第110話 月に叢雲
菊は、揚羽が家の中に入った後も独り井戸端で、空にかかる月を眺めていた。
雲の流れが速い。
明日は天気が崩れるかもしれない。
気配がして、菊は振り向いた。
男の長い影が射している。
「来ると思ってた。」
菊が笑いかけても、慶次郎は表情を崩さない。
「怒ってる?」
「怒ってるに決まってるだろう。」
にこりともしないで言った。
「二人で生きていこうと言ったとき、断るにしても、即答ってのは無いだろう。少し待って、とか、ちょっと考えさせて、とか、何とか言って欲しかった。」
冗談めかして言っているが、目は笑っていない。
相当傷ついているようだった。
菊が黙っていると、
「まあ、いいや。」
ため息をつくと、優雅に西洋風のお辞儀をした。
片膝を突いて、菊の前にかしこまった。
彼女の右手を取って、言う。
「俺は、姫君のカヴァリエーロだ。」
(騎士……)
「たとえ受け入れられることが無くとも、貴婦人に対しては絶対の忠誠と、至上の愛を誓う。とっくの昔に滅び去ってしまった人種だそうだ。」
強い目で彼女を見た。
「姫君、何なりとお申しつけを。飛べって言ったら、飛ぶ。」
彼は死ぬ気だ、と思った。
(彼が死んだら)
あたしも生きてはいない。
「飛べ。」
菊は言った。
「Volentieri.」
慶次郎は微笑むと、彼女の手の甲に口づけした。
「じゃ、城でな。」
立ち上がろうとした。
「待って。」
彼の首に腕を巻くと、すばやく唇を重ねた。
「あらかじめ、御褒美。」
菊は振り返らず、家の中に入っていった。
彼は取り残されて、暫く立っていたが、ヒュゥッと口笛を吹くと、足取りも軽く去っていった。
夜半、ふと目を覚ました。
足元に座る影がある。
松は静かに身を起こした。
「武士だったら」
彼はくぐもった声で言った。
「親の仇を討つのは当然だ。だからどうしても、仇討ちをさせてやりたかった。」
松が黙っているので、惣蔵は独り言のように続けた。
「天目山で、お屋形さまは、太郎{信勝}殿がまだ元服をお済ませでなかったので、急いで陣中にあった『楯無』をお着せになり、儀式をお済ませになった後、自刃なさったということだ。武田は強かったから、まさか後の無い戦をすることになろうとは思わなかったのだ。俺も自信があったから、自分さえ自由の身ならば、いつでも達丸さまを助け出せると思っていた。しかし今回、配下も皆、捕まってしまった。自分一人ではどうしようもなかった。」
きりきり、と歯噛みする音が小さく響いた。
松は口を開いた。
「二条御所が焼け落ちた夜、あたしは城介{織田信忠}殿にお会いした。」
惣蔵には言っていなかった。
愛する男に、元カレの話をする必要は無い。
「甲斐であんな残酷なことをして、鬼か蛇か、と思った。もうすっかり人が変わってしまったのかと思っていた。でも実際お会いしてみたら、昔のままの奇妙丸さまだった。皆、普通の人間なの、普通の平凡な人間が、たまたま時流に乗って上がっていくのよ。」
惣蔵はじっとうずくまっている。
「総見院{織田信長}が居なくなって、これで重石が取れた、と思ったら、あっという間に太閤が取って代わった。で、状況は前より悪くなってる。太閤が居なくなったら又、すぐ次が出てくるだけよ。考え方を変えるしかない。」
松は惣蔵に向き直った。
「でも、あたしはあなたに協力する。もう覚悟は出来ているわ。ただ、家臣たちの犠牲は避けたいの。」
懸命に言葉を継いだ。
「あなたは武田の一族ではないのに、武田の為に尽くしてくれている。でもあたしも姉上も、気持ちの整理はついているの。これ以上、あなたのように、武田の家の為に傷つく人を増やすのは避けたいわ。」
惣蔵は押さえた声で言った。
「朝鮮は日本よりだいぶ北にある。冬は寒かった。特別多く雪が積もるわけではないが、風が冷たいんだ。皆、爪先に唐辛子を入れて暖を取った。あったまるわけじゃない。痛痒いから気が紛れるんだ。そんな時いつも思うのは、そなたの肌の温もりだった。」
顔を背けた。
「恋しかった、そなたが。」
松は黙って男を抱き寄せた。