第98話 黒百合
「まあ、久しぶりに来てみると、大きくなったのう。」
寧々は、ころころと高く響く笑い声を上げて、
「菓子を持ってきたのだが、もう似つかわしくないの。記憶の中では、子供はいつまでも小さいままじゃからのう。」
「いえ、お菓子は大好きです。」
達丸が慌てて口に出してから、しまった、という顔でこちらをちらりと見るので、
「頂戴しなさい。有難うございます、いつもお気遣いいただいて。」
菊は頭を下げた。
「わざわざおいでにならなくても、お呼びになりましたら、こちらから参上いたしますのに。」
「いや、歩くのも身体に良いのじゃ。道端に咲く野の花を見ていると、季節が変わっていくのが肌で感じられて、気が晴れるわ。」
今日、寧々は、お付きの者を少しばかり連れて、お忍びで絵屋を訪れている。
今をときめく関白、いや、先年、甥の秀次に関白を譲り、太閤となった人の奥方、と、慶次郎からその正体を聞かされて、菊は恐縮したが、寧々は相変わらず、隣のうちを訪ねるような気軽さで、絵屋にふらりと立ち寄るのだった。
「今日は、頼みたいことがあって参った。私の部屋で使う襖に、絵を描いて欲しいのじゃ。今あるのは随分長く使っておるのでな、飽きてしまった。」
「それは……。」
菊は絶句した。
寧々の調度品なら、漢画の狩野か大和絵の土佐の手によるものだろう。確かに絵屋でも調度品を扱ってはいるが、寧々の住む大坂城は、とても絵屋のような一介の町絵師が出入りできるようなところではなかった。
「そなたは町の山の懸飾を作ったそうな。会所の屏風も、そなたの手によるものという。見てきた者が、それはもう素晴らしかったと口を極めて誉めそやしておった。最近は扇・料紙ばかりではなく、灯籠絵や貝絵、染織の描絵や下絵も手がけておるとか。襖絵など、お手のものであろう。」
「はあ、しかし。」
寧々は、菊の顔をじっと見据えた。
「自信が無いとか、そういうことではないようじゃなあ。そうか、遠慮しておるのか。普通なら狩野や土佐に頼むところ、じゃろう。でも今回は頼まない。頼みたくないのじゃ。あの者たちは決まりきったものしか描こうとしない、いや、描けないのでな。私がそなたに頼みたいのは、ありきたりではない襖絵じゃ。」
「ありきたりではない、と申しますと。一体、何にお使いなのですか?」
「先だって、太閤殿下にお子が生まれたのを御存知であろう。」
寧々は表情を動かさずに言った。
菊は、はっとした。
(黒百合、か)
それは先年、太閤に死を賜った佐々成政にまつわる黒い噂だった。
表向き、佐々成政が切腹に追い込まれた原因は、肥後の国{今の熊本県}の一揆の責任を取って、とのこととなっていた。
柴田勝家の甥の佐々は、信長の死後の権力争いの際、秀吉と和睦しようとする家康を翻意させようとして厳冬の北アルプス越えをした程の秀吉嫌いだった。秀吉が、反抗的な佐々を切り捨てようと思うのは当たり前だと菊には思えたが、例によって地獄耳の揚羽は、
「いや、変な噂があるんですよ。」
声を潜めた。
家康に味方して、秀吉の勘気を被っていた佐々は、秀吉の正室寧々にとりなしを乞うことを思いついた。
当時、越中{今の富山県}を治めていた佐々は、立山の奥深くに咲く、大変珍しい黒百合を、寧々に贈った。寧々は喜んでそれを茶室に飾り、秀吉を招いた。秀吉も珍しい花を見て感心した。その話は家中に知れ渡った。
それを聞いた秀吉の数多の側室のうちの一人が、家臣を密かに越中にやった。家臣が言いつけを果たして帰ってくるとすぐ、秀吉を自室に招いた。側室の部屋に入った秀吉は、自分の目を疑った。そこには部屋一杯に黒百合の花が飾られていたのである。
「茶室の花だから、寧々さまのは花瓶に一輪か、せいぜい二輪くらいしか挿してなかったんです。それが、部屋一杯の花、でしょ。」
何でも豪勢なことが大好きな秀吉のことだ。
自分の嗜好をよく理解しているこの女に、目をかけないはずが無かった。秀吉の寵愛を一身に受けるようになったこの女こそ、通称お茶々、今は改め淀殿だという。
「佐々さまが切腹に追い込まれたのは、恥をかかされた寧々さまの恨みをかったから、だとか。」
「いかにもな話だけど、ほんとのことなんて当事者以外にはわからないものよ。」
あたしと殿と紅の関係だって、きっと他人から見たらわけわからないと思うもの、と揚羽を黙らせたが、他人事じゃない、あたしもさぞかし、色々言われているだろうな、と暫く落ちこんだものだった。
