第109話 御旗・楯無
どのくらい眠ったのだろう。
瞳に白い光彩を描き入れると、筆を傍らに投げ捨てて、そのまま倒れて、気絶するように眠ってしまった。
気が付くと、枕元に松が座っていた。
珍しい。
今まで工房に足を踏み入れたことなんて無かったのに。
「描けたのね。」
黙って頷いた。
「あたしに絵の良し悪しはわからない。」
松が言った。
「でも自分では、納得してんのね。」
又、頷いた。
「じゃ、よし。」
松も頷いた。
「ぎりぎり間に合ったわね。屏風を仕上げたら、身を清めて。出陣式をしましょう。」
「出陣式?」
菊が驚くと、松は言った。
「自分が、うわごとで言ってたじゃない。これは戦だ、戦だって。戦だったら、出陣式をしなくちゃ。」
まさか、本当に出陣式をするとは思わなかった。
けれど松は、いたって真面目だ。
屏風の本体は出来上がっていて、彼女の絵を待つばかりになっている。
職人に渡した本紙が屏風に仕上がり、菊が風呂屋から戻ってくると、もう夜もすっかり更けていた。
妹は揚羽に手伝わせて、準備を済ませていた。
工房を綺麗に片付けて、正面に『御旗』と『楯無』を置いて、一同が居並んでいた。
『御旗』と『楯無』は武田家伝来の家宝だ。
『御旗』は、後冷泉天皇が甲斐武田家始祖・源義光に下賜された日章旗であり、『楯無』は、その堅牢さゆえに楯も要らぬほど、という理由から名づけられた、やはり義光由来の鎧だ。この二つは対で、家中では神格化されており、出陣のときには、これらの前で誓いを立てるのが常だった。立てた誓いは、当主でも破ることが出来ず、全員が死をもっても守らなくてはならない。
その家宝も今、どうなっているか、菊は知らない。
ここに並んでいるのは勿論、本物ではない。
『御旗』は、松が知る辺に頼んで何処かで染めさせた物、『楯無』は、新兵衛が折った紙を器用に貼り合わせて、それらしく作ったものだ。
皆、その前に黙って座っている。
屏風作りを手伝ってくれた職人たちに害が及ばぬよう、心許りの礼を渡し、暇を出したので、残っているのは松の一座も含め甲斐以来の仲間のみだ。
その後ろには、達丸が心配だ、と言って離れたがらない平助が座っている。
驚いたのは上座に一人、ぽつねんと信虎がいることだった。
揚羽が椅子を用意したらしく、そこに座って、置物か何かのように目を閉じている。
「お祖父さま。」
菊が声をかけると、静かに目を開けた。
「わしも連れて行ってもらおうかと思っての。」
「連れてくって、お城に?」
菊は耳を疑った。
「お祖父さま、まさか、達丸を助けに?」
信虎は歯の隙間から息を漏らした。
笑ったんだろうか。
「わしは城を見に行くんじゃ。もうこんな機会は無かろうて。」
真面目な顔をして言う。
「一度、天下人の座とやらに座ってみようと思っての。」
「姉上。」
松がかしこまって言う。
「遅くなるから。」
「では……お祖父さま。」
菊が座を譲ろうとすると、信虎はギロリと目を剥いた。
「そちが当主じゃ、やれい。」
有無を言わせぬ声音で言う。
見られているという意識ですっかり固くなった菊は、ぎくしゃくと正面に立った。
視線が一斉に注がれる。
「言っておきたいことがある。」
菊は胃がせり上がってくるのを感じながら言った。
「事情は知ってのとおりだ。都で雇った者には全て、暇を出した。そなたたちにも暇をやろうと思う。無駄死にする必要は無い。かといって心苦しく思う必要も無い。今日まで一緒にやってきてくれたことだけでも、十分有り難く思っている。今日からは自由だ。感謝する。」
頭を下げた。
松も一緒に頭を下げた。
皆も一斉に礼をした。
が、誰も立ち上がろうとしない。
傍らに揚羽と共に控えていた新兵衛が、発言を求めた。
「我らは既に話し合いました。」
一礼して言う。
「お供します。何処までも。」
「去るなら、甲斐を出るとき、とっくに去っています。」
妙をんも言う。
「我らは故郷を捨てました。もう、ここが故郷です。」
菊も松も、頭を上げることが出来なかった。
ただ、皆に感謝するばかりだった。
全員で盃を交わした。
正式には総大将のみが、三宝に載った三献の酒と、肴の打ち鮑、勝ち栗、昆布を口にするのだが、菊が、
「私は父上のような絶対的な当主ではない。私が今日あるのはそなたたちのお陰だ。皆で盃を交わして、結束を固めよう。」
と言ったのだ。
菊は正面に飾られた二つの家宝に向かって拝礼すると、言った。
「御旗、楯無、御照覧あれ。我らは一体となり、この難に立ち向かうことをお誓い申す。御旗、楯無にお誓い申したことは決して違えませぬ。」
又、一礼すると、皆に向き直った。
菊は盃を飲み干すと、出来るだけ低い声で、
「えい、えい」
「おう!」
家臣らが、大きな声で応えた。
菊は盃を地に打ちつけ、粉々に割った。
続いて、酒を飲み干した家臣らが盃を打ちつけた。
解散した後、菊は、揚羽を井戸端に呼び出した。
「そなたには、ここに残って欲しいの、新兵衛と一緒に。」
「姫君、何をおっしゃいます。」
揚羽ははっとした。
「万寿丸のことでしたら、お気遣いは御無用にございます。お家の一大事に、惜しむ命などございません!」
揚羽は去年、子を産んだ。
丸々太った元気な男の子で、菊が名付け親になり、やれ笑った、泣いたと、店の者や一座の者から大層可愛がられている。
言い募る揚羽を制して、菊は言った。
「もし、何かあったとき」
揚羽の顔を見て、慌てて付け加えた。
「何も無いけど。でも、誰か残って欲しいの。後の面倒を見てくれる人が居ると、安心だから。そなたが一番信用できるからこそ、残って欲しいのよ。」
菊は梃子でも動かず、揚羽は諦めた。
「姫君、お待ちしていますから。必ず、帰ってきてくださいね。」
揚羽の手を取った。
「有難う。そなたが居てくれて、良かった。」
主従はしっかりと手を握り合った。