第104話 下手右京
「何をたわけたことを。絵合戦、じゃと。」
その夜、上京にある狩野厨子には、一門の長老たちが集まっていた。
ここは狩野の繁栄の元を築いた狩野元信の屋敷で、代々の狩野の頭領の住まいとなっている。皆、普段は、各地に散らばって仕事をしているのだが、それを中断して、わざわざ集まったのである。
秀吉が、五条の絵屋との絵合戦を命じたと聞いて、一同は一様に憤懣の声を上げた。
信長の時代、絵の御用命を他の派の者が承るなど考えられもしなかった。
それが今では、絵師ともいえないような者と競わされるとは。
全てのケチのつき始めは、長谷川一門との争いからだった。
「源四郎{永徳}が死んでから、全くロクなことはないわい。」
永徳のすぐ下の弟の宗秀が舌打ちした。
「五条の絵屋、か。成り上がり者のくせに、いい気になりおって。」
「以前、うちの若い者たちが、会所に押しかけて、屏風を破ったまではいいが、勢い余って山の懸飾まで引きちぎってしまったときには、いくら何でもやり過ぎだと思いましたが、すぐ修復してしまって。かえって評判になってしまったのは、しくじりましたな。」
応じたのは一門の山楽だ。
これは本来、狩野の血筋ではないが、腕があまりに良いので養子となり、一門の上席に連なっている。
「それにしても贈呈の屏風は、公方の時代から、我ら狩野が独占していたものを。太閤はもう狩野を見捨てるつもりじゃろうか。」
不安そうに言ったのは末の弟の長信だ。
宗秀は鼻でせせら笑った。
「何の、相手は一介の絵屋ではないか。いっそ、あの手を使っても良いのだ。」
声を潜めた。
「あの手って……。」
長信は驚いた。
「兄者、ではあの噂は本当か。去年、長谷川の倅が死んだのも、まさか……。」
「花見の喧嘩がもとだと聞いておりましたが。」
山楽も初耳のようだった。
宗秀は酒をすすった。
足を崩して脇息にもたれかかり、くつろいで座っている姿は亡き永徳に生き写しだ、と長信は思う。すぐ上の兄を慕い、その荒々しく豪放な筆跡も永徳とそっくりだといわれる宗秀兄は、他派に対する戦闘的なあり方まで、そっくりそのまま尊敬する兄を真似ようとしているようだった。
「ふん、知らなんだか。」
宗秀は嘯いた。
「言いがかりをつけて闇討ちしたのよ。その手の仕事を、端金で引き受ける手合いは今の世の中、幾らでもゴロゴロしておるからな。」
「まあいっそ、そうしてしまったほうが手軽ではあるでしょうが。」
山楽があまり気乗りしない言い方をした。血縁では無いので、今日集まった者の中で腕は一番といっていいのに、諸事、遠慮がある。
「とんでもない。」
皆、一斉に声のしたほうを見た。
きっぱりと言い切ったのは、今まで一言も口を利かず、居るのか居ないのかわからない風情で、部屋の片隅に控えていたこの家の主人だった。
「相手は女子ではありませんか。そこまでしなくても……。」
皆の視線を浴びて、だんだん、語尾が消えていった。
「ほう、そう言いきるか。それでは、そちが対戦するが良い。狩野の当主はそちなのだからな。」
宗秀が皮肉っぽく言った。
光信はうつむいた。
「ふん、馬鹿馬鹿しい。」
宗秀はぐいと酒をあおり、立ち上がった。
一同、鼻白んで帰り支度を始めた。
皆、どやどやと出て行った。
光信は部屋に一人残された。
主人として見送りに出るべきだったが、身体が動かなかった。
長老たちも、彼の顔を見るのを望んでいないに違いなかった。
玄関のあたりで、妻女や門弟が応対している声や物音がしている。
「兄者、大丈夫か。」
次の間で、はらはらしながら控えていたすぐ下の弟、孝信が声をかけた。
「叔父貴の言いたかったことはわかっている。」
光信は言った。
今日、一門の者が、忙しい身でわざわざここに集まったのは何の為か。そちが狩野の後継者として頼りない為ではないか。そちの父が命をかけ、一門の者が手を汚してまで守りぬこうとしている名門・狩野を、そちは汚すつもりか。
(下手右京)
自分が陰でそう呼ばれていることも知っている。
冷めて乾いた料理が取り残されている宴席で、盃に酒をついで、ぐいと飲み干した。
「私はどうしても親父殿のような絵を描くことは出来ない。」
孝信に言った。
父の絵を否定するつもりは無い。
父の凄さは、誰よりも息子である自分がよくわかっているつもりだ。
「親父殿の絵は殆どが焼けてしまった。」
都やその周辺の、貴族及び武士の屋敷や寺は、何度も何度も戦に巻き込まれた。当然、そこに納められた狩野の作品も被害に遭った。
「あれほど心を砕いて、あんなに労力をかけてやった仕事が今、どれくらい残っている?」
安土の城は、本能寺で信長が斃れたすぐ後、焼け落ちた。それと同時に、永徳とその一門が心血を注いだ絵も調度品も全て、灰になってしまった。
職人なんだから、顧客の言うとおりに仕事するのは当たり前だ。
そんなことはよくわかっている。
「そりゃ、いい金になった、でも、あまりにも虚しいじゃないか。」
権力に擦り寄りすぎている。
父の絵は、向かう敵を力で切り払い、押さえつけてきた信長の時代には合っていた。しかし、まがりなりにも都から戦乱が遠ざかった今の時代に、果たして合っているのか。
宗秀叔父は、父の絵は絶対だと思っている。だから同じような絵を描いている。
でも、自分は。
「むろん調度品だ、使用して破れ壊れるのは仕方ない。でもこれからは太平の世になる、きっとなっていく。そんな時代に、ああいう、上からにらみつけるような絵は不似合いだ。私は、巷の人々に寄り添うような、共に居ると気分が落ち着いてゆったりできるような、そういう絵が描きたいのだ。だから、宰相{孝信}。」
弟に言った。
「私は負けない。五条の絵屋に、じゃない。親父に、だ。」