そういえば紅は、堺と上杉の京屋敷を行ったり来たりしている。時たま越後に下ることもある。
堺の亭主と景勝の間で、如何なる話がついたのか、菊の知るところではない。
淀殿は、浅井長政とお市の方の娘で、父母を秀吉に殺された後、彼の情けにすがって生きていたが、彼の子を産むことで、その立場は逆転した。長男を三歳で失ったときには、その運も尽きたかと見えたが、この度、数多いる秀吉の側室の中でただ一人、再び懐妊し、しかも生んだのは又、男子という、並びない強運の持ち主である。
「都には諸大名の奥方がおいでだ。」
つまりは態のいい人質である。
「このたび和子がお生まれになり、奥方たちもご挨拶にお見えになる。その際、古びた襖の前で挨拶をするのは気が進まぬでの。」
寧々の口調は相変わらず穏やかだが、菊は、言外に込められた彼女の意を、はっきりと汲み取っていた。
秀吉に挨拶した夫人たちは次に、跡取りであるその息子に挨拶するだろう。その子を抱くという名目で、得意になって挨拶を受けるのは実際は、その側室なのだ。
(側室の誰が産んだ子も、本当は正室の子として、その手元で育てられるはずなのだが、淀殿は、自分の手元に置きたいと、寧々さまのお申し出を断ったと聞く)
そんなことをすると、家中の乱れの元なのに、と何気なく考えて、菊はふっと苦笑した。
四郎兄の母も、武田に滅ぼされた諏訪家の息女だった。自分たちが滅ぼした家の子の命令を、家臣が聞かなかったばかりに、武田もあのようなことになってしまった。
(今、天下さまと呼ばれていても、太閤だって、その子の時代はどうなるかわかりやしない)
因果は巡る、糸車。
「どうじゃ、菊。まさか嫌とは言うまいな。」
寧々が鋭い目で菊を見た。
(この人は、あたしが上杉の正室だと知っているのだろうか。いや、もちろん、知ってのことだ。だから強く出ている)
本当は挨拶に行かなければならないあたしが、その相手の後ろに立てられる襖絵を描くとは。
何て皮肉なんだろう、と思いながら菊は、
「お引き受けいたします。」
はっきりと言って、平伏した。
(奥方たちはまず太閤の部屋に行き、次に跡継ぎの子どもの部屋へ行く。狩野や土佐の手による襖絵や屏風を目にするはずだ)
書院に描かれる襖絵には決まりがある。
秀吉の部屋に描かれているのは中国の古来の賢人だろう。一方、淀殿も、子どもが跡継ぎだから、謁見用の書院で応対するだろう。だとすれば、そこには大きな松や鷹などが描かれているはずだ。
それらの絵から受け取るのはどういう印象だろう。
圧迫感。
威圧感。
(それは、絵がかもし出す雰囲気のみでない)
昨年の暮れ、年号が改元され、天正から文禄となったが、人々の気分はどんよりと落ち込んだままだった。
李朝の内政上の失策もあり、朝鮮軍の士気は低く、初戦こそ勝利を収めたものの、七月、李舜臣に水軍が敗れると、日本軍は補給路を絶たれてしまう。宗主国である明軍も、仏狼機砲等火器を大量に投入してきた。今年はじめ、碧蹄館の戦いで勝利したのが最後に、厭戦気分が広がっていく。五月には、平壤の戦で敵前逃亡した大友義統が改易されてしまった。翌月には小西行長の仲介で、明使と講和のための交渉が始まった。
そんな中での淀殿の出産である。
(これは、ただの挨拶ではない)
ここで失敗してはならない。自分がしくじれば、夫や子ばかりか、故郷で待つ大勢の家臣たちやその家族にも、多大な迷惑がかかる。
(奥方たちにとって、もう一つ、気がかりなことがあるはず)
嫌な噂がある。
国主たちは皆、海を渡るか、渡る順番を待って、九州に集結している。夫がいない間、留守を守る妻たちに、女好きの秀吉が手を出す、というのだ。
(奥方たちは皆、悲壮な覚悟を固めているはず)
かわいそうに、青ざめ、怯え、緊張しきっているだろう。
(淀殿は、生まれついてのお姫さまだ。おそらく、上から夫人たちを見下ろすにちがいない)
悪気は無いんだろうけど。
彼女にとって、皆が自分に頭を下げるのは当然だったんだから。でも『織田信長の姪』として挨拶を受けるのと、『太閤の側室』として頭を下げられるのは違う。
まして彼女の生んだ子を脅威と感じる人がいるというのに。
彼女に、その違いはわからない。
対する寧々さまは、と比較してみる。
(大将とはいえ、足軽の娘。天下さまの奥方なのに気軽に出歩く気さくさ、親しみ易さ、でも、とっても賢く有能な人)
部屋の主は女。
客も又、女。
(黒百合。山に咲く、野生の花)
霊山立山の奥深く、谷を埋めて、咲き誇る、花、又、花。