シャワールーム
ラウンジから廊下に出て、数時間前にタケルを追って入って来た入り口を通り過ぎる。
重厚な鉄の扉は相変わらず開いていて、そこにやや西に傾いた午後の陽が強く差し込み、最初に感じた陰気な雰囲気は全く消え失せていた。
ただ、プルメリアの小さな看板は、いつの間にか裏返されていて、そこには『See you again』という文字と、赤いハイビスカスの絵が、やはり小さく描かれていた。
廊下をさらに進んで右に曲がると、突き当りに磨りガラスの入ったレトロな感じの引き戸が二つあり、寄席文字のような太い筆書きで、ひとつには『厠』、ひとつには『風呂』と書かれていた。
花子は風呂と書かれたの方の扉を、ガラガラと開き、そして、
「ちょっと待っててね」
とアヒルに言うと、長い髪を翻してその場を去った。
『風呂』の中は、いたって簡素な造りだった。ガランと広く、正面の水色の壁にステンレス製の大きなシャワーヘッドが3つ横に並んで据え付けられていて、それぞれの間を仕切るような物はなく、浴槽も無かった。
お風呂ってか、シャワールーム??
アヒルは訝しげに首を伸ばし、扉の外から中を覗いた。
おそらく昔は、漁師達が汗と潮を洗い流すために使われていたのだろう。床は清潔だけど味気のない、白い小さな正方形のタイルが一面敷き詰められている。そして左の壁の、床から30センチ位の所からアヒルの顔の高さ位までは、作り付けの三段の桝目棚になっていて、脱いだ衣類が置けるようになっている。そこには簀が敷いてあったので、アヒルは廊下で白いビーチサンダルを脱ぐと扉の中に入ってその上に乗った。簀はサラリと乾いていて、足の裏に気持ち良かった。
桝目棚の、アヒルの目線より高い位置には、同じく磨りガラスの横長の窓が二枚あり、そこから弱々しい自然光が入ってくる。しかしちょうどその反対側の右手の壁に、必要以上に大きな鏡が一枚はめ込まれていて、それが窓からの弱い光を拡散し、実際よりそのシャワールームを、明るく広く見せていた。
アヒルが何かソワソワと落ち着かない気持ちで立ち尽くしていると、ようやくハナコが戻ってきた。
手にはプラスティック製の、昔の銭湯にでもありそうな水色の脱衣カゴと洗面器を抱えていて、中にはシャンプーとコンディショナー、それからボディーソープとバスタオルが入っていた。
「厠って書いてある扉の方がトイレなの。それと広い洗面台があって、ドライヤーとか化粧品なんかも一式置いてあるから、シャワー終わったらそっちで身支度してね。あるものは何でも使って良いから。じゃ、ごゆっくり。電車の出発時間には、まだ十分余裕があるわ」
それだけ言うと、ハナコはニコッと笑って『風呂』の中にアヒルを残して扉を閉めた。
小さな磨りガラス越しに、ハナコの姿がモザイクのように消えていった。
ふぅ……
無意識にため息が出る。
それからゆっくりと、タケルが着せたというユルユルのタオル服を脱ぎ、最後に一枚だけ手を付けられなかった、ピンク色の小さなパンティーを足からするりと抜くと、それらを乾いた着替えと一緒に、脱衣籠に入れて棚に置いた。
目の前の、違和感があるほど大きな鏡に、全裸になった自分が映る。
アヒルは、どちらかというと小柄で肉付きの良い方だが、決して『デブ』というわけではなかった。
腰など、締まるところは締まっていて、そこそこメリハリのある体をしているのだが、への字口のせいで下がって見える、もっちりとした頬と無愛想な表情のせいで、一瞬にして『ブスでデブ』のカテゴリーに振り分けられる事が多かったが、厳密には違う。
けれど誰も、アヒルの無愛想な仮面の下から、笑顔を引き出そうとしてくれる人はいなかった。
良い面を、見つけてくれるような人は、今は既にいなかった。
アヒルは鏡に映ったそんな自分の姿を無視して、一番奥にあるシャワーヘッドの下まで行った。そして何も考えずに黒い水栓をキュッ!と回すと、ヘッドから冷たい水が勢いよく飛び出してきた。
「きゃっ!!」
思わず叫んで身を縮めると、ブラジャーをしなくても丸く高く盛り上がる、アヒルの形の良い胸の乳首も、水の冷たさに一瞬にしてかたくなる。けれどすぐに温水が追って出て来たので、気を取り直してシャンプーに手を伸ばした。
ハナコが置いて行ったバス用品は、オーガニック素材の高価な外国製の物で、どれも素晴らしい天然の香りがした。
これはハナコさんの私物なのかな……?
何だか自分にはもったいないような気がして、アヒルはいつも使うシャンプーよりかなり少量を手に取って、細く茶色い猫っ毛に擦り付けた。そんな量ではあまり泡立たなかったけれど、気にせず適当なところで洗い流す。
そして今度はコンディショナーを指先で馴染ませていくと、こちらは少しでも驚くほど指通りが良くなって、最後に洗い流すと、いつもは絡みやすい細い毛が、クシを通したようにすんなりとまとまった。
頭を洗い終え、シャワーのお湯が肩、胸を撫でて下腹部へと流れ続け、体温とすっかり馴染んだ頃には、小さくかたくなっていた乳首も、元の柔らかさと花びらのような色を取り戻し、二つの形良い胸は、濡れて滑らかな果物のようにつやつやと輝いた。
その目を見張るような美しい胸を、アヒルはボディーソープで丁寧に洗った。
洗いながら、渋谷の沖縄料理店を出てから記憶を失っている間のことが、ふと気になった。
神泉の駐車場で、汚れにまみれた厄介なアヒルの体を、タケルはどう扱ったのだろう。
『頭から水をぶっかけてキレイにして、お着替えポンチョを着せて__ 』
タケルはそう言っていた。
胸元も、袖も、裾も、ゆるく、隙だらけのタオル服に手を入れて……
水気を含んだ重いレギンスを、ぞんざいにむしり取り、
ゴワつくコットンシャツを、イライラしながら片腕ずつ脱がせて、
そして、すべすべしたピンクのサテン地のブラジャーのホックを外し……
いや、止めよう。
タケルがアヒルの服を脱がせる。
その想像は、我ながら全くもって、美しくなかった。
アヒルの美意識に反していた。
アヒルは目をギュッとつむると、その妄想を振り払うように頭を左右に激しく振り、手早く体の隅々まで、香り良い泡を塗りたくると、後はもうザッと洗い流して終わりにした。




