魔女
「イチマサ、図書館行ってきて」
背後から聞こえた少女の声に振り返る。微かに気配を感じていたから驚きはしなかった。しかし鍵がかかっていたはずだが、どうやって侵入したのだろうか。いつものことながら不思議なものだ。それに対する彼女の答えは毎回『私、魔女だから』のみだ。深入りするなということだろう。
「媛名様。お帰りだったんですね」
「実は一旦帰ってたんだけど、兄妹水入らずな時間を邪魔しちゃ悪いと思ってね」
「柚梨は日曜に帰ったのですが」
今日は火曜日だ。ちなみに昨日は祭日だったため、秋学期の講義は本日からスタートだ。
「野暮用だよ。で、行くの? 行かないの?」
「仰せのままに」
僕が軽く一礼すると、彼女は満足気に頷いた。
「教授からのオススメがここに書いてあるから、あれば借りてきて。まだいけたらこのキーワードで。参考にならないのばっかだと怒るから」
「承知しました」
授業が終わって帰ってきたばかりだが、彼女の頼みなら仕方がない。僕は彼女に渡された紙と学生証、この部屋の鍵、本を入れるための手提げ鞄だけを持って部屋を出た。
思い返せば、彼女に出会ったのはちょうど一年前だったか。あの日も残暑の厳しい夏の終わりだった。
見知らぬ少女が大学図書館前でうろうろしていたので、気づかぬ振りをしてスルーしようとしたところ声をかけられたのだ。
「ねぇ、無害そうなお兄さん。ちょっと頼みを聞いてくれない?」
「いろいろ問題のある声のかけ方ですが、まぁいいでしょう。図書館に入りたいなら、入り口で訊いてみてはどうです?」
「中学生は借りれないんだって」
「気軽に学外の人間に貸し出すことはないでしょうね。妥当な対応です」
「だから、代わりに借りてきて」
「それは規則違反です。又貸しすると責任を負うのは僕のほうです」
「んー、あ。規則に抵触しない方法思いついた。てことで借りてきて」
「……そういうことではなく、館内で勉強すれば良いのでは?」
「にゃー」
「はい?」
「あんな堅っ苦しいとこで勉強なんてやだ。学問は自由であるべき」
「……仕方ない。なら、規則に抵触しない方法とやらを聞きましょうか」
「それは後のお楽しみ〜。さ、早く行こ」
少女は僕の服、しかも腹の辺りをガッツリ掴んでグイグイと引っ張りだした。
「皴になるし伸びるのでやめてください。ちゃんとついていきますよ」
「ごめんごめん」
案外すんなり手を放してくれた。
「それにしても、なぜ大学図書館なのですか。公共図書館でもいいのでは?」
「んー、専門書ならこっちのほうが揃ってるかと思って」
「専門書……」
確かに、学術的な資料を求めるなら大学図書館が最も適当だろう。
「ちなみに、分野は?」
「数学」
……数学、かぁ。無意識に渋い顔になってしまった。気づいてすぐに真顔に直す。僕は文系選択をしたから高校数学を半分しか学んでいない。別に習っていた頃は嫌いではなかったのだ。ただ、三年になってから理系の同期に見せてもらったところ、さっぱりだったのが印象的で、どこかで敬遠している自分がいるのも事実だ。
それにしても、彼女は(自称)中学生ながら大学レベルの数学を勉強しようというのか。僕のような凡人には計り知れない存在だな。
どさり、と置かれた本を見て僕は思わず少女の顔を見つめる。僕は目当ての本をすぐに見つけて待っていたのだが、彼女はじっくり選んでいたみたいだ。積み上げられた本は二十冊ほど。
「貸し出し期間は二週間ですよ。それに十冊までしか借りられません。僕の分もあるので、八冊までにしてください」
「え、そうなの? 仕方ない、機会はあるしね」
少女は各本の目次を見ながら仕分け始めた。目的がはっきりしているのか、判断が早い。
「うーん、この本はこの部分だけで良いんだよねー。んー……めんどいけど書き写すかぁ」
「ページ数が少ないなら、コピーという手もありますよ。今回は特別にこのカードを貸しましょう」
