第100話 能吏
それから暫く、絵屋に何も変わったことは起きなかった。
紅の心配は杞憂に終わったように見えた。
襖の評判は上々とのことだったが、だからといって、それを見た人々から注文が殺到することも無かった。月並みでも平凡でも、家というものは長く使うのだから、当たり前なものがいい。結局、皆、大手の狩野や土佐に頼むのだ。
寧々の襖が良かったから、といって問い合わせがあったのは僅かに秀吉の吏僚ただ一人で、それも経典の修復という地味なものだった。おまけに彼は、その補修の代金が如何程かを真っ先に知りたがった。
「申し訳ない、手元不如意なもので、あまりお金が出せないのです。」
秀吉の吏僚は羽振りがいいと聞いたけど、と菊は思った。
確かに、他の吏僚は大層、羽振りがいいらしい、でも、この男だけは。
袖の下、と言っては聞こえが悪いけど。
ちょっと、お願いを円滑に進めたいとき。
ちょっと、お礼をしたいとき。
差し出されて誰もが受け取る物を、この男だけは決して受け取らない。
自分の仕事ですから。受け取るいわれはございません。
近来、稀に見る堅物。
豊臣政権一の切れ者、と評判のこの男。
「奉公人は主から貰っている知行を使っていますが、遺してはいけないのです。遺すのは盗みと同じです。又、使い過ぎて借金するのは愚か者です。」
自分の仕事に、誇りを持っている。
その結果の手元不如意、らしい。
熱心に自説を展開した後で、菊の表情に気づいたらしい。
弁明するように付け加えた。
「私は新参者なので家臣が少ないのです。良い人材がいると、ありったけ出して雇ってしまう。私の家老は私の半分の石高です。そのうえ今、居城の普請をしていて、益々お金が無いのです。」
で、その襖は狩野や土佐に頼んじゃうのね。
「あっ、でも、私の城は装飾は無いのです。」
「は?」
お城なのに装飾無しって、どういうこと?
「お金が無いというのもありますが……城というものは戦のための砦ですから」
「はあ。」
「戦に必要なものさえあればいいのです。我が城は交通の要所にありますので、何万の敵が押し寄せてきても、何ヶ月も持ちこたえられるように工夫してあります。」
まだいくらでも城について語れそうだったが、話が脇道にそれていることに気づいて、元に戻した。
「だから本当は、経典の修理などに構っている暇も無いのですが。先だって博多に参りましたとき、途中、安芸{広島}の厳島神社に寄って、『源平盛衰記』の写しを頼んだのです。その際、『平家納経』も見せていただいたのです。筆跡が美しくて、驚きました。」
又、生き生きしてきた。
「ただ、惜しむらくは傷みがひどくて。何百年も受け継がれてきた宝です。私たちにはそれを、次の世代に伝えていく義務があるのです。何か少しでも、私が力添え出来ることがあるのではないか、と思って。」
自分の住んでいる城の襖には絵を描かないのに、遥か遠くの神社にある、自分とは何の関係も無い経典の傷みを心配している。
「『源平盛衰記』、お好きなんですか?」
「はい、大好きです。」
嬉しそうだ。
「愛読書なのです。先祖が活躍する話ですから。私の先祖は鎌倉の三浦一族です。源平合戦のとき、近江粟津で、木曽義仲を射止めたのです。」
「それはそれは。」
「私の旗印も、先祖が掲げたのと同じものです。」
誇らしげに言う。
見た目は華奢で優しげで、女子のようなのに、情熱的な人だな、と菊は思った。
「そのお経もとてもお好きなんですね。わかりました。」
うちの客って、値切るか、無理難題ふっかけるか、どっちかだな、と思いながら、菊は言った。
「お引き受けします。御予算の範囲内で、御満足いくように仕上げます。」
「あの、無理強いしてしまったような気がしますが。」
彼は心配そうに言った。
菊は笑ってしまった。
「いいえ、美しいものがお好きな方に、悪い方はいらっしゃらないと思います。あなたは襖を我慢なさったんだから、他に何か楽しいことがないといけませんよね。」
この人、さっきから誰かに似ていると思っていたけど、誰に似ているかわかった。
「ねえ、与六。」
口がすべった。
彼ははっとしたようだった。
「直江山城守殿、ですか。」
菊も口を押さえた。
「前も似ている、と言われました。四辻御前さまに。あの、越後宰相{上杉景勝}殿の御前さま、ですよね。」
決まり悪そうに言った。
「本当はこちら側に座っていただかなくてはならないのですが。」
「やめてください、今日は商売で参りましたから。」
菊は必死で辞退した。
「私、殿下に、ご挨拶にも上がっていないのです。今は市井に暮らしております。上杉とは名ばかりの関係なので。」
「私は越後宰相殿の取次をしてるのです。」
取次とは国主と国主の間の連絡係だ。ただ情報の中継ぎをするだけではない。双方の関係が上手くいくように調整する外交官でもある。彼の場合は、中央政権に所属するので、服属する国主に政策方針を伝える役も果たす。
「上杉家側の取次が山城守殿なので、よく存じております。」
「ごめんなさい、どこか似てるな、と思って、つい……。」
「仕事の内容が似ているからでしょう。」
ううん、普通人が話さないようなことを、ずばずば言っちゃうところが、よ。
「彼はとても話しやすいので、色々な話をします。」
彼は言った。
「越後宰相殿はあまりお話なさらないので、助かります。」
「無口でしょ。」
菊は言った。
「ほんとは、人見知りなんだと思いますわ。」
ほら、こういうことをずばり言っちゃうところも与六に似ている。
一方、彼も思った。
(この人も、何でも言っちゃう人だな)
菊はこの仕事を請け負ったが、彼、石田三成が船奉行を務めて、朝鮮に送る荷や船の手配に忙殺されたため、なかなか打ち合わせすることが出来ず、結局、宙ぶらりんのまま、留め置かれることになってしまった。