隠秘の法則
僕と玲穂さんは四条河原町近くにあるレストランに来ていた。ここが彼女の気になっていたお店というわけではなく、単に二人ともお昼がまだだったので、目的地に行く前に食事することにしたのだ。
「うん?」
注文を終えて水に口をつけると、小さな驚きがあった。
「どうしたの?」
「いえ、ほんのりレモンの香りがしたので」
玲穂さんも予想外だったようで、少しだけ目を見開いた。
「え? 私のはライムだったけど……。私たちのって違うのかしら。でも、そんなことってある?」
彼女が驚いた理由は僕とは違ったようだ。
「玲穂さんの、ひと口いただいても?」
「へ? えぇ、ど、どうぞ。正悧さんのもらっていい?」
「もちろん」
確かに、こちらの水からはライムの風味を感じる。だから、水の入れ物が二つ置いてあるのか。
「……確かにレモンね。二種類もあるなんて珍しい」
「僕は水にフレーバーがついてること自体に驚きですけどね」
「そう? よくあることじゃない?」
そうなのか?
「僕には馴染みがないですね。まぁ僕の場合、外食といえばファストフードやチェーン店ばかりなので、そのせいですか」
「逆に私はそういったところには行かないわね。次はそういう系のお店にしましょ」
頷きながら、玲穂さんの生活水準が僕とは違うことを実感した。初対面時から感じていたが、彼女はどこか普通の大学生とは一線を画している。住む世界が違うように感じるのだ。まぁ、僕も大概だが。
ふと思い出したことがあって玲穂さんに視線を向ける。
「訊きたかったことが一つ」
「なに?」
玲穂さんは無邪気に言葉の続きを促した。
「初めて会った日、いえ、初めて話した日ですね、あの時に言っていたことが気になっていて……」
「どの話?」
「えっと、夢が崩れ去って、絶望が死に導いていた、というところです。玲穂さんはその……自殺を考えていたんですか」
僕は他の人に聞こえないように声を潜める。
「へっ? あ、いえ、そういう意味じゃないの。ごめんなさい、心配させてしまって。そうじゃなくて、あの頃は自分が空っぽになって、自分が自分じゃなくなっていくような、そんな感覚があったのよ。そういう意味だったの」
玲穂さんはわたわたと髪を左右に揺らし、懐かしむような表情を見せた。そんなに過去の話でもないはずだが、体感時間というものは均一ではないからな。
あの日、確かに玲穂さんは「別に死にたいわけではない」と口にしてはいたけれど、もう一度はっきりと確認したかったのだ。
「夢、というのは」
「夢ってほどじゃないわ。そんなに大したものでもないのよ。ただ、私は世の中の理不尽を是正できると思ってた。世界を変えるほどじゃなくても……」
それは誰しも通る道なのかもしれない。僕にも躍起になっていた時期があった。とある社会の中でそれなりの流れを生んだ自負はあるが、僕が退いてからは元の木阿弥になった。
「できなくはないですよ、きっと。そのための犠牲を払いさえすれば」
冷酷な僕の言葉に、玲穂さんは眉尻を下げた。
「ただ、僕は貴女に幸せになってもらいたい。だから、そんな道には進んでほしくないですね。それに、もともとそんなことをする義務も責任もない」
最後の台詞は自分に言い聞かせている部分もあるのだろう、という内なる独白を聞いた。玲穂さんは一瞬だけ微笑み、すぐに真顔になった。
「……そうね」
「それでもそうしたいと仰るなら、僕も付き合いますよ」
「人生が無駄になっても?」
「人生を賭けて」
玲穂さんが僅かばかり目を見開き、それからふっと微笑を湛えた。今度は余裕の見える笑みだ。
「勘違いしないでほしいのだけど」
「はい」
「私にとっては平和や社会の公平性よりも、あなたのほうが優先度が高いのよ」
「……へっ? はっ、あ、そ……そうですか」
その表情と言葉に、不覚にも取り乱してしまった。
「それに、今はもう関わるつもりがないのもほんと」
「そうですか。つまり、僕らの態度は一致しているわけですね」
僕も彼女も、自分と大切な人たちのために生きるというポリシーを持つことにしたということだ。
あの……とどこか遠慮するように発声した彼女に頷いて見せる。そういえばお店に入る前からなにか訊きたそうな様子だったな。
「正悧さんて、妹さんがいるのよね?」
「ええ、いますよ」
「仲良いの?」
「どうでしょう。多少は兄妹として気を許してくれているとは思いますが、あまり妹から話しかけられることもないですし、仲の良い兄妹というと違うかもしれません」
「んー? そうなの……?」
「どうしてですか?」
「あっ、いえ、前に妹さんがいるって言ってたなと思って」
「玲穂さんは、ご兄弟は」
「いないわ。一人っ子よ。だから兄弟姉妹って羨ましくて」
「それなら、妹を紹介しましょうか。人見知りで無愛想ですけど、素直な子です。玲穂さんとなら姉妹みたいに仲良くなれますよ、きっと」
「……どうかしら。そうならいいのだけど」
「なんだか弱気ですね」
「そう? ……うん、そうかも」
彼女が自嘲気味な笑みを浮かべたその時、店員さんが料理を運んできてくれた。それによって、その表情の意味を知るタイミングを失ってしまった。現実は無情だ。
