第9話 御館
道具箱を後生大事に抱えた菊は、城の中を彷徨っていた。物陰に隠れて往来する兵をやり過ごしながら、当て推量で進んでいく。
そのうち、庭に出た。池の中に松の生えた石組みがある京風のしゃれた庭園だ。小さいながら滝まで備えている。
(ここは御館だ。前関東管領、上杉光徹{憲政}殿の住居)
住居、といっても武士の館だ、約百五十メートル四方に堀と土塁を巡らした立派な城である。
ここで館の主について簡単に述べる必要があるだろう。
南北に長い日本を統治するにあたり、時の幕府は東と西に政庁を置いて、列島を二分した。東に鎌倉公方、それを補佐する関東管領。実務は一切、関東管領が取り仕切った。
しかし前関東管領・上杉憲政は、前のお屋形・謙信を頼って越後に来た。小田原の北条氏の勢力が強くなり、関東に居られなくなったのだ。憲政は保護してもらうかわりに、関東管領職と上杉の名跡を謙信に譲った。謙信は、かつて府中に置いていた政庁の跡地に、憲政の屋敷を建ててやった。
それだけに北条氏の強大さと怖さは身に沁みているのだろう、憲政は争いが生じるや否や、真っ先に景虎に肩入れし、彼を自分の館に入れたのである。
人気の無いのを確かめて菊は庭へ降りた。
背後の障子がすうっと開いた。
振り返った菊は腰が抜けそうになった。
そこには七尺以上ありそうな大男が立っていた。
菊は木立や石組みを避けながら必死で逃げ回ったが、歩幅では適わない。あっという間に追い詰められた。
大男が彼女を捕まえようと長い腕を伸ばしたその時、飛礫が飛んできて大男の額に当たった。
大男がひるんだその隙に素早く走ってきて、菊との間に立ちふさがった男がいる。
大男は背に背負った大太刀を抜いて振りかぶると、太刀風と共に振り下ろしてきた。その胸元に男はさっと飛び込んだ。相打ちかと見えたが、ぱあっと血飛沫があがると、相手の身体はぐらりと傾いて仰向けに倒れていった。
男は息ひとつ切らしていない。刀に付いた血を懐紙で拭うと、落ち着き払って鞘に収めた。
「そなた、武田の姫か?」
「あなた、誰?」
敵では無さそう、だが。
「俺か?俺の名は梅ケ枝慶次郎。」
白い歯を見せて笑うと、芝居がかって大袈裟な身振りで、うやうやしく頭を下げた。
菊は礼を述べた。
「命の惜しくない人のようね。」
眉を上げて、ふふんと笑った。
「生きるだけ生きたら、死ぬだけさ。」
何者なのだろう。
すらりと背が高く体格がいいのに動作は機敏で、地味な身なりなのに着こなしはどことなく粋で、くだけた物言いのわりに下品な感じはしない。何だか本人が見せようとしている像と本当の彼はまるで逆のようだ。
何かに似ている、何だっけ……と考えて、思い当たった。
躑躅ケ崎の館の広間の襖の絵。
京の名人が描いたという漢画の虎。
竹林の中から今にも飛び掛らんばかりの、咆哮する獣の王の姿だった。
敵で無ければとりあえず、味方だと思うしかなかった。
慶次郎と名乗った男の後を付いて行きかけた菊は、いくらも行かないうちに
「あっ、しまった!」
叫んで元の場所に戻った。
逃げ回っている間に箱を手放してしまっていた。
菊は跪いて大事に箱を抱えた。
慶次郎は後ろから無遠慮に覗きこんで、
「全く、女って何でも持っていかなきゃ気が済まないんだな、着物だの、化粧道具だの。何だ、それ。」
「絵の道具。」
「へえ。そりゃ又どうして。」
彼女を後ろに庇いつつ、辺りに注意を払いながら進んでいく。
「これは叔父さまの贈り物なの。私、今から元敵国に嫁って、自分に似合わない仕事をしなきゃならないの。でも、何処へ行こうと、何があろうと、私は私でいたいから。これはその為のたった一つの縁なの。」
「ふーん。変わってんな、ほんとに武田の姫か?」
「姫じゃなかったらどうするの?」
慶次郎は立ち止まった。
「助けるのは考え物だな。」
「えーっ、何故?」
「だって、褒美が出ないだろうが。」
「んまあ……。」
何、善意で助けてくれた訳じゃあなかったの?
