Secret garden
「降りて」
タケルに言われ、アヒルはスライド式の後部ドアをガラガラと開き、自分のトートバッグを引き寄せて、その持ち手を両手でギュッと握りしめた。緊張で、無意識に力が入る。
そしてタケルに借りた白のビーチサンダルを履くと、一つ小さく息を吐き、それからそっと車を降りた。
足の裏に伝わるサクッ、という優しい砂の感触。
その感触にホッとしながら、辺りの景色を見渡した。
そこは入り江だった。
エメラルドグリーンの、美しい水を湛えた小さな入り江。
その両側を、緑の冠を被ったような小高い崖が守っていて、向かい合う崖と崖の先に、白い波頭の立つ荒れた外洋が見えた。
そこからうねりが引き寄せられてやってくる。そして奥行きのある扇形の入り江に受け止められて、なだらかな波へと変わり、それが崖に沿って右の端から規則正しく崩れて行く。そして最後は白いクリームのような泡となって、肌色の砂浜いっぱいに広がった。
さっきアヒルの見た、大波の押し寄せる海岸とはまるで違い、囁くような小波の音が、静かにそっと響いていた。
その穏やかな波で、数人の女の子がサーフィンを楽しんでいて、時折、無邪気な笑い声が聞こえてくる。
そして入り江の一番奥の崖の際に、漁業用に立てられたような、古い二階建てのコンクリート製の建物があった。
建物から海に向かっては、小さな堤防が張り出している。
人工の建造物はそれだけだった。
「行くぞ」
アヒルが入り江の景色に見惚れている間に、タケルは砂地の駐車スペースに車を停めて、洗濯物とポリタンクを手に持って戻ってきた。そしてアヒルに一声掛けると、その建物に向かって歩き出した。
濃いサングラスと縮れ毛と、日焼けした肌のせいで、日本人ではないように見えるタケルに、アヒルは今更のように人見知りしてしまう。
そしてただ黙ってタケルの行く後を、ペタペタと履き慣れないビーチサンダルで付いていく。
建物はかなり老朽化していて、壁には所々に大きなヒビが入っていた。
窓枠や扉は重厚な鉄製で、かつて塗られていたと思われる白いペンキは剥げ、サビが浮き上がっていた。
窓も扉も、全て外に向かって開け放されてはいたが、人を寄せ付けない重苦しい雰囲気が漂っていて、アヒルは一瞬、
入りたくない……
という気持ちが湧いてきて、扉の前で足が止まってしまった。
明るい日差しの中にあっても、まるで幽霊でも出そうな建物の雰囲気と、この中にいる知らない誰かに、これから会わなくてはいけないという予感が、アヒルの気を重くさせていた。
しかしタケルはそんなことには気付きもせず、スタスタと中へ入って行ってしまった。
観音開きに開いた鉄の扉の中に見えるのは、まず愛想のないのっぺりとした壁。
そこにまた『Secret Garden』と書かれた木の看板が掛けてあり、アクリル絵の具で白いプルメリアの花が、素朴なタッチで描かれていた。
そのプルメリアに勇気づけられ、アヒルはようやく開かれた扉に入った。
中は薄暗く、空気の温度が、スッ……と下がるのを感じた。
タケルが進んだ方を追って右へ、そしてザラザラした粗い壁づたいに左に進む。
すると突然、抜けるように明るく広い空間に出くわし、アヒルはその場に立ち尽くした。
「わぁ……」
そこは海に面した広いラウンジスペースだった。
壁一面の、大きく透明な板ガラスを通して、鮮やかな入り江の青が、まるで美しい絵のようにアヒルの目に飛び込んできた。
そのガラスの壁には、右と左に一枚ずつ、真鍮の取手の付いた頑丈そうな扉があり、大きく開け放たれたその扉から、広々したウッドデッキへ出られるようになっていた。
ラウンジの床と外のデッキは、同じ色の無垢板で平らに繋がっていて、ガラスで仕切られてはいるけれど、一つの調和のある空間となっていた。
天井は、わざとなのか、元々そうなのか分からないが、海に面した方の一部が大きくぶち抜かれ、高い吹き抜けになっていて、コンクリートの中のさびた鋼鉄が、怪物の牙のように、そのまま剥き出しになっていた。
その天井には黒い鉄製のシーリングファンが静かに回っていて、開け放した室内の温度を、心地よく保っている。
ラウンジには、やはり無垢材でできたテーブルとイスがいくつか配置され、昼寝をしたら気持ち良さそうな、大きなソファーもあった。
その奥にはバーカウンターがあり、古いスチール製のガラス戸棚に、たくさんのグラスや洋酒の瓶が並んでいた。
そして、女の人が立っていた。
とても綺麗な女の人。
ゆるくウェーブがかかり、潮焼けした髪が腰まで届き、背が高く、ほっそりした体つきをしている。
アヒルが今まで見たことも無いような、夢のように綺麗な人だった。
「こんにちは」
その人はアヒルが入ってきた事に気付くと、鈴のような優しい声で言った。
しかし、アヒルはその空間と、その人の美しさの両方に圧倒され、何も答えられず、ただ黙って突っ立っていることしかできなかった。
するとその人は、形の良いふっくらした唇の片端をいたずらっぽく上げ、
「あなたがタケルの背中でゲロを吐いたアヒルちゃんね」
と言って、果物のようなみずみずしい笑顔を見せた。