第101話 松林
朝鮮に渡った惣蔵の消息は、杳として知れなかった。
二月、秀吉は関白秀次を連れて、吉野で花見の宴を開いた。金襴緞子で美々しく飾りたてられた三千人の行列を引き連れての、盛んな花見だったが、生憎の大雨にたたられて、歌会も振るわなかった。
ちょうどその頃。
長谷川久蔵が死んだ、という噂が伝わってきた。
菊は達丸を連れて、長谷川の工房に駆けつけた。
久蔵が居た頃は、若主人の気風そのままに、大勢の人が出入りする、明るく活気ある工房だった。でも今日はしんと静まり返っている。
誰もいないのか、と思ったが、部屋を覗いてみると、等伯が一人、つくねんと座っている。
菊と達丸を認めると、入れ、とうなずいた。
板の間に、障壁画の下絵だろうか、薄墨で描いた松の絵をいくつか並べて、その前に座っている。
構図を考えているのだろうか。
(いつもは金や濃紺をたっぷり使った、華やかで大胆で、力強い絵を前にしているのに)
霧の彼方に消え入りそうな松が、ぽつん、ぽつん、と立っているだけの絵。
子を失った親の心象風景を現しているような幽玄な絵に、菊も胸が搾られる思いだった。
菊が居住まいを正してお悔やみを述べるのも、聞いているのかいないのか、視線は彼女を通り越して、あさってのほうを向いている。
さすがの菊も、掛ける言葉に詰まってしまった。
「静かですね。」
当たり障りの無いことを言った。
「皆、名護屋に行っておってな。」
ぽつりと言う。
秀吉は唐入りの前線基地として、九州の名護屋に築城を命じた。名護屋城の障壁画は狩野の若主人が担当したという話を、菊も聞いている。
諸大名もその周りに陣屋を建てたため、人手は足りない。狩野一門のみで到底、全て請け負えない。そこで絵師の有名どころは皆、九州に下ってしまっている。菊が寧々の襖絵を請け負えたのも、その間隙を縫ってのことだった。
「名護屋は大賑わいだそうですね。」
十六万余の将兵、商人で溢れているという。
「久蔵も一門を率いて行った。そこで喧嘩が起きた。久蔵は自分から喧嘩を仕掛けるような男ではない。」
菊は深くうなずいた。
夜、酒場で一門の者に絡んでくる者がいた。久蔵は喧嘩を止めようとして、
「刺された。」
後は言葉にならなかった。
様々な人種で溢れている、前線基地だ。人の気持ちも荒れている。運が悪かったのだ。
「優しい方でした。」
菊も、やっと言って、目頭を押さえた。
「下手人はわからない。でも、わしのせいじゃ。」
「えっ?」
「わしは御所の仕事を狩野と争った。永徳が死んだ後、祥雲寺の仕事を手に入れた。」
秀吉の最初の子、鶴松は僅か三歳で死んだ。祥雲寺は、その菩提を弔うために建てられた寺だ。
巨星が墜ちた後、大きな仕事を他の流派に取られて、狩野はじり貧だと、もっぱらの評判だ。そして他の流派の筆頭が、この長谷川なのだ。
等伯が何を言いたいか、ようやくわかった。
「でもいくら何でも、だからって人を殺すなんて。」
「久蔵のほうが、狩野の四郎次郎{光信}なんぞより腕が上じゃ。」
等伯はきっぱり言った。
「邪魔者は消せ、ということじゃ、わからぬか。」
「……。」
「申したであろう。絵師は武家出身の者が多いと。ぬしもそうであろう。」
「私は……そういうことから距離を置くつもりで……。」
「ぬしはそうでも、世間はそう見ぬ。」
等伯はイライラと言った。
「世間の目から見ると、ぬしは武田の当主で、上杉の室よ。逃れることはできぬ。」
等伯は下絵に目をやった。
「もうよい。これで描くとしよう。見舞い、痛み入る。もう帰ってくれ。」
「駄目だよ。」
達丸だった。それまで一言も口を利かず、一心に絵を見ていた。
「こんなんで描いちゃ、駄目だよ。」
「何っ?」
絵にケチをつけられて、等伯が色をなした。
「子供だとて、容赦はせぬぞ!」
「待って、お待ちください。」
菊は必死に宥めた。もう止めに入ってくれる久蔵は居ないのだ。
「お願いです、話を聞いてやってください、この子は言いたいことがあるのです!」
「この松は、こっちじゃ駄目。」
達丸は立ち上がると、一枚の下絵を引きずって移動し始めた。
「こっちがいい。それからこれは、こう、ずらす。」
隣に置いてある下絵の向きを変えた。
等伯も立ち上がって眺めた。イライラ声で言う。
「でも、あちらの枝が同じような向きになってしまう。」
「だからね、あっちは、こういう風にもってくる。」
指摘された絵の角度を少し変えた。
段々、等伯の目の色が変わってきた。
それから二人で、ああでもない、こうでもない、と言いながら下絵を組み合わせ始めた。
菊も息を呑んで見守った。
いつしか日が暮れて、辺りが薄暗くなってきた。
「できた。」
とうとう等伯が言ったのは、とっぷりと日が暮れて、菊が灯りを燈した頃だった。
「うん、すごい。」
達丸が言った。
灯の下、真珠色に煙る紙の上に、墨絵の松が浮かび上がっている。静かに寄せる波の音が聞こえてくるようだ。
「日本海の松原ですね。」
菊の脳裏には、御館からの帰り道、慶次郎や紅と通った越後の海がある。
「うむ、能登の海岸じゃ。」
長谷川の家を辞す時、等伯は見送りに出て、ぽつりと言った。
「あの下絵は屏風に仕立てるつもりじゃ。それから達、ここに通え。水墨画を教えてやる。」
「えっ?」
菊は驚いた。
「弟子でもないのに?」
「わしも元武士じゃから」
等伯は言った。
「家とか流派とかにこだわってきた。でも息子を失い、今日この子と下絵を考えてみて、そうではない道もあるのではないかと思うようになってきた。この子は見所がある。武士ならば、優秀な子を養子として家に入れる手があるが、ぬしはこの子を手放す気は無かろう?」
菊はうなずいた。
「じゃが、わしも、この子に教えてやりたいことがある。たまにはこういうことがあっても良かろう。」
それから達丸は、等伯の工房に通うことになった。