波チェック
風は、陸から海に向かって、時折かなり強烈に吹く。
遥か遠くの水平線が、歪んだように見えた気がして、アヒルは小さな目を瞬かせた。
その歪みが水平線から離れ、岸へ向かって一本の筋となってやって来る。そして次第に高く盛り上がり、美しい藍色の波が生まれた。
長いサーフボードに腹ばいになったサーファーが、岸に向かってクロールのように腕を交互に繰り出し、パドリングを始めたが、身長を優に超える波の高さに恐れをなしたのか、途中で身を引いてしまった。
波はさらに形を整え、左右に大きく広がりつくし、三角形の頂点が白くさざめき始めた。
その頂点の近くで待機していた、短いボードのサーファーが二人、斜面を滑り降りようと先を競って進み出た。
そこへ陸から強い風が吹き付けて、大量の水飛沫が空に噴き上がり、一人はその勢いに押し戻され、もう一人はサーフボードに立ち上がろうとテイクオフを試みたが、すぐにバランスを失い、大きな音を立てて崩れた波の中に、ボードもろとも呑まれてしまった。
いやーーーーー!!あの人、大丈夫なんだろうか!?!?
アヒルは思わず車の窓から身を乗り出した。
けれど分厚く真っ白な泡波の一群が通り過ぎると、サーファーはすぐに海面に浮上して、ボードを自分の元に手繰り寄せ、素早くその上に這い上がり、再び沖へ向かってパドリングを開始した。
それを見て、アヒルはまるで自分が波に呑まれたような気がして胸が苦しくなった。
そして次々と果敢に波に挑んでいくサーファー達の姿を、息を詰めて見守った。
波の崩れる瞬間を上手く捕え、ボードを操り、横へ向かってのびのびと滑って行く人。
沖に出られず、真っ白な泡に覆われた岸の近くで、ひたすら押し寄せる波を潜り続けている人。
そしてその中に、サーフボードとは違う、アヒルが子供の頃に泳ぎの練習をしたビート板の大型版のような物で、波に挑もうとしている人が目に入った。
髪は短い金髪で、ピンクに白いラインの入った新体操のレオタードのようなモノを着ていて、その色から恐らく女性と思われた。
その人と男性サーファーが横に並び、ひときわ大きな迫力ある波に向かって突進し、それを奪い合おうとしていた。
その人は小さなボードに両肘をつくようにしていて、パドリングをしているわけではないのに、サーファーに負けない速さで波に向かって進んでいる。
その時アヒルは、海中から透けて見えた脚先に、白いフィンが嵌められていることに気がついた。
あ、足ヒレ着けてんじゃん?!それであんなに早く進めるんだ!わー!!頑張れ!!
サーファーとその人のデッドヒートを、固唾を飲んで見つめるアヒル。
波の斜面がせり上がり、二人は岸側へと進行方向を素早く変え、いよいよ波に乗る体勢へと入った。
そして今にも崩れそうなほど垂直に切り立った高い位置から、その人はサーファーより一足先にボードに体を乗り込ませ、頭から真っ逆さまに落ちたように見えた。
ひゃあっ、、、!!
アヒルは思わず手のひらで顔を覆った。
しかしその人は右をキッと見据えると、手でボードの前端と横を抑えて勇ましく胸を反らせた。
すると、海面に落ちて刺さるように思えたボードは、ジェットコースターのように波の壁を伝い降り、その底辺で大きく伸びのあるターンを見せた。
波に食い込むボードの一辺が、水の壁を切り裂いて、気持ち良いほど飛沫が上がる。
波は怒ったようにその人の背後から、青い壁を白く崩して追い立て始めた。
しかしその人は捕まるまいと、ターンの勢いそのままに再び斜面を駆け登り、波の天辺に体当たりを食らわせるようにしたその瞬間、
あっ! 飛ん、だ……
しなやかな体がボードと共に、パンッ!!
と宙に舞い上がり、そしてクルリと一回転した。
え、えーーーー!?!?
アヒルがあっけにとられている間に、その人はボードの腹で見事に波の底辺へ着水し、そしてスピードは失われることなく再び横へと走り始めた。
アヒルには、目の前で起きている事がさっぱり分からなかった。
ハンドルが付いているわけでもないのに、なぜあんなビート板のようなもので、波を上下に走ったりジャンプしたりできるのか不思議でならなかった。
そして目を丸くするアヒルの前で、ボードはさらに加速して、いよいよスピードが乗り切った時、その人は体をグンとのけ反らし、同時に、波に這わせて尾のように伸ばしていた両脚を、膝を曲げて振り上げるようにした。するとボードが、美しく弓なりになったその人の体を、披露するかのようにスピンし始め、そのまま横滑りしながら波の裏へとすり抜けて行った。
最後に白いフィンが手を振るようにチラリと見え、その直後に波が大きな音を立てて幕を閉じた。
な、なに?今の……
アヒルが瞬きもせずにその一部始終を見届けた時、対向車線から車のクラクションが鳴った。
ハッと我に返って音のした方を見ると、タケルの立っている防潮堤のすぐ横に、紺色のワゴン車が止まるのが見えた。
ワゴン車はルーフレールに短いサーフボードを2枚積んでいて、運転席と助手席には、やはり裸で良く日焼けした男が二人乗っていた。
どうやらタケルの顔見知りらしく、振り向いたタケルの顔が、みるみる笑顔に変わっていく。
男たちは開け放されたワゴン車の窓から、来た方向を指さして、身振り手振りを交えて興奮気味に話しを始め、タケルは防潮堤から降りて来て、それを腕組みしながら嬉しそうに聞いている。
その時、運転席の男が、ふとタケルの車の方を見て、それからピタリと動きが止まった。
それに気づいて、もう一人も助手席から覗き込む。
タケルもつられて自分の車を見て、そこにひょっこり荷室の窓から顔を出してるアヒルを見つけ、驚いて目をひんむいた。それから『ああ、そうだった』というようにツーッと視線をそらすと、男たちに向かって両手を広げて気まずそうに笑って見せる。それから素早くワゴン車の助手席の窓に顔を突っ込み、眉をひそめて何かを告げる。それを聞いて男たちは大爆笑。そして二人は止めるタケルを無視して、
「ヤホーーッ!」
と、アヒルに向かって屈託のない笑顔で手を振ってきた。
それはさっきの駐車場で会った、坊主頭の男と共通する、人見知りの無い挨拶だった。
なので、アヒルもついつい釣られて、コクンとぎこちなく会釈を返す。
「じゃぁな!」
タケルは苦笑しながらそう言うと、男たちの車のボンネットを軽く叩いて自分の車に走って戻り、運転席に乗り込んだ。
それからお互いクラクションをポンポンッ!と2回鳴らし、それぞれの進行方向に車は再び走り出した。
タケルは、インド民謡の甲高い女の声に鼻歌を合わせると、アクセルをいっぱいに踏み込んだ。
空色のワンボックスカーは、大げさな音を立てて加速したフリをしたけれど、そのスピードは相変わらずだった。