「侍女だったら、そのうち放してくれるさ。そうだ、考え方を変えたらどうだ?三郎は三国一の美男子だし、側室でもいいからっていう女はゴマンといるぞ。」
「もう遅いわ。」
菊はきっぱりと言った。
「私もう、酔っ払いは嫌いって言っちゃった。それに私、本当にお姫さまだから。」
慶次郎は菊の頭をぱっと押さえ、自分も身を伏せて番兵をやり過ごすと、おもしろそうに菊を眺めた。
「本当に変わってんな。男だって、その気のある連中はくらくらになる三郎のこと、何とも思わないのか。」
「何で?顔がいいからって、善人と決まった訳でなし。」
「ま、確かにな。人柄まではわからないが。」
「それに何で、仮にも一国の主ともあろう人の、顔や愛想が重要なの?」
菊は不思議そうに言った。
「大事なのは、如何に皆を統べるか、国を何処に導いていくかでしょ?私の父上は少なくとも、顔で当主になった訳ではない、と思う。」
慶次郎は思わず吹き出した。
ふいに菊の脇の板戸が向こうへと開いて、伸びてきた腕が彼女の手を掴んで引き込もうとした。
間髪入れず、慶次郎の短刀が相手の喉に押し当てられる。
が、相手はひるまない。
「刀を引け。助かりたいなら、俺の言うとおりにしろ。」
押し殺した声で慶次郎を叱りつける。
その顔を確かめて、菊は驚いた。
「やめて、慶次郎。あなたは確か……。」
「道満丸だ。助けてやるから、まず、その刀を納めよ。」
広間で景虎の脇に控えていた子供だった。
慶次郎はまだ刀を引かない。
「これはこれは。若君御自ら、捕り物におでましか。ちょうど良い証人になるな。」
「俺は証人などにはならぬ。」
「ねえ、慶次郎、止めてよ。そんなもの当ててちゃ、話ができないわ。」
菊が言うと、慶次郎はようやく刀を納めた。
「こっちだ。番兵が少ない。」
道満丸は菊の袖を引っ張る。
その手を慶次郎が押しとどめた。
「とかいって、ついていくと兵士に取り囲まれて、なんてことになるんじゃないか?子供とはいえ、そなた、仮にも敵の大将の一人だろう?」
道満丸はきっぱりと言った。
「だましたりはしない。早く出て行って欲しいのだ。ただそれだけだ。」
「なぜだ?姫君をむりやり連れてきたのは、そっちの方だろう?」
先ほどの大男ほどではないにしろ、慶次郎も、この頃の平均身長からすると相当高い方だ。
その彼に見下ろされても、道満丸は全く臆しない。普段上からものを言い慣れている人間らしく、菊に向かって言う。
「そなたをさらう計画は、父上がたてたものではない。配下の者が勝手にやったことだ。でもそなたがこの屋敷にいる限り、父上は……父上は、そなたを証人としなければならない。」
「ほう、証人を取るのが嫌か。」
慶次郎が、珍しいものでも見るように、まじまじと少年を眺めた。
「嫌だ。そんなのは卑怯だ。父上を卑怯者の大将にするのも嫌だ。だから、そなたらには、さっさと出て行ってもらいたいのだ。」
少年は頬を赤くし唇を引き結んだ。
「俺は正々堂々と戦いたいのだ。」
慶次郎は鼻で笑った。
「源平合戦の頃ならともかく、隙あらば寝首をかかれるこのご時世に、正々堂々と戦いたいとは……とんだお坊ちゃまだな。」
「何が悪いか。」
道満丸も負けずに言い返した。
「人間が獣のようにいがみあい傷つけあう世の中が、正しくあってたまるか。」
「ねえ、もういいでしょう。」
菊がはらはらして二人の間に入った。
「こんな所で言い争いをしている間に捕まっちゃうよ。若君、あなただってこんなことして、ただでは済まないわよ。」
「わかっている。」
道満丸は急に黙り込んだ。幼い表情になった。
「そなたはさっき、満座の中で父上を、ののしった。もう、あんな事を言って欲しくないだけだ」
その時はじめて菊は、彼の手が細かく震えていた事に気が付いた。
道満丸は、建物の脇をすり抜けたり、床下をはい進みながら、二人を土塁の脇へと案内していった。
「左に進むと厩がある。館を出て真っ直ぐ行くと府中の町だ。」
「一つ言っておくが」
慶次郎が言った。
「そなたのやり方を相手も同じやり方で返してくれるとは、ゆめゆめ思わぬようにな。」
道満丸は、それには応えず言った。
「言伝を頼まれてくれないか。」
「いいわよ。」
「春日山の城に俺の女がいる。」
「女?」
友だちだろうか?
「泣くな、きっと又会える、身体をいとえ、と。」
「わかったわ。名は?」
「あの城で一番威張っている女だ。」
笑った。
「すぐわかる。人が来る。さあ、早く行ってくれ。」
さっと走っていった。菊が礼を言う暇も無かった。
厩にたどり着いたが、人影が無い。
「私は絵を描くために、しょっちゅう館を抜け出してたから、侍屋敷のどの辺に何人くらい番兵が配置されているか大体見当がつくわ。それにしても要の所に兵の姿が無いのよ。どうしてかしら?」
藪の中から、足軽が一人、弓矢で菊を狙っていた。でも、背後から忍び寄った何者かに喉をえぐられて、音も無く崩れ落ちた。
慶次郎は、よしよし、と声を掛けながら、次々に馬を解き放ち始めた。