ティランジア記念日
正悧さんとのデートは、やはりというか、少し学術的な会話になった。それを期待していたのも事実だ。
「──玲穂さんの指摘は的を射ているかと」
的を射てるだって。嬉しい。
正悧さんの興味深い考察に頑張ってついていく。それなりに深くまで進んできたはずだけど、まだ先があるのかしら。
すでに切り分けられているステーキを、さらに半分、小さなひと口の大きさに切って少しずつ食べていたのだけど、話よりも食べ終わるほうが早そうだ。ステーキといってもそんなにガッツリしたものじゃないけど。
ここの料理は美味しい。なんとなくお店の雰囲気で選んで入ってみたのだけど、当たりだったみたい。デザートを注文しようか迷う。
「うん。美味しかった」
正悧さんが手を合わせて小さく頷く。彼のほうがずっと話していたのに、もう食べ終わったみたい。いつの間に。
「応用的ではありますが、それは貨幣の話でいえば、売買の際にはその危険性が机上論と化しているということになりますか」
合わせていた手をそのまま組むと、すぐに話に戻った。正悧さんは難しい話の途中でも、食事にも心を向けていたのがよく分かる。言葉にはしなくとも、表情の変化で味を楽しんでいたのが伝わってきていた。
結局、食べ終えてからもお店が混み始めるまで話していた。ふとした思いつきを試そうと、早速コンビニで買ったマスクをかけて正悧さんに見せてみた。
「これでどう?」
可愛くなった? それとも綺麗に?
「ダメですね」
「えっ」
まさかの全否定だった。なんだかショック。そうよね、そんなに簡単に可愛くなれるわけがないわ。
私が力なくマスクを外すと、正悧さんがさらに続けた。
「マスクのせいで魅力半減です。せっかくの美貌が隠されて損をしている気分になります。……反例が見つかってしまいました。これは再考が必要ですね」
彼のさらに予想外な言葉に、なにも言えなくなる。
正悧さんはなんの含みもなく冷静に現象を評価しているだけのつもりだろうけど、いやだからこそ、その言葉には大きな破壊力があった。
やばい、にやける。頬の筋肉が言うことを聞かない。
「玲穂さん?」
「さっ、次行きましょ」
正悧さんの視線から逃れるように、私は咄嗟に振り返って歩きだす。こんなだらしない顔を見られるわけにはいかない。でも大丈夫、もう少しで真顔に戻れるはずだ。
「それで、気になるお店というのは?」
「もうすぐそこよ」
コンビニから二十分ほど歩いただろうか、やっと目的地が視界に入った。その入り口はとあるマンションの敷地内にありながら、マンションの玄関からは少し離れたところにある。
「地下ですか。……なるほど」
正悧さんは私がなにも言わなくても理解したようだ。
地下への階段は飾り気のないコンクリートで囲まれていて、電球もなく暗い。階段の上からは店の入り口さえ見えない。
女性が一人で来る場所ではないと言われているような錯覚さえ覚えそうな場所だが、お店自体にはずっと興味があった。
「自意識過剰かもしれないけど」
「いいえ、それは違います。自己防衛と危機管理は重要なスキルですよ」
「……そうね」
私より先に踏み出した正悧さんが階段を少し下りると、振り返ってフェイス・アップにした手を差し出してきた。意図に気づいて驚いたけれど、なにも言わずに手を取る。
……もしかして女慣れしてる?