「美味しそう。ちょっと写真いい?」
「ええ、どうぞ。……って、なぜ僕を撮るんですか」
咄嗟に手で顔を隠したが、玲穂さんは満足気にスマホを下ろした。写真を確認して頷いているのを見ると、ばっちり撮られてしまったようだ。
「いいって言ったじゃない」
「流れ的に料理を撮るのかと思って……」
「なにを撮るかは明言してないもの。油断したわね」
「ドヤ顔いただきました」
僕は意趣返しとばかりに、したり顔の玲穂さんの写真を撮る。スマホを見て慌てて顔を隠そうとするが、僕の時よりも隙が多い。さらに連写機能を活用して確実に捉える。確認すると、数十枚のうち数枚だけ綺麗に撮れていた。
「なっ⁉︎ いつの間に……⁉︎」
「顔を隠した時、逆の手で準備してたんですよ。油断しましたね?」
「くっ……そこまで頭が切れるとは……」
「これでお相子です。それより冷めないうちに早く食べましょう」
「……そうね」
料理を見たら途端にお腹が空いてきた。不思議なものだ。
目的のお店にはそれほど長居する予定ではないとのことで、その後の予定の話となった。いくつか候補を挙げていくが、ぱっと花咲くようなリアクションは得られていない。そうは言っても玲穂さんの好みそうな場所に心当たりがない以上、手当たり次第に列挙するしかない。
「玲穂さん、本はお好きですか」
「えぇ、そうね。お薦めの本でも?」
「いえ、僕は作品を他者に薦めることはしませんよ。そうではなく、お連れしたい広い書店があるので、もし良ければ」
玲穂さんは嬉しそうに頷いた。当たりか?
「行ってみたいわ。ねぇ、書店ってなんだかわくわくしない?」
「分かります。僕もあの空間が好きです」
僕は書店が好きだ。出会いきれない数の人たちの知識や思想と、偶然性の下で出会うことができるからだ。アイデアのヒントを探すのは宝探しみたいだし、なんとなく手に取った本が人生観を変えることだってあり得る。
「正悧さんのお話を聴くのは、書店でいろんな本を見てまわってる感覚に似てるわ。私、好きよ」
「そ、そうですか? そう言っていただけるのは、なんというか、嬉しいですね」
玲穂さんは僕の目を見つめたまま、楽しそうに微笑んでいる。そこはかとなくこそばゆいな。
「な、なんですか?」
「わくわく」
「擬態語……?」
彼女は言葉通りの雰囲気を醸し出している。なにか話をしてほしいのだろうか。けど、急にそんな期待をされてもそんな準備など当然していない。なにかヒントを探そうと辺りを見回す。
「分かりました。では一つ」
窓はそれ自身が一つの芸術だ。窓そのものが持つ芸術性だけではない。窓を通して見える景色は時々刻々と移り変わり、切り取られたその景色は見る角度によっても差異が現れる。
「ふーん、なるほど。そのものだけじゃなくて周りの環境も含めて評価するということね。……それは、有名な社会学者の本にでも?」
「いえ、ただの個人的な気づきですよ。先人たちの話をしてもいいですけれど、それでは知識をひけらかすようなものですから」
「そう。……物理学で言えば、私は自分で見つけたものなんてないわ」
「それは、学問の性質上、仕方のないことだと思います」
「つまり?」
「大雑把な話、社会学は予備知識がなくてもいいですし、なんだって対象にできますが、物理学は独特の概念に慣れながら形式を知り、体系的に学ぶことで初めて新しいものを見つけられる……のではないでしょうか」
「言われてみれば確かにそんな気がするわ。……正悧さんは物理学のこともよく分かってるのね」
「いえ、単なるイメージの話ですよ。物理の知識なんて一般向けの本を流し読みした程度ですし」
「なら、物事を把握する能力がとても高いということよ」
「それほどでもないと思いますが……まぁ、これでも一応は社会学部なので、そういう部分があるのかもしれません」
「確かに、多かれ少なかれ学部に染まるわよね。正悧さんはいつもそういう感じのことを考えているの?」
「いえ、偶にです。普段は勉強するくらいですよ。そうそう、社会学といえば、最近読んだ本に触発されて考えていることがありまして。隠秘の法則、というのは僕が勝手に呼んでいるだけですが、これについて少し話しましょうか」
初めからこれを話していれば良かったのだが、忘れていたのだからから仕方がない。
「隠避?」
「漢字は隠して秘めるですね。なかなか良いネーミングを見つけるのは難しくて。取り敢えず今はカッコ仮というやつです」
学者にはネーミングセンスも要求されるのだろうか、なんて益体もないことを考えて微苦笑が漏れる。
「ネーミングについては私も考えてみようかしら。それで、どういうお話?」
「結論から言いますと──」
全貌の見えないものにはそれ特有の魅力がある。それは観測者から隠されていることで観測者を魅惑する作用を持つ。
全貌が見えていない者たちにとってそれは、不完全や未完成、未熟などと形容されることもあれば、神秘的であると形容されることもある。両者は対極にあるのではなく、どちらも側面なのだ。
