サーフワックス
ラウンジに戻ると、ハナコがバーカウンターに入っていて、皿洗いを終えたホナミは退屈そうにスツールに座っていた。
アヒルは、はにかむような笑みを浮かべて二人のそばまでやってきて、カウンター越しにハナコに脱衣カゴと借りたもの一式を返して礼を言うと、そのままホナミの横にちょこんと座った。
すると唇の色に気づいてか、ホナミがすかさず、
「あれ?なんだかずいぶん可愛くなっちゃった気がすんですけど??」
と言ったので、アヒルはまるで男の子に褒められたかのように肩をすくめて照れ笑いした。
「お待たせしちゃって、すいません。時間、まだ大丈夫ですかね?」
「うん、あと30分後にここを出れば余裕で間に合うよ」
腕にはめた水色のシリコンラバーのデジタル時計を見ながらホナミが言った。それを聞いてハナコが、
「アヒルちゃんもホナミンも、コーヒー飲まない?」
と、大きな緑の缶を両手に持って軽く振る。中から、シャッシャッ、とコーヒー豆が楽器のように感じの良い音を立てる。
「良いっすね。遠慮なく頂きます」
ホナミは嬉しそうにそう言った。しかしアヒルはふと、会計のことが気になった。
「あ、あたしも頂きたいんです……けど、あのぅ、、、
今日、ここでお世話になった分のお代って、いくらになりますかね……?」
アヒルは、もしや法外な値段を言い渡されるのではないかと不安になった。しかしハナコはウフッ、と笑って、
「やだアヒルちゃん、気にしないで!今日なんて、残り物で作ったおじやしか出してないんだから、お金なんて要らないわ。それから、このコーヒーは私からのサービスよ。もちろんホナミンの分もね!」
「やった!ごっそさんです」
サービスと言われて、すかさずガッツポーズをとるホナミの横で、アヒルは戸惑った。
「え、でもそれじゃなんだか……お風呂やタオルやら、何から何まで借りちゃって、、、」
「ハナさんが良いって言うんだから、良いんだって!なんか損してたら、あんたの分はタケルのバイト代から引いといてもらえば良いよ!」
そう言うと、ホナミはアヒルの肩をバシッと、叩いて笑った。なので、アヒルもそれ以上支払うとは言い張らず、
「ありがとうございます……じゃあ、お言葉に甘えて、、、タケルさんにツケといて下さい!」
と、本人がいないのを良いことに、すぐその冗談を受け入れた。それを聞いてハナコもホナミ笑い、アヒルも笑った。
そしてコーヒーマシーンが、コポコポと音を立て始めたのを聞きながら、アヒルは気になっていたことを思い出した。そして、ちょっとためらいながら切り出した。
「ところで、あのタオル地の服なんですけど、、、タケルサンに借りたんで、洗って返したいなーと思うんですが、、、」
アヒルはこれを口実に、タケルの連絡先を教えてもらえないかと内心期待した。しかし、
「そんなのいいよ、ここに置いとけば。どうせブルーガーデンのサーフィンスクールで、お客さん用に使うやつだろ?そのうちタケルが取りに来るよ。ハナさん、それで良いっすよね?」
ホナミのその一言で、アヒルの作戦はあえなく失敗となった。
ま、いっか。返しに行くなんて言って、迷惑がられるのも怖いし……
アヒルは仕方なくそう自分を納得させた。
それから暑い午後の最後のひと時、海を眺めながら飲んだコーヒーは、ほろ苦く程よい酸味で、最高に美味しく感じられた。
何もかもが初めての、本当に不思議なことばかりの一日だった。
アヒルはここでの最後の時間をゆっくりと静かに味わった。
その静けさの中、海のほうから、
ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ……
という音が響いてきた。
この音、どこかで聞いた覚えがある……
と、アヒルは思った。
「あのゴリゴリいうのは、何の音ですか?」
アヒルはホナミに訊いてみた。
「ああ、あれ?サーフボードにワックス塗ってる音だよ。滑り止めのワックス」
「ワックス?へぇ……サーフィンってワックス塗るんだ。そうなんですかぁ……」
「そう。海入る前は、サーファーはみんなやるよ」
海入る前?……
そうだ!あたしがタケルさんの車の荷室で、ダウンしていた時に聞こえてきた音だ!
