オマエはそこに置いていく
広々とした海に沿った国道を、タケルの空色のワンボックスカーは進んで行く。
右は、大きな波の押し寄せる白い砂浜。
左は、高い椰子の植えられた歩道に沿って、レストランや民間の駐車場などが点在している。
さっきの無料駐車場がガラガラだったのに比べると、この国道沿いの駐車場は、まだ海水浴の始まるシーズンではないというのに、ほぼ満車の状態で、その利用者のほとんどはサーファーのようだった。
波を求めて、どこからか集まってきたのだろう。
千葉以外にも、東京や神奈川のナンバープレートの車も多い。
そして国道を、サーフボードを抱えた人たちが行ったり来たりしている。
防潮堤の上にも、あちこち人の姿が見える。
立って先程のタケルのように波を眺めている人。
サーフトランクスのまま、濡れた体を陽にさらし、気持ち良さそうに寝そべっている男。
サングラスにビキニ姿で、彼氏のサーフィンを見守っている女の子など、思い思いに早い夏を満喫しているように見えた。
いくつか駐車場を通り過ぎた時、サーファーがタケルの空色のワンボックスカーに手を振って来たり、ボードを積んだ対向車が、ライトをチカチカさせて合図を送ってきたりした。
その度タケルも、同じように合図を返した。
そんな賑やかで開放的な雰囲気がしばらく続き、それから国道は海を離れて緩やかに左へ向かい、道幅も少し細くなり、だんだんと登り坂へさしかかる。
その先に、古く陰気な雰囲気のトンネルが、ぽっかりと口を開けていた。
車はそのトンネルの中へ滑り込む。
灯りも無く、暗く、長く、ひんやりと冷たい空気。
その冷たさと暗闇が、立て続けに色々な景色を見て興奮していたアヒルの心を、少しばかり落ち着かせてくれた。
最初の無料駐車場を過ぎてから、かれこれ一時間近くが経過しているはずだ。
陽の光は真昼のように強烈だけど、いったい今は何時なのか。
そして、この車はいったいどこに向かっているのか。
「もうすぐ着く」
「え?」
またタケルが、アヒルの心を見透かすように言った。
しかしトンネルに入ったせいで、音が反響してタケルの声も自分の声も良く聞こえず、アヒルは首を伸ばして訊き返した。
それに対してタケルが再び、一語一語区切るように大きく答えた。
「も・う・す・ぐ・着・く!」
「ど・こ・に・で・す・か?」
その時、面倒臭そうに答えながら、荷室の方に寄せたタケルの頭と、声を聞き取ろうと運転席に顔を寄せたアヒルの額が、ゴンッ!とぶつかった。
「痛っ!!」
「あ、わりぃ」
アヒルは広い額をさすりながら、バックミラーに映ったタケルのことを恨めしそうに見た。
タケルは、トンネルの先の小さく光る出口を見つめたまま、どうでも良さそうに謝った。
アヒルはふくれっ面で助手席と運転席の肩に掴まり、さっきより少し顔を引っこめ、再び質問しようとしたが、今度はタケルの乾いてフワフワした巻き毛が、鼻先をくすぐる。
「で、どこに……は、ハ、ハぁ……」
「ハぁ?」
タケルは眉間にしわを寄せ、目は前を見据えながら、何か言おうとしているアヒルの方に、顔をグッと近づけた。
その瞬間
ハァぁぁぁぁぁーーークショぉぉぉぉぃッ!!
ゴキッ!
「痛ってぇぇぇぇーーーーーーーーーーーー!!」
思わず大きなくしゃみが出て、アヒルは広いデコで、タケルの頬骨を思い切り強打した。
「ひゃぁぁぁぁ、、、ごごごめんなさい!!」
「おまえ…マジで、、、」
タケルは大量に浴びたアヒルの鼻しぶきを左手で拭いながら、
『ぶっ殺す』
という言葉を深呼吸と共に飲み込んだ。
そして、今度は飲み込んだ息を長い時間かけてフーーーーッと吐いて気持を整えると、左手首にはめていた黒い輪ゴムをアヒルの顔の前に持っていき、
「もう、ちょっとどうでもいいから、これで髪、縛れ!」
とぶっきらぼうに言った。
アヒルは黙ってその太い輪ゴムを、タケルの手首から抜き取った。
タケルも黙って頭を斜めに差し出した。
アヒルは少しためらった。
それから肉付きの良い小さな指を、タケルのフワフワ広がる髪に通した。
両耳の後ろからかき集めるようにすると、厚みのある髪の奥の方は、まだ温かく湿っていた。
それを一つに束ねようと、首の後ろで持ち上げる。
そこに涼しい風が通る。
タケルが気持ち良さそうに目を細める。
その風が、タケルの匂いを運んできて、違う意味でまたアヒルの鼻をくすぐった。
シャンプーの匂いも、石鹸の匂いもしない。
タケルの体の匂い。
清潔に保たれた日本犬のような、『無臭』という類の匂い。
アヒルはふと、家で飼っていた雑種犬に、水をかけて遊んだ時のことを思い出しながら、あちこち散らばろうとするタケルの髪を、そっとまとめた。
この人は、こういった事を女の人に、普通に頼めるんだな……。
そんなことを、ぼんやりと頭の中で考える。
車がやっと長いトンネルを抜けた。
一瞬の光と、右の崖のだいぶ下の方に、岩場の海がチラリと見えて、またトンネル。
「このトンネルを出て、下に降りたらもう着く。そこにおまえは置いていく」
そこにあたしは置いていく。
アヒルは、黙ってその言葉を頭の中で繰り返した。
「服が乾くまでそこで時間つぶせ。そこは飯も食えるし、きちんとしたトイレもシャワーもある。……金は持ってるよな?」
アヒルはコクンとうなずき、一瞬、困り顔になった。
タケルはそれを見逃さなかった。
「心配するな。オレがバイトしてる吉祥寺のサーフショップと関係のあるとこだ。もう、おまえの事はメールで連絡してある」
そう言うと、バックミラー越しに目を細め、アヒルに笑いかけた。
それは今日初めて見る、アヒルに対して向けられた、昨日と同じ優しいタケルの笑顔だった。
タケルが、近づいてくるトンネルの出口に視線を戻したので、アヒルはそのまま、バックミラーに一緒に映る、自分とタケルの姿をじっと見た。
つり合わない……
そう心の中で呟くと、目を逸らせた。