僕は学生証などを入れているカードフォルダーからコピーカードを取り出す。これは図書館内のコピー機を使用する際に必要となるものだ。値段によってコピー枚数が決まっており、図書カードのようにパンチが入ることで残り枚数が分かるようになっている。確認すると、このカードはまだ三十枚ほどコピーできるようだ。
「ほんと? サンキュー」
コピーや貸し出し手続きなどを終え、先は聞けなかった方法とやらを教えてもらうことにした。
「お兄さんの家で勉強するの」
「はい?」
「お兄さんの家に置いておけば又貸しにはならないでしょ?」
「それはそうですが……僕は一人暮らしですよ」
「だからなに? 言ったでしょ、無害そうなお兄さん、って。正確には、憶測じゃなくて事実なんだけどね」
「それはどういう……?」
「分かるったら分かるの」
「いえ、それでは納得しかねます。それに君にも学校が──」
「あーっもう! ……ごちゃごちゃうるさいな」
「っ……」
少女が唸るような低い声で威圧してきた。この瞬間、今まで味わったことのない強烈な畏怖が心臓を絞めつけた。そして、この子は敵に回してはいけない存在だと直観的に悟った。
「物分かりの良い人は好きだよ。さっ、早く帰って早速勉きょ……」
少女から不穏な雰囲気が消え、潑剌と話し始めたその時。グギュゥルルルゥゥ……と盛大に彼女の腹の虫が鳴いた。沈黙と少女の羞恥が僕らの間で共有される。おかげで肩の力が抜けた。
「帰る前に学食を案内させてください。一人だと利用する気になれないので付き合っていただけると嬉しいです」
「……わかった」
本格的に授業が始まると、当然ながら学食には一定数の学生が屯しているが、夕方だと席が埋まるほどでもない。
「甘酢タルタルの唐揚げ定食ですか。良いチョイスですね」
「お兄さんは日替わり?」
「今日のは特に美味しそうですから」
二人して手を合わせて「いただきます」と呟く。少女は勢いよく食べ始め、「あちっ!」と叫ぶとともに水に手を伸ばした。
「ぅあー、舌火傷した……」
空腹に続いて火傷とは、災難だな。
沈黙の中にぽつぽつと会話を挟みつつ食事をしていると、周りの会話が耳に入ってくる。部活やバイト、ゲームや恋愛の話の中に、講義内容についての議論も混じっている。そこでピンときた。学問をするならもっと手っ取り早い方法がある。もちろんそれは自習とセットで効果を発揮するものではあるが。
「よくここに来るなら、講義を受けてみては? 聴講だけなら部外者でも可能かもしれないですよ」
少なくとも、僕ら社会学部の講義は人が多いため、部外者が忍び込んでいても誰も気づかないだろう。それに事前に担当教員に相談すれば了承してくれると思う。大学のレベル的に学問に不真面目な学生も多いため、中学生の少女が学びたいと言えば寧ろ喜んでくれそうだ。
「んー! そうするよ!」
ナイスアイデア! と彼女は親指を立ててにっこり笑った。
少し早い夕食を済ませた後、結局少女は僕の部屋までついてきてしまった。
「お兄さん、名前は?」
「一ノ瀬正悧です」
「じゃあイチマサだ。私は大宅媛名。これからよろしく」
「これから?」
「ん。じゃ、おやすみ」
「……は?」
彼女は挨拶と同時にその場に寝転がり、翌日の朝まで目を覚まさなかった。
それ以来、彼女は僕の部屋に住み着いている。とはいえ、基本的にお互い干渉せずに日々を過ごしているので、一人暮らしと大差ないのが実情だ。食事でさえ別々に摂る仲ではあるが、彼女の勉学へのひたむきさに影響されて勉強のモチベーションが高い状態を保っている。その点には感謝しかない。それに、偶に数学を教授してもらっている。得られるスキルを得ておくのは益だろう。
媛名様は、暫くは自分の目で見て借りる本を決めていたのだが、いつからか図書館に行くことさえしなくなった。『イチマサはもう立派な数学徒の端くれだよ。だから本選びの任を託してるの』などとテキトーなお言葉をいただいたのはいつだったか。大方、毎回入り口で手続きするのが億劫になったのだろう。