「にしても、危機管理ができるのなら、どうして人気のない電車内で僕の隣に来たのですか?」
確かに、危険がない行為だとは断言できない。けれど、そういう意味での不安はなかった。
「これでも人を見る目はあるつもりよ。正悧さんは理由なく人を傷つけることはしない、理由があっても理性的に判断する人だと思ったのよ」
判断“できる”ではなく、判断“する”と表現したのは態とだ。
「どうでしょうね。僕は自分自身への評価を保留していますが。まぁ、存外、他者のほうが本質を掴めるのかもしれない。……なんて」
お店に入ると、お洒落な内装が視界に飛び込んできた。しかしそれ以上に目を引いたのはカウンターにいる目つきの鋭いお兄さんだ。彼はどこか黒豹を連想させる雰囲気を纏っている。
「ぃらっしゃいま……わ、わか──」
「射矢さんっ」
正悧さんを見た店員さんが驚いて声を上げたけれど、それを正悧さんが慌てて遮り、私を一瞥した。どうも二人は知り合いみたい。けれど今の二人のやり取りはどういう意味だろう。
「あ、あぁ。すみません。えと、今は一ノ瀬さんでよろしいですか? まさかこんなところに来てくださるとは」
今は、というのはどういう意味かしら。『わか……』というのは旧姓かなにかだろうか。
「仰々しいのはやめてください。あと敬語も不要だといつも言っているはずです」
「それは流石にできませんよ」
射矢さんは苦笑して手を横にパタパタと振る。いつものやり取りなのか、正悧さんは困ったように小さく笑うだけだった。
「彼女が前からこのお店が気になっていたというので、一緒に来てみたんですよ。まさか射矢さんのお店だとは、世間は広いようで狭いですね」
正悧さんが私をちらりと見て言った『彼女』という言葉に照れてしまう。いえ、待って、正悧さんなら恋人の意ではなく三人称代名詞として言った可能性が高い……気がする。
「え⁉︎ 彼女⁉︎ いや待てよ。……ははーん、騙されませんよ。それは恋人って意味じゃなくてただの女性の三人称でしょ」
射矢さんには予想外のことだったらしく慌てたようだけど、私と同じように考え直したようだ。……というか思考が似てない? 正悧さんのことを知る人に共通の認識バイアスなのかしら。
「騙すもなにもないと思うのですが……まぁいいか。でも今のはダブルミーニングですよ。恋人という意味でも合っています」
「マァジっすか⁉︎ あっ……すみません、本当ですか。いや、意外です。こう言うのもなんですが、わか……一ノ瀬さんはあまり興味がなさそうでしたので」
「先友人にもそんな反応をされましたね……。実際、彼女に会うまではそうでしたけど」
先というのは私を待っててくれてた時かしら? それともアクセを送った時かな?
「なるほど。それほどまでのお方なのですね、そちらのお嬢様は」
ただの美人ではないと、などと呟いて射矢さんは大きく頷く。それなりの容姿だという自覚はあるけど、正面から美人と言われるのはやっぱり慣れないものだ。
「そういうことなら長話はやめておきましょう。この辺りに来られるなら、また機会はありますから」
「ええ、ではまた連絡しますね」
「恐縮です」
射矢さんが「ではごゆっくりどうぞ〜」と店員モードに戻ったので、私たちも店内を見てまわることにした。
「彼がいるなら、このお店は安心ですね」
先の話の続きみたいだ。射矢さんは信頼できる方らしい。そういえば、訊きそびれていたことがあった。
「先の、他者のほうが本質を掴めるっていうのは?」
お店に入る直前に正悧さんが言ったことだ。彼は一瞬静止したが、すぐに思い至ったのか軽く破顔した。
「あぁいえ、ただの戯れですよ」
正悧さんの無垢な笑顔が時を重ねるたびに愛おしくなっていく。会話をしているだけでキュンとくるのだから手に負えない。
「ただ、本質を掴むために情報の量が決定打になるとは限らないと、ふと思っただけです」
えっと、それはどういう意味かしら。
「対象に関する情報が多いほど、より正確な特定ができるというのが一般的な考えだと思うけど?」
