ヌードベージュのリップスティック
シャワーを終え、バスタオルを体に巻いて脱衣カゴを抱えると、アヒルは『厠』に向かった。
そこは、入るとすぐ二畳ほどの板間になっていて、正面には二つの個室の扉があり、綺麗に掃除された洋式トイレがあった。
風呂の雰囲気からすると、トイレも相当古い和式の物ではないかと思ったが、こちらは水洗シャワー付きの一般的な温便座なのを確認して、アヒルはちょっとホッとした。
板間の左側は、黒いタイルが張られた洗面台で、洗面ボウルは大きく深いお椀のような形の焼き物だった。蛇口はレトロな感じの真鍮製。そして同じような焼き物で出来た花瓶に、素朴な野の花が活けられていた。
右側は、薄いシフォン素材のカーテンで仕切られていて、恐る恐る開いてみると、そこは着替えとメイクのための、こじんまりとしたスペースになっていった。
壁の三方には大きな鏡が張られていて、ガラス製の横長の化粧台があり、その上にハナコが言ったように、ドライヤーやヘアーブラシ、綿棒、コットン、基礎化粧品、メイク用品などが一式、気の利いたホテルのように揃っていた。そしてやはり、花瓶に可憐な花が飾られている。
アヒルはドキドキしながら、化粧台の前の小さなクッションの良いスツールに腰掛けた。
そしてお嬢様のメイクルームに忍び込み、勝手に道具に手をつける、躾の悪いメイドにでもなったようなおかしな気分で、ヘアサロンにあるような立派なドライヤーに手を伸ばした。
スイッチを入れ、セミロングの髪に温風を通していく。
鏡に囲まれているせいで、アヒルは自分の不細工を誰かにジロジロと見られているようで、落ち着かなかった。
しかし猫っ毛が乾いて手櫛だけで綺麗にまとまり、良い香りのする化粧品や、ボディーローションをゆっくりと体に馴染ませているうちに、次第に優雅でリラックスした気分になることができた。
そしてタケルが何度も洗って干してくれた服を、ようやく身につける。
シャツを頭に被るとき、太陽の匂いに混ざって、空色のワンボックスカーの中に漂っていた優しいココナッツの香りが感じられた。
タケルさんは、今どこにいるのだろう……
そんなことを思いながら、鏡の前の自分の顔を見てみると、頬には自然な赤みがさし、瞳がいつもより黒々としているように感じられた。
あれ?なんか目、大きくなった??
アヒルは鏡の前にヌッと顔を突き出して、その微かな変化を確認するように二、三度強くまばたきをしてみた。
ふーん、、、顔色も悪くないし、これならファンデしなくてもいっか……
そしてトートバッグから化粧ポーチを取り出し、フェイスパウダーだけを軽くはたき、唇にいつものピンクのグロスを塗ろうとしたところで、化粧台の隅に置かれたメイクボックスに、数本のリップスティックが立ててあるのを見つけた。
それは海外の有名な化粧ブランドのロゴが入っていて、アヒルにも一目で高価なものだと分かった。
わぁ……
ハナコは確か『あるものはなんでも使って』と言った。
アヒルは姿勢を正し、軽く咳払いをすると指先でその中の一本を摘み上げた。
華奢なデザインのキャップを取り、根元をそっと捻ってみると、その先端から滑らかなヌードベージュの色が現れた。
それは意外な色だった。
まるで抱かれている女の肌のような、艶めかしさ。
赤よりも、セクシャルな想像を掻き立てる何かが含まれているように思えて、アヒルはその色にしばし見惚れた。
今まで試したこともない色。
というよりアヒルはまだ、まともに口紅というものを買ったことがなかった。
普段は無難に、チューブ入りのピンク系のグロスを、コンプレックスである薄い唇にササっと塗る程度のことしかしない。
けれどアヒルは今、そのヌードベージュに魅せられたように、うっとりと自分の唇の端に当てると、下唇に、それから上唇へと順にその色を乗せていった。
すると不思議なことに貧相だった唇が、まるで魔法をかけたかのように、ふっくらと柔らかそうに見えた。
あ。なんかコレ良いかも!!
嬉しい変化に、『不満そうなドナルドダック』の顔にも思わずパッと笑みが浮かんだ。
への字だった口角が、ぽっちゃり重そうな頬をキュッ!と持ち上げる。
そして鏡の中のアヒルは、今までとは別人のように明るく見えた。