第102話 鬼哭
明との和平が成った。
ところが実際は、交渉決裂を恐れた小西行長ら現場担当者の一存で、朝鮮の宗主国である明と日本、双方にとって都合のいい偽文書がやり取りされていただけだった。当然、両国とも、自分の要求が通ったとばかり思い込んでいた。
和議の折衝が始まったことで、朝鮮に渡っていた大名たちが少しずつ、帰国し始めた。
毎日のように街道を往来するそれらの侍たちはしかし、その手の行列を見慣れているはずの京雀たちが驚くほど、痩せこけ、やつれ、くたびれきっていた。覇気無く、うつむいて、のろのろと行軍するその姿は、朝鮮での戦が負け戦だったという噂を確実に裏付けるものだった。
松が、舞台の合間を縫って、そういう行列を見に行っているという話は、菊も聞いていた。だからその日の夕暮れ、店の前に、見知らぬ兵士が一人立っているという知らせを受けたときも驚かなかった。揚羽に手足を洗う湯を用意させ、部屋へ通すよう言いつけた。
「よう御無事でお戻りになられた。」
菊の言葉に、惣蔵は黙って頭を下げた。
「もう松にはお会いか?」
「いえ。」
短く答えた。そのことにはあまり触れて欲しくないようだった。
聞き耳を立てていた揚羽は、つと立って台所に行くと、婢女に、小屋へ走って急いで松を連れてくるよう言いつけた。
惣蔵は寡黙だった。いちだんと痩せ、髪はぼうぼうと伸び、顔一面、無精髭に覆われていて、目だけが底光りしていた。着物はぼろぼろで、そのあちこちに赤黒い染みが見えるのは返り血らしかった。全身から殺伐とした気配が立ち上っていて、菊は何を話していいのやらわからなくなって困惑した。
「上杉は奥州攻めに従事したから唐入りは免れていたのだけれど、今度、渡海を命じられることになったそうだ。」
紅から聞いた話をした。
「日本中の兵が朝鮮に渡ることになりそうだな。」
惣蔵は、ふっと笑った。
「無駄なことです。皆、死ぬだけでしょう。上杉に言っておやりなさい。今すぐ逃げろ、と。」
「朝鮮は」
暫く沈黙した後、菊は尋ねた。
「どうなっている。」
「彼の国は」
惣蔵は一言で言った。
「地獄、にございます。」
朝鮮は日本以上に身分制度が厳しく、朝廷の派閥争いも熾烈だった。差別や地方官吏の堕落と圧制によって、朝鮮の民衆は長く苦しめられていた。日本の侵攻によって元々の社会の矛盾が露呈し、支配機構は壊滅し、民衆は暴徒化した。
朝鮮水軍に打ち破られた日本水軍は壊滅状態に陥った。日本軍は糧道を絶たれ、社会が混乱し飢餓が蔓延した現地で糧食を調達することも出来ず、忽ち飢えた。水が合わず、疾病も蔓延した。脚気、鳥目になる者が続出した。戦が長引き冬になると、大陸の厳しい寒さで凍傷にかかり、手足や耳を失う者があとを絶たなかった。
「死者を弔う余裕もなく、各地の寺院に置き去りにしてきました。」
鬼哭啾々の惨状を呈したという。
「でもまだ、我々の状態はましだったのです。朝鮮の人民は疲弊の極致に達していました。」
とりわけ京幾道、忠清・全羅・慶尚道の下三道{朝鮮半島南部}は厳しい状態にあった。
「我々の部隊が、連中が食っている物を取り上げてみると、それは」
惣蔵は何の感情も交えず言った。
「人間の肉でございました。」
廊下に控えていた揚羽がぐっと言って、ばたばた走って行った。
菊も逃げ出したい思いをこらえて、いたたまれなく座っていた。
「姫君、私は間違っておりました。」
惣蔵は静かに言った。
「この戦は間違っております。これは戦ではございません。先代のお屋形さまが定められた『甲州法度之次第』には、もしお屋形さま御自身に非があった場合には『貴賎を選ばず、目安をもって』訴えるようにという条文があります。でも今、太閤が行っている政治に、そのような視点がありますか。これは私怨ではない。世を私しているのは太閤です。あのような者が天下を取ったこと自体、間違いなのです。」