ん、まぁそうですね……と正悧さんが呟く。そうしながら、彼は思考を高速回転させて説明を組み立てているのだろう。そしてすぐに一つの結果を得たみたいだ。
「えっと、アナロジーになっているかは分かりませんが、固有名に関する哲学の議論を挙げましょうか。古典的には、名は説明文の束とイコールだとされていましたが、現代においては名は対象とイコールであり、説明文の羅列とは一線を画すものだと考える学者が多いみたいです」
曰く、説明文というのは、例えば正悧さんについて言うと、現在大学生であること、男であること、妹がいることなどだ。けれどそんな説明文をいくら増やしたところで一ノ瀬正悧という人間を表し尽くすことは不可能であり、その説明文の束と彼をイコールで結ぶことはできない。しかし名は端的に対象を示すことが可能だ。というよりも、直接的に対象を指示するものとして定義されたのが固有名なのだ、と。
「少しいいかしら。まだ理解には至ってないのだけど、イメージとしては、漸近線とグラフみたいね。値をどんどん変えていけばグラフを漸近線に限りなく近づけることができるけど、交叉させることはできない」
「ゼンキンセン? というのはなにか分かりませんが、まぁ多分そんな感じです」
正悧さんは疑問符を浮かべながらも、なんとなく共感してくれたようだ。
「あ、そっか。文系選択だと聞き慣れないのね。例えば、y=1/x のグラフは y=0、x=0 の直線とは交わらない。この例だとこの二直線が漸近線になるわ」
私はメモ帳とペンを取り出し、図を描いて説明する。中高の数学でお馴染みの直角に交叉した x 軸、y 軸と、第一、第三象限(二つの軸によって四つに分けられた右上と左下の部分)に収まる双曲線だ。
「x の値をゼロに近づけても無限大にしても、この関数のグラフは x 軸や y 軸に交叉することはないわ」
「なるほど、これが漸近線ですか。えっと、つまりこの両軸が名前で、グラフが説明文の束ということですね」
「そういうこと。簡単のために第一象限に限って話をすると、軸そのものは本質、x または y の値は情報量を表していると考えられるわ」
「イメージとしてぴったりですね」
「あ、でも……」
「なんです?」
「本題に戻ってみると、しっくりしないわね。これらの軸が本質だとして、情報による探究をグラフと見立ててみても……他者と自己の区別がつけられないもの」
「……確かに。他者を軸に重ねるのも横暴ですからね。他者であれば良いというわけでもないし」
むーん。良いアイデアだと思ったのだけど、なかなか易くはないわね。
「まぁ、そもそもがただの詫び戯れなので、あまり気にしないでください。それより、そろそろ見てまわりませんか」
「そうね」
正悧さんの笑顔につられて思わず笑みが溢れる。やっと来れたんだもの。このお店にってだけじゃなくて、正悧さんとのデートにも。考えごとは後回しだ。
「ねぇこれ見て。すごくない?」
お店の一角に観葉植物のコーナーがあり、なんとも奇妙な植物がオシャレに飾られてあるのが目についた。
「エアプランツ?」
「土がなくても育つ植物、だって」
「イミテーションじゃなくて生きてるんですね」
そう、エアプランツと紹介されている植物群は、どれも空中にぶら下げられたり、土の入っていない容器に置くように入れられたりしているだけだ。正式名はティランジアというらしい。所謂普通の植物とは在り方がまったく異なり、イミテーションに見えるのも無理はない。
大きなPOPには簡単に育て方が書いてある。土が不要で、定期的な水やりと、適切な環境下に置くことで育つみたいだ。
「土を使わないなら気軽に部屋に置けますね。換気さえしていればカビも出ないでしょうし」
え、もうこの在り方を受け入れてその先を考えてるの? 正悧さんの順応性には驚きだ。……思い返せば、初めて話しかけた時もすんなり会話をしてくれてたわね。常識や価値観の更新性が優れているのかしら?
