第105話 伏見城
(描けない。どうしても)
もう何日も筆を取ることが出来なかった。
何を描いてよいのかさえ、全く頭に浮かばなかった。
菊は毎日、呆然と過ごした。
そもそも、贈答用の屏風には細かな決まりがある。
明の皇帝への進貢屏風は『貼金屏風』でなければならない。日本人にとっては煌びやか過ぎる程、ギラギラ光る屏風だ。
画題は『四季花木』が通例とされている。鶴亀、松竹、鴛鴦・孔雀・鳳凰といった吉祥の生き物を絢爛たる色彩で描くのだ。
その他、屏風の大縁の織物の柄まで、事細かに指定される。
その中には、下張りに反故を使ってはならないという条項まであって、店の職人たちを驚かせた。下張りまで目に触れるはずが無いからだ。ところが、明では、下張りまで調べるというのだ。
「いやあ、どうも、恐れ入りましたね……。」
職人たちは呆れたが、
「明への贈り物を作るなんて、名誉なことだ、あっしら、何でもいたしやす。」
と言ってくれた。
当時の感覚では、屏風は調度品だ。工房での組織的な製作なら通常、数ヶ月もあれば十分作れる、総力を挙げてかかれば、もっとずっと早い。
しかし店に来る職人は日に日に少なくなっていった。達丸が太閤に捕まっていることは、甲斐の仲間以外には伏せられていたが、いつのまにか店中に噂は広まっていき、一人減り、二人減り、それにつれて、店を訪れる客も減っていって、なんだか店が広くなったようにさえ感じられた。がらんとした店内のあちらに一人、こちらに一人、仕事が無いのでぼんやりしている姿が見られた。
肝心の菊の筆は、一向進まない。
(屏風は日本の外交の顔だ)
その顔を、南蛮画で描け、という。
(日本から贈られた絵なのに画法は南蛮風、いいえ、そんなの絶対ありえない)
明は日本を馬鹿にするだろう。
そんな絵が贈答用に選ばれるはずがない。
最初から無理難題なのだ。
(贈答用の屏風は今まで、漢画の狩野が扱ってきた)
日本人はずっと、中国の文化をお手本にしてきた。その日本における、中国系絵画の総本山の家。勿論、中国人に訴えかけるツボを、隅々まで心得ている。
何でも旧例に従うこの世界で、五条の絵屋に勝ち目があろうはずもなかった。
(太閤は、最初からこの店を取り潰すつもりなのだ)
この絵合戦は、菊に恥をかかせ、咎め立てする為の口実に過ぎない。
秀吉は、菊や達丸を武田の残党と知っているのだろうか。
(知っているのだ)
菊は背筋が寒くなった。
(何もかもが罠なのだ)
いつの間にか眠ってしまったようだった。
夜は目が冴えて、なかなか眠れないのだ。つい昼間、うつらうつらしてしまう。
もう太陽は西に傾いて、光が格子窓から斜めに差し込んでいる。
表のほうで、揚羽が甲高い声を上げて誰かと言い争っている。
荒々しい足音が廊下をずんずんと近づいてきて、部屋の前で止まると、いきなり襖が開いた。
「慶次郎……。」
「来るんだ。」
慶次郎は菊の腕を掴んで立たせると、ぐいぐい引っ張って外へ出た。
菊を松風の背に乗せると、一鞭くれる。
今日は弥助も連れていない。
何処へ行くの、と菊が尋ねても答えない。
馬は町の中心ではなく、南へと向かう。
やがてそれは、夕日の中に姿を現した。
「伏見城だ。」
慶次郎が言った。
唐入りが始まった直後に秀吉の隠居後の住まいとして作られたが、生まれた子に大坂城を与えるためと、明の使節を迎えて国威発揚するために、秀吉の本城として作りかえられた。今年になってから、二十五万人を動員して、昼夜兼行の普請により、わずか五ヶ月で完成した。宇治川を天然の外堀として、幾重もの堀に囲まれて、金箔を貼った瓦屋根が、夏の光に照り映えている。どこもかしこも真新しい、木の香が漂ってきそうな城だ。
「達丸は牢の中だ。」
「達丸は、達丸はひどい目にあっているのかしら?」
菊は夢中で尋ねた。
慶次郎は首を振った。
「人質に傷はつけない。でも、あくまで人質だ。この先どうなるかは、その人質の価値による。」
