓦で屋根を葺き、柱・欄干の一部・石畳も金箔で覆っている。
その上で繰り広げられた踊りは華やかで素晴らしいものだった。
皆、河原の見世物なんぞ見に行かないから、『阿国一座』の芝居を見るのは初めてだ。先ほどの揉め事などすっかり忘れて、楽しんだ。
出し物が全て終わって宴会になったが、その真ん中に、おかめの面を被った者が入ってきた。
部屋の外から聞こえてくる笛の音に合わせて、達者に踊る。
見事な踊りに皆、見とれた。
おかめはしなを作って、太閤のほうへ寄っていく。
とそこへ、ひょっとこの面を被った者が飛び込んできた。
おかめともつれ合うようにして、これも又、達者に踊る。
まるで太閤に惚れたおかめに、焼きもちを焼いているようで、皆、大笑いした。
「邪魔するな。」
おかめが小声で言った。
「やめろ。」
ひょっとこが身体を寄せながら囁いた。
「松殿はどうなる。」
おかめは言葉にならず、唸った。
おかめが太閤に手が届くまでに寄ったと見るや、ひょっとこは太閤の膝に腰をかけてしまった、と見えたが、ほんの少し腰を浮かして、滑稽に踊る。そればかりか、太閤の肩に袖を掛けて愛情を示した。どうやらおかめを太閤に近づけまいとしているうちに、自分が太閤に惚れてしまったらしかった。
皆、大爆笑した。
おかめは太閤に近づくことをあきらめ、部屋の外に踊りながら去っていく。
ひょっとこがその後を追おうとすると、太閤が声を掛けた。
「前田慶次郎、そこへ直れ!」
大音声に、その場の空気が一遍に、ぴしり、と締まった。
「ははっ!」
ひょっとこの面を取ると、慶次郎は太閤の前にかしこまった。
「先ほどからの御無礼の段、ひらに御容赦下されい。叔父上にも、御心を煩わせたもうたこと、お詫びいたす。」
負けず劣らず大音声で言うと、一分の隙も無い作法で、手を突いた。
先ほどの妙な髷も解いて結いなおし、髪一筋の乱れも無い。
いつもの派手な扮装ではなく、上品で折り目正しい生絹の直垂を身に着けている。
水際立った男振りだった。
秀吉が笑い出した。
「この太閤をも恐れぬその所業、いや天晴れ、天晴れ。そちのやることはこれから天下御免といたそう。この太閤のお墨付きじゃ、日本はおろか、唐、天竺までも行って、思う存分暴れてこい!」
「ははっ。」
慶次郎は、しずしずと下がっていった。
秀吉は不満そうな利家を招いて囁いた。
「どうじゃ、わしも太っ腹であろう?」
「殿下ぁ……。」
あんな猿芝居、と言いかけて、飲み込んだ。
「許してやれ。そちが奴をぶった斬ったら、真新しい畳を替えねばならんではないか。それに」
扇で口元を隠した。
「あのおかめ、短刀を呑んどった。あやつはわしを救ったのよ。皆にわからぬようにな。」
小姓を呼んだ。
「曲者じゃ。探して、斬れ。」
惣蔵は舌打ちしながら、おかめの面を投げ捨てた。
松が現れて、すっと寄り添う。
「これからどうするの?」
「そなたは帰れ。足手まといだ。」
「ついていく。」
押し問答している時間も、もったいない。
惣蔵は松が梃子でも動かないのを見て取って、小走りになった。
松も必死で追いすがる。
「俺の手下が捕まっている。」
惣蔵は言った。
「あいつらを解放して一騒動起こしてやる。」
「達丸も居るのね。」
「いや、別の所だ。そっちはあの忌々しい、ひょっとこ野郎が向かっていることだろう。」