「買うの?」
「前向きに検討中です。僕の部屋は殺風景なので、一つくらいは置いてみるのもいいかと」
「なら私も買おうかしら。……あ、そうだ。お互いにプレゼントするのはどう?」
私は人差し指を立てながら思いつきで提案をする。
「相手のイメージに合わせて、ということですか? 良いですね」
正悧さんも乗り気のようだ。頷き合い、二人してエアプランツへと視線を振る。植物らしい緑色のものと、白っぽい産毛のようなもので覆われたものがある。薄い毛皮のようなそれにそっと触れてみると、見た目通り柔らかくて優しい感じがした。
ふと隣を見ると、正悧さんが消えていた。慌てて店内を見回すと、レジでお会計をしていた。早くない? 私はまだ候補をいくつかに絞っただけで、これからどれが正悧さんに相応しいかを見極めるところなのに。
どれも個性的で魅力に溢れている。正悧さんに相応しい、か。それなら、そこには私らしさがあってほしい。誰にとっても、彼の隣には私の影を見てほしい。なんて、欲深いかしら。
「この子に決めた」
バランス良く広がった葉とそれらの美しい曲線。白銀の衣が緑を艶やかに染めている。この子はストラミネアというらしい。
「良いチョイスですね。個体差が激しいのですが、これはなかなかに綺麗に育った個体なんですよ」
「そうなんですね」
「あとこれはこのティランジアの説明書です。大切にしてやってください」
「ええ。ありがとうございます」
レジを済ませて正悧さんの許へ歩を運んだ。お互いどんなティランジアを買ったのかは、帰ってからのお楽しみだ。
斯くして、今日、九月十三日は私たちのティランジア記念日となった。
スタンドで買ったパフェを食べていたら、不意にフルーツが零れ落ちた。正悧さんが驚異の反射神経でそれを空中でキャッチしてくれたけれど、その前に服にバウンドしたために服が汚れてしまった。
「あぅ……」
「どうぞ」
「ぁ、ありがと」
まだ使っていないですよ、と正悧さんが差し出したハンカチを受け取る。ジェントルマンのような気遣いは嬉しいし所作がしなやかで惚れ惚れするけれど、なんだか心配にもなってくる。
思い返せば、彼はいつも車道側だった気がするし、常に私と歩調が揃っていた。
「正悧さんって、なんだか……」
「なんです?」
正悧さんはキャッチしたフルーツを何事もなかったようにペロリと食べて、ティッシュで手を拭いていた。
「……女性慣れしてる?」
「え? いえいえ、まさか。デートだって人生で初めてなんですよ。……ただ、好きな人といる時くらい、紳士でいたいものですから」
「そ、そう」
正悧さんの素質なのかしら。変な勘繰りをしてしまった。というか、ティッシュがあるならハンカチを汚す必要はなかったんじゃ……正悧さんもあれで焦ってたのかも。
「これは洗ってから返すわ」
「いいですよ、わざわざそんな」
「分かってないわね。これは口実よ。次に会うための」
「そういうことでしたら」
私の直球な言葉に正悧さんは破顔したが、なにかに気づいたように妖しい笑顔に変わった。
「でも、僕らが会うのに『会いたい』以外の理由なんて必要ないでしょう?」
また、そういうことを言う……。にやけないように口許に力を込めるが、なんとも頼りない。ダメだ、と思った瞬間、ぱちん、と両手で正悧さんの頬を挟み、私は俯いて顔を隠した。
「な、なんれふか」
「ふふっ」
「えぇ……?」
「ふふふっ」
あっ、ダメだ、もうにやけを通り越して笑えてきた。正悧さんからしたら訳が分からないだろうに、彼も一緒に笑い始めた。テンションがおかしい。でもとても気分が良い。なんてことないやり取りでこんなに晴れやかな気分になれるなんて。
あぁ、そっか、これが“幸せ”なのね。
《おまけ》
完成された芸術のような相貌が、少しでも動けば触れてしまいそうなほど至近距離にある。心臓に悪い。
「な、なに……?」
「あなたの瞳に映る自分を見ているのよ」
「そんなことをしても……僕から見た貴女が分かるわけでもないでしょうに」
堪えきれずに顔を逸らして呟く。揶揄うように微笑んでいるかと一瞥すると、思いのほか神妙な表情をしていた。
「ほんとにそうかしら」
「というと?」
「……言ってみただけよ」
玲穂さんはなにも思いつかなかったのか、困ったようにふにゃんと笑った。
「──っ」
不意打ちだ。ずるい。そういうところが本当にずるい。
「なに、どうしたの?」
思わず手で顔を隠した僕を玲穂さんが心配そうに見つめてくる。
「いえ……なんでも……」
「ちょっと、なによ。笑いたいなら笑えばいいじゃない」
「……いえ、あまりにも可愛かったので……」
「ふぇっ……? なっ、わ、不意打ちはやめて……」
「それはこっちの台詞です」
二人して顔を背けて黙り込む。気恥ずかしい。
「と、取り敢えず、次に行きましょうか」
「えぇ。……どこへ?」
「そうですね……。あ、先話した書店はどうです? エアプランツの資料を見たいですし」
「そうね。私は参考書も見たいわ」
「決まりですね」
束の間の路地散策はここまでにして、僕は書店への最短ルートに足を向けた。