「それはそう思う、けど……。」
この男は一体、何処へ話を持っていこうというのだろう。
菊が不安になったその時、惣蔵は切りつけるように言った。
「達丸さまはお屋形さまのお子、でございますね。」
「惣蔵……。」
「つまりは武田の跡取りでございますね。」
「な、何が言いたいの、そなた。」
「それならば、それにふさわしい在り方があっていいはずではございませんか。」
惣蔵はぐいと膝を進めた。
「もったいなくも、甲斐源氏の宗家の血筋のお方。天下の武将として、ふさわしい生活をしていただく必要があるのではありませぬか。」
「そなたが、達丸の為と思うて、はるばる朝鮮まで渡って奔走してくれた気持ちは真にありがたいと思う。でももう、時代が違う。武田の時代は、とっくの昔に終わった。お家再興は絶望的だ。このまま、市井で静かに暮らさせるのが本人の幸せだと思う。」
「絵師にするおつもりか。」
惣蔵の口調に、冷笑するような響きが混じっているような気がした。
菊はむっとした。
「絵師の何が悪いと言うのだ。そなた、私の生き方にケチをつけるつもりか?」
この男は、あたしがどんな苦労をしてこの店を構えるに至ったか、まるっきりわかっていないのだ。
「もちろん躑躅ケ崎の館には見劣りはするけれど、都でこれだけの店を持つのは、本当に大変なことで……。」
今度は気のせいではなかった。
惣蔵の口元には、はっきりと嘲笑が浮かんでいる。
気が付いたときには、菊は立ち上がって怒鳴っていた。
「去ね!その目で、とくと世の中を見て来やれ!」
「失礼つかまつる。」
惣蔵は、きちんと居住まいを正して一礼すると、さっと立ち上がった。
揚羽が必死になって止めるのを振り払って、惣蔵は、さっと暖簾を跳ね上げて、一歩、店の外へ踏み出した。
そこで、立っていた松と鉢合わせした。
松は派手な舞台衣装のままだった。どうやら舞台を放り出して、飛び出してきたらしい。息も絶え絶えに、肩を上下させている。
強張っていた惣蔵の表情が崩れた。
目が女の姿から逸れて、落ち着き無く地を彷徨った。
「ねえ惣蔵、もういいでしょ、帰ろう、帰ろうよ。」
女が身を震わせて哀願した。
男は無言のまま、女に背を向けて歩き出した。
女は走っていって、その背にすがった。
「お願い、お願いだから……。」
惣蔵はゆっくり、松のほうへ向き直った。
その指を肩から外すと、優しく言った。
「すまぬ。私には他の生き方は出来ないのだ。わかってくれ。」
去っていく男の背中がやがて、人混みに紛れて見えなくなっていくのを、松は呆然と見送った。
いつの間にか、傍らに菊が来て、立っているのに気が付いた。
「どうして……あたしは、好きなひとの側に居られないの?何で止めてくれなかったの?」
松は泣きじゃくりながら言った。
「あの男を止めることは、誰にだって出来やしない。そんなこと、あなたにだって、わかっているでしょ。」
菊は静かに答えた。
長谷川の工房に出かけた達丸が、日が暮れても帰ってこないので、絵屋は大騒ぎになった。店の者や一座の者はもちろん、近所の人々も応援に駆けつけてくれて、あちこち探した。が、天狗にでもさらわれたのか、その消息はぷっつりと途切れてしまった。
菊は半狂乱になって、暫く寝込んでしまった。
松は、誰が達丸を連れていったか、わかるような気がした。そしてきっと又、男が自分の前に姿を現す日が来ることを確信した。
その予感が思いがけない形となって実現するのに、そう時間はかからなかった。