あれはタケルさんと、あの時一緒にいたイカツい男の人が、海に入る準備をしていたとこだったのか……
ゴリゴリゴリゴリ ヒャハハハハ!
ザザーーーーーーッ
夢の中で聞いたと思っていた、音と記憶が一つに繋がった。
サーフワックスを塗る音と、波の音と、笑い声。そして……
パーコ…… おい、パーコ!
その時アヒルは、タケルが誰かを呼ぶ声をハッキリ思い出した。
そこでまたホナミに訊いた。
「……パーコってのは、、、誰のことですかね?」
「え!?」
それを聞いて、ハナコの顔色がサッと変わったのをアヒルは見逃さなかった。
「パーコ?なんで?」
ホナミがキョトンとアヒルに訊き返した。
「タケルさんが、確か明け方……その、ワックスをゴリゴリやる前に『パーコ、おい、パーコっ』て、あたしのことを呼んだ記憶があるんです」
「あんたのことを??パーコって言ったらタケルの、、、」
と言いかけて、ホナミも急にハッとして口ごもった。
そして二人とも、まるで大きな酸っぱい梅干しを口にねじ込まれ、吐きだすことも飲むこともできない、とでも言うような、なんとも複雑な表情を見せた。
ハナコなどはアヒルから目を逸らし、スチールの食器棚の方を向いてしまった。その肩は、小刻みに揺れていた。
ホナミは、顔を真っ赤にして、鼻の下を伸ばしながらようやくなんとか言葉を繋いだ。
「多分そうだよ、ほら、オーストラリアの有名なサーファーで、ジョエル・パーキンソンってのがいてさ、あだ名がパーコって言うんだよ。タケル、そのサーファー好きだから……あ。そろそろ時間じゃね?アタシ、トイレ行って車まわして来るからさ、ちょっと待ってて!」
早口でそういうと、ホナミはさっさとラウンジから走って出て行ってしまった。
やだあたし、何か変なことを訊いちゃった……?
ジョエル・パーキンソン??
その人があたしに似てるんだろか……???
アヒルは訳が分からなくなって、思わずスツールから降りて立ち上がり、カウンターの中のハナコの後ろ姿を見た。
するとハナコは、まだ震えながら上下する両肩を、自分の手で押さえながらゆっくりと振り返った。その美しい顔は真っ赤に上気していた。そして目尻には涙まで溜め、笑いをこらえていたようだった。
「アヒルちゃん、、、あなたって本当に……なんて言ったらいいか、、、ねえ、また会いに来てくれるでしょう?」
アヒルはますます訳が分からなかったけれど、とにかくハナコもホナミも、気分を害したわけでは無いらしい、という事が分かってホッとした。
「あたし、またここに来ても良いんですか?」
「もちろん!あなたがここに来たいと思った時は、いつでも連絡をちょうだいな」
そう言うと、細い指で一枚のカードを取り出し、わざわざカウンターから出てくると、アヒルの前にていねいに両手で差し出した。
それは、シークレットガーデンの名刺で、住所とハナコの携帯番号が記されていた。
アヒルは、それがまるで秘密の花園の合鍵であるかのように、大切に両手で受け取り、小さな目を極限まで大きく見開き、最高の困り顔でハナコのことをじっと見つめた。
ハナコはそんなアヒルを、また肩を震わせて可笑しそうに見つめ返すと、両手の人差し指をアヒルの顔に近づけ、いきなり
ムニュッ!
と、そのへの字の口元を押さえ、横に押し上げた。
「あなたは、笑っていると100倍も魅力的よ。いつも鏡の前で、笑顔の練習をすると良いわ。そのうちきっと、ステキな事が起きるから」
そういうと、自分は1000倍も魅力的な笑顔で微笑んだ。
その時、外から車のクラクションの音がした。
「さ、そろそろ時間ね。ホナミンが車で待ってる」
「はい……。ハナコさん、今日は本当にありがとうございました」
「また会いに来てね」
アヒル—!
外から甲高いかすれ声が聞こえてきたので、アヒルはハナコにもう一度ぺこりとお辞儀をすると、ラウンジを駆け出て行った。
ハナコは目を細めてその後ろ姿を見送ると、クスッと笑い、しばらく何かを懐かしむような表情で、その場に立っていた。
デッキからの陽ざしが斜めになり、崖にさえぎられるようになってくると、ラウンジの中は急に薄暗さが増してきた。
そろそろ灯りをつけなくては……
ハナコは思った。