『図書館に忍び込むのも容易いのでは?』と問うたところ、『それはやっちゃダメでしょ』と常識的な回答が返ってきた。彼女の理屈では、僕の部屋はすでに彼女の部屋でもあるという。
「あぁそうだ」
本を探しながら、あることを思い出した。帰ったら媛名様に話しておこう。
媛名様の影響で数学を学び始めて約一年が経ち、玲穂さんの影響で物理学の概要を掴もうと調べごとをしたことも相俟って、僕はとある思いつきを得たのだ。
「媛名様。以前に仰っていた魔法の話ですが」
「……なに、唐突に」
「覚えてらっしゃいますか?」
「まぁ……。大したことは言ってないと思うけど」
確かにそうだ。彼女がその話題について触れたのは、問いかけ一つのみだった。
『魔女や魔術が存在して、それが物理法則とは別の法則に従ってるって言ったら、どう思う?』
僕は荒唐無稽な話だと聞き流したが、それは僕にその話題に対応する力量が足りなかったからだ。
あの時、彼女が僕になにを求めていたのか、それは未だに分からない。それでも、向き合う準備ができた。話を掘り返す動機なんてそれで充分だろう。
「世界を支配する法則が二種類あっても、おかしくはないと思えるようになりました。法則が一つだけである必然性は特にない、と」
「魔法則……魔法や魔術の法則があるって話、信じるの?」
「ええ、可能性は否定できません。ただ、世界を支配する法則が特定の人間を、それ以前に人類を特別扱いするようなことは考えにくいのです。不合理ですから」
「特別扱い……言われてみればそうかも……」
「しかし、そこに合理性を求めることができる可能性は残されているとも思います」
人類が特別視されるという自然法則にとっての恣意性は、どのようにしてこの宇宙に内包されたのか。それは包括的な支配者、あるいは超越者と言ってもいいが、そのような存在によって導入されたと考えることができる。その存在に当てはまる者がいるとすれば、それは神に違いない。
これは神の存在証明にはならないが、僕が個人的にその存在を信じる理由くらいにはなる。魔法則などというものが本当に存在するのなら、だが。
「話が逸れました。ふと思ったのですが」
「うん」
「物理学は数学的に記述されますよね」
「あー、そだっけ。知らない」
「それはつまり、宇宙を支配する法則が数学的に記述されているということです。しかし、数学は物理学に依存して存在しているわけではなく、独立した学問ですよね。とすれば、数学は物理の記述ではなく、法則の記述可能性こそが本質的なのではないでしょうか」
数学はなんら外的な対象を必要としない自己構築的な理論であり、あらゆる経験科学とは一線を画す。
ゆえに宇宙を支配する法則が物理法則以外に存在するならば、それも数学で記述可能であると考えられる。数学と物理法則がセットである必要性も、魔法則を記述するための数学のような理論が他に存在する必要性もない。
結局、数学が物理に限らず宇宙を支配する法則を記述することができると考えるのが自然ではないか、と僕は考えたわけだ。
もちろん『魔法則を記述するための数学のような理論』の存在は否定できないが、今のところ存在が確認できないため、以上のような仮説を立てた。
「……媛名様?」
「……イチマサ」
媛名様は真顔と平坦な声で僕の渾名を呟いた。僕の思いつきが気に食わなかったのだろうか。
「それだ‼︎」
「え?」
「そういうのを待ってたんだよ! やっぱイチマサを選んで正解だった!」
「え? 選んだ、って……」
「一瞬で課題が山盛りだー! ひゃっほーぅ!」
「あの、媛名様……」
「こうしちゃいられない! 資料集めだ! パパに魔術書を持ってきてもらわなきゃ!」
「……では、僕はこれで」
こうなった媛名様に僕の声は届かない。
僕は夕食を作るためにキッチンへと向かう。あの様子だと夜更かししそうだな。媛名様の夜食も用意しておこう。
翌朝、床一面に紙が広がり、その中心で媛名様が寝息をたてていたのはご愛嬌だ。僕は彼女にブランケットをかけて早々に部屋を出た。乙女の睡眠を妨げるのは罪だからな。