すぐできるものなら何でもいいです
『タケルの背中にゲロを吐いたアヒルちゃん』
まさかその形の良い、美しい唇から『ゲロ』という言葉と、自分の名前が出るとは思いもしなかった。
「え、あ、、なんで、、、」
アヒルが目をしばたかせ、どうにかこうにかそれだけ言うと、背の高いその人は、顎を引いて腕を組み、小さなアヒルと視線を合わせ、その瞳をじっと覗き込んだ。
目と目がまっすぐに向き合う。
まるで黒く光る小石が泉の中に投げ込まれ、その波紋が体の隅々まで広がっていくような不思議な感覚……
その人はアヒルを見つめながら、ゆっくりと近づいて来た。
そして、右手を差し出した。
「私、花子。よろしくね」
それから、その名の通り、花のような笑みを浮かべた。
「あ、あ、あ、あたし、アヒルです。ヨロシク……」
差し出されたハナコという人の右手に、アヒルが不器用に触れる。
その肉付きの良い小さな手を、ハナコは細い指でしっかり握った。
そしてそのまま、
「さ、こっちに来て座って」
と言って、バーカウンターの方にアヒルを促したので、二人は広いラウンジの中を少しの間、手を繋いで歩くことになった。
たったそれだけの事だったけれど、他人の体に触れることに慣れていないアヒルは、もうみっともないくらい真っ赤になって俯いた。
「服、裏に干したからな」
その時、不意に聞こえたタケルの声に、アヒルはハッと我に返った。
ハナコを見た瞬間、アヒルの頭の中からはタケルさえも吹っ飛んでいた。
タケルは、水をなみなみと汲んだポリタンクを片手に持って、バーカウンターの横の外へ通じる扉から、ラウンジの中へ再び入って来たところだった。
「もう行くの?何か食べてったら?」
「……うん」
花子にそう言われ、サングラスを掛けたままのタケルは、大人しくカウンターの方へやって来ると、重そうなポリタンクを床に置き、アヒルと一つ間をあけて、丈の高い、脚のガタつくスツールに腰かけた。
「アヒルちゃんも何か食べるでしょ?」
「あ、はい!」
ラウンジの中には、3人の他、誰もいない。
会話が途切れ、微妙な空気が漂う。
天井の四隅に据え付けられた無機質なスピーカーからは、静かな心地よい音楽が流れていた。
海の方からは、相変わらず女の子達の笑い声が、時々くす玉のように明るく弾けるのが聞こえてくる。
メニューらしきものは見当たらないけど、ランチタイムはもう終わってるのかな……
ふと時間の事を思い出し、アヒルは室内を見渡した。
するとザラザラとしたコンクリートの壁に、古い振り子時計が掛っていて、その短針が曖昧に10の辺りを指しているのが目に入った。
10……
「えぇっ!?じゅ、10時ぃ~~い!?!?」
突然、素っ頓狂な声を上げるアヒルに、ハナコとタケルは驚いた。
「な、なんだよ!?!?」
「えっ?ていうかまだ10時なんですか!?!?」
もうとっくに昼を過ぎた頃かと思っていたので、まだ午前中だというその時間の経過の遅さに、アヒルは心底、驚いた。
「おまえって、本当にのんきだな」 そんなことでいちいち大声出すなよ
と、付け加えようと思ったけれど、タケルはハナコの前なので黙っていた。
「フフッ、朝早く海なんて連れてこられたら、いつもと感覚が違っちゃうわよね」
ベツニツレテキタクテツレテキタンジャネェシ……
アヒルの肩を持つようなことを言うハナコに、タケルは口の中で何かゴニョゴニョ言った。
「ところでタケル、店の中ではサングラス外しなさいって言ったでしょ。ナルシストか変態みたいでみっともないわよ」
ナルシストワルカッタデスネ、ウッセーナ……
タケルは、もっと小さくゴニョゴニョ言いながら、左手の中指でヒョイとサングラスを頭の上にあげると、ハナコの方は見もせず、ふてくされたようにそのまま肘を付いてそっぽを向いた。
アヒルも、さっき真っ赤になった頬をまだ両手で隠しながら、タケルと同じく肘を付き、カウンターに座っていた。
ラウンジの中は、外からの日差しだけが頼りでかなり薄暗いのに、なんでタケルがサングラスをかけていたのか。
ここに来る直前になって、車の中でなんでサングラスをかけたのか。
アヒルには今、分かる気がした。
「そうよ、そのほうが良いわ。イイ男がもっとよく見えるじゃない。ねぇ?」
ハナコのからかうような口調に、タケルはわりと厚みのある唇の両端を思い切り下に曲げると、
『やってらんね』
というように肩を竦めて立ち上がり、陽の降り注ぐデッキの方へ、ゆっくりとガニ股で歩いて行った。
その後ろ姿にハナコが声をかける。
「何食べるのよ。なんでも言って」
「ヤキソバ」
「ヤキソバは無いわ」
「だ、、、っ!てか、なんでもっつったじゃねーか、いま!」
「あら、そうだ。ごめんなさいね」
ハナコは無邪気に笑う。
「もぅ、なんでも良いよ、早く出掛けるんだから、すぐ出来るやつなら何でも良いよ!」
タケルは首を振り振り、デッキの海が一番良く見えるテーブル席にドッカリ座った。
けれどその後ろ姿は、怒っているようには見えなかった。
「で、アヒルちゃんは何食べる?なんでも言って」
アヒルは慎重に、ハナコの非の打ちどころのない美しい顔を見た。
今、同じ事をタケルさんに訊いたよな……?
思わず『ヤキソバ』と、答えたい衝動にかられたけど、そこはグッとこらえ、できるだけ自然な笑顔を浮かべると、
「すぐできるものなら何でもいいです」
と答えてみた。