甲斐にはもう武田の味方はいない。
武田が滅んだ後の支配権を、徳川と北条が争い、遺臣たちは、家康が全て掌中に納めたと聞く。
「味方なんて、あたしたちだけだわ。」
胃の腑をを締め付けられるような絶望がよみがえった。
同じだ、武田が滅んだ、あのときと。
(もう駄目だ。何もかもお仕舞いだ)
遠くから鳥の声が聞こえてきた。その声はあっという間に大きくなっていく。
鳥の大群が見る見るうちに空を覆って、あたりはザアーッという鳥の鳴き声と羽ばたきで一杯になっていった。
椋鳥の群れだった。
昼間、あちこちに散らばって餌をついばんでいた椋鳥たちは今、隊列を組んで、山の塒へと帰っていくのだ。
その鳴き声が、来たときと同じく、あっという間に過ぎ去っていくのを待って、押し黙っていた慶次郎が口を開いた。
「俺ならば出来る。」
何でもないことのように、さらりと言った。
「えっ?」
「達丸を助けだすことが出来る。」
「ほんと、ほんとに?」
菊は慶次郎の襟にすがった。
「又、冗談を言っているんじゃないでしょうね?」
「闇夜に紛れて達丸を牢から連れ出してくることも出来る。だが」
彼の目は、今まで見たことも無いほど真剣だった。
「姫君は全てを捨てなければならない。自分の身分、今まで築き上げた店の信用、人との繋がりを全て。それが出来るか?」
菊は絶句した。
(そうだ、天下の太閤に逆らうのだ。その後に待っているものは)
「もうひとところに落ち着く暮らしは出来ない。太閤は全国を手にしたんだ。他人との接触は一切絶ち、何処か人里離れたところで暮らす。姫君にその覚悟はあるのか。」
慶次郎は言葉を切った。
「もし姫君がお望みならば、俺にはいつでも覚悟は出来ている。」
いつもの気まぐれでフザけてばかりいる彼とは別人のようだった。
これが彼の本当の姿なのだ、と思った。
何処へでもいい、愛する人と逃げていけたら、恐ろしい独裁者の手の届かないところへ。
でもそうしたら、残された人たちはどうなるんだろう?
店の人々は?
松の一座は?
彼らは、彼女が一番困っている時、傍に居てくれた人々なのだ。
(あたしには、皆を見捨てることなんて出来やしない)
「慶次郎。」
喉に舌が張り付きそうだった。
やっと言った。
「あたし、もう迷わない。描くわ、屏風を。」
「そうか。」
慶次郎の目の中に何かが、ちらと掠めたような気がした、が、すぐにそれは消えた。
「よし、そうと決まったら、一刻も早く戻って、描け、立派な絵を。」
快活に言った。
菊はふいに気づいた。
あたしは殺されるかもしれない。
そうしたら彼はどうなるんだろう?
「約束して。」
菊は言った。
「あたしにもし何かあったとしても、人生を投げないで。」
「姫君に何かなんて無い。」
慶次郎は素早く言った。
「俺が守る、姫君は心配しなくていい。」
「聞いて。」
強く言った。
「朝、ちゃんと起きて。ご飯、ちゃんと食べて。お酒、飲み過ぎないで。喧嘩ばかりしないで。命を大切にして。」
「何かなんて無いから。」
彼女の腕を掴んだ手が微かに震えている。
「頼むから」
まるで溺れる人が摑まっているようだ。
「そんなこと言わないで。」
「あたしは心配なの、あなたが。」
彼の手を腕から外すと、掌で包み込んだ。
「生きて。あたし無しでも。」
彼は彼女の手を振りほどくと、背を向けた。
怒っているのだろうか。
慶次郎は馬を飛ばした。
五条の店に着く頃には、空には星が瞬いていた。
慶次郎は菊が馬を降りるのを手伝ってくれたが、何だか今日はいつもより乱暴なような気がした。彼女が降りた途端、後ろも振り返らず、さっさと帰ってしまった。
後を追いかけて行きたかった、彼の腕の中に飛び込んで行きたかった、でも。
あたしにはやらなければならないことがある。
再び肩に、ずうんと何かがのしかかってきた。
菊はがっくりとうなだれて店の中に入っていった。