第8話 証人
菊が目を覚ましたのは部屋の中だった。
夜具を敷いて寝かされていた。枕元には大事な絵の道具の入った箱が置いてある。頭を打った所に小さなこぶが出来ていて、ずきずきする以外は何も異常は無いようだ。
外はかすかに日が差して、雀の鳴く声がしている。
(やだ私、ぐっすり寝ちゃったみたい。ここは何処だろう?)
襖が静かに開いて、侍女が一人、天目を捧げもって姿を現した。
「お目覚めでございますか。主がお目にかかりたいと申しております。」
「ここは何処?主って誰?私をどうしようと言うの?」
菊の矢継ぎ早の質問にも一切答えようとしない。菊は仕方なくお茶を飲むと、立ち上がった。
通されたのは大広間だった。手前には具足を付けた武将がずらりと並んでいる。
その奥、上段の間に座る人を見て、菊は息を呑んだ。
京下りの絵巻物に出てくる美しい公達に似ていた、いや、それ以上に美しかった。すらりと細い身体、陶器のように白い肌、真っ赤な唇、切れ長の流し目の縁はほんのりと赤く染まって、何本かほつれた毛が滑らかな額にかかっているのが、ぞっとする程艶だった。
傍らに六、七歳くらいの少年が控えている。美しい顔立ちなので、最初は可愛がっている小姓か何かかと思ったが、菊を真っ直ぐに見つめる瞳や顔立ちが、主とどことなく似ている。
主が口を開いた。
「突然このような所に連れてこられて、さぞ驚かれたことであろう。我等は姫君に対して害意を持つ者にあらず、決して危害を加えないことをお約束致す。」
声も又、よく通って美しかった。
「今は亡き父上に教えられたことがある。相手が礼儀に適わぬことを致しても、こちらは決して礼儀に外れてはならぬと。そうすればこちらが強い立場に立てるのだから、と。だから私も不本意ながら礼儀を守って応対するつもり。」
菊は言った。
「そなたがどなたかはわかる。三郎殿、であろう。」
景虎はふっと笑った。女も及ばない色気が漂った。さすが『国色無双』とうたわれただけのことはある。
「私は嘗て武田に居たことがある。見覚えがおありか。」
「いえ、覚えていないわ。でも小夜さまに似ておいでね。」
「妹だからね。」
「さすが有名な美貌の持ち主だと思って。」
景虎は又、口元をほころばせたが、菊は続けた。
「でも私、大酒飲みは嫌い。」
酔っているのを言い当てられた景虎は苦笑した。
今まで彼と会ってなびかぬ女を見たことはなかった。だからちょっと手荒にひっくくってきても、会いさえすれば、すぐ大人しくなるものと思っていた。
だがこの娘は、甲冑を付けて居並ぶ諸将にも臆することはない。肝がすわっていて度胸がある。こんな娘は初めてだ。
景虎は彼女に興味を覚えた。自分の考えを話して説得する気になった。
「私は男だ。それなのに、正室から生まれた嫡男でなかったばかりに、今まで他者にいいようにされる人生だった。今、ようやく私にも一国の主になれる運が巡ってきた。折角掴んだこの運を手放すつもりは無い。そなただって、当主の都合で、半年前まで敵だった国に嫁にやられる身の上ではないか。嫁だ、養子だといっても、いざ同盟が破れると、命さえ危ない身の上だ。私はそなたの立場がわかる。だから、そなたに危害を加える気は無い。武田と喜平二に手を結ばれると困るから留まっていただくだけだ。喜平二を滅ぼしたら、無事に甲斐に送り届けてさしあげる。そなたも私の立場はおわかりであろう?」
「確かに」
菊は考えながら言った。
「私の母上も証人だった。その証人から生まれた私も、生まれながらに証人なのであろう。我が家の当主の四郎兄上の母御前も、その父を私の父に殺された、とか。武家の家の者は元を正せば皆、証人なのであろう。証人の立場がわかるか、と問われれば、確かにわかる。私たち証人の生殺は当主の手に握られている。だけど」
新しい関を立てられて、なすすべもなく列を作る人々、作物を取り上げられて倒れる老爺、叫ぶ子供の顔。
お屋形さまは、すぐに訴えをお取り上げになり、百姓共の勝ちにしてやったのです、という小夜姫の言葉。
顔を上げて男を見据えた。
「その辺の百姓だって、使役に駆り出されたり、兵役を課せられて戦場に送られたり、生き死には領主の手に握られている。私たちは少なくとも、支配する身分。普段、百姓町人よりよほど恵まれた生活を送っている以上、自ら選んでそうなったのではないにせよ、いざという時、それなりの覚悟は必要であろう。そなたは今回の挙兵に当たって、強大な実家の力を当てにしておいでであろう。でも他者に頼って掴む権力なんて、結局、他者に左右されるだけで終わってしまうのではないのか?上杉の先代は、跡継ぎを喜平二殿に決めてお亡くなりになったと聞く。つまりそなたは、謀反を起こされた。巻き添えになる家族や家来、領民が気の毒だわ。」
もう完全に礼儀を外れてしまった、と、ちら、と思った。
景虎は表情を変えなかったが、諸将はざわめいた。
「おのれ生意気な。」
「言わせておけばいい気になって。」
「この女、血祭りにあげて、そっ首、喜平二に送り届けてやりましょうか。」
刀の柄に手を掛けた者もいる。
「私に指一本でも触れてごらん。」
菊はすかさず言った。
「すぐさま四如の旗が国境を越えてくる。あなたたちなんて、あっという間に踏み潰されてしまうから。」
先程の部屋に戻された菊は、頭が痛いと訴え始めた。
医者は嫌、薬も嫌、何か毒でも入っているんじゃないの?皆あっちへ行って、一人にして、寝るんだから放っておいて!
さすがお姫さまだ、我儘もいいところだと、皆呆れて部屋を出て行ってしまった。廊下に張り番を置いたが、影が障子に映って気になる、と、菊が又、我儘をいうので、離れた所から廊下の往来を見張らせることにした。
しばらくして、侍女が粥を捧げてやって来た。部屋の前で声をかけたが、返事が無い。まだ眠っているのだと思った侍女は、そっと襖を細く開けた。覗いてみて、腰を抜かした。動く限り、ありったけの調度を引きずってきて、あぶなっかしく積み上げてあるその真上の天井には穴が開いていた。