全貌が見えていない時、観測者はそれの未来形としての完全な状態を予期していたり、完全ではあるが自分に対しては隠されていると感じていたりする。
全貌を知ってしまうことで──例えそれが妄想に過ぎなくとも──絶望や失望を抱えることになる場合がある。あるいはネガティヴな評価にまで至らなくとも、魅力の消失や減少があり得る。それは大抵、無意識的に期待していた──それゆえにはっきりした具体性のない──理想とのギャップがそうさせる。その理想化は脳の補完能力によって意識とは別に為されてしまうものがほとんどだ。
「つまり秘匿によって神秘性が形成されるというのは、隠された部分が人々によって理想的補完、あるいは補完的理想化と言っても良いですが、それが為されることに起因するのです。そしてそれは、隠された部分がuncoverされない……えっと、明るみに出ないというか、暴かれない限りにおいて、その地位を半永久的に保持します」
例えば、マスクをした人の顔が魅力的に見えるのがその典型例だ。
『全貌の明かされていない』という表現に暗に含意されていることだが、完全に隠されていればこの効果はない。一部が露出し、かつそれが観測者に判断材料として有意であると思わせるものでなければならない。ただしそれが実際に有意である必要はない。先の例で言うならば、マスクをした人の髪型や目許などがそれに当たる。
「例ならいくらでもあります。サングラスにマスク、衣服、小説や映画などの各種作品……特に推理モノはその色が濃い。作品を鑑賞する前に犯人や結末を知らされれば、忽ち興が醒めてしまう、というのはよく聞く話です。あとはツイッターなどのSNSアカウントなどもそうでしょうか。それに……CMとか」
「CM?」
「えぇ。あれはアピールするためのもので隠すつもりは微塵もない場合が多いかと思いますが、限られた時間の中で、かつ視覚と聴覚にしか訴えられないという制限の下での活動なので、自然、隠れてしまう。それは時に、商品を眼前にする以上の魅力を齎します」
「え、でも、それはマスクの例と違って、あからさまに魅力的に見せているからでしょ? これまでの話とは意味が変わってくると思うけど」
「……言われてみればそうですね。早速ボロが出ましたか。まだ、自分の中でもそれほど整理がついていなくて。その補完も含めたアウトプットなので、今みたいに気づいたことがあれば遠慮なく仰ってください」
「もちろん。あ、でも、CMについては、隠秘の法則を利用していると言えそうね」
「そうですね。自然発生的というより、意図的にそう作られている。あるいは、その特性上、必然的に有意と思われる情報で埋め尽くす他ない」
ここまで僕の考えを示してきたが、原点に立ち戻ったほうが意思の疎通がスムーズに進むかもしれない。そう前置きをして、本の内容を思い起こしながら再び口を開いた。
「これを考えるきっかけとなったのはファッションを題材とした社会学書です。それによると、衣服を着ることは、身体を隠すための行為であるだけでなく、身体に価値を付加している。ここまでは分かりますね。そして、衣服を着ることによって、隠された部分が人々に注意を喚起させ、人工的な視線誘導が起こったり、想像力を働かせたりする。ここが注目すべき点だと思います。つまり、飾ることによって価値を高めるという従来の了解に、隠すことによって価値を高めるという解釈を加えている」
「隠すことで……それって貨幣への欲求と似てるわね」
「……どういうことです?」
「貨幣……特に紙幣というのはただの紙切れに過ぎないから、本当はお金を受け取るというのは危険な行為なのよ。自分の財産を紙切れと交換するわけだから。しかも他者はその紙切れを受け取らない可能性を常に持ってる。それでもお金を欲しがるのは、その危険性が見えていないから。そして、私たちのようにそれを知っていても、多くの他者からは未だ隠されてるから、私たちもまた同じように市場に留まる」
「それは他者に対して実効があるからでは? 実際に効力を獲得しているので、その危険は空想に過ぎないかと。……まぁでも、特殊な状況ではそうでもないか」
僕の記憶が正しければ、映画『タイタニック』で、ある男が先に救命ボートに乗るために札束を差し出すが、それを拒否されるというシーンがあったはずだ。
「そんなシーンあったかしら」
「僕の気のせいでなければ……。その貨幣の話に似たものとして、王と臣下の関係がありますね。臣下は相手が王であるから自分たちは従うのだと思っているが、その実、臣下が王として承認することで王は王たり得る」
「マルクスね。『資本論』は読んだことないけど、その話だけは知ってるわ。んー、確かに、その事実が周知されたとして、すぐに王が王位を失うことにはならないわね。でも、どちらも、隠されているのと周知されているのとでは、その社会的な意味は違ってくるでしょ?」
「そうですね、多少は」
なにか引っかかる。いや、反論ではなく、それに連関することを考えていたような……。
「あっ、そうか」
僕の呟きに、玲穂さんは大袈裟な瞬きで話を促す。
「今の指摘で思い出したことがあります」
この法則で不思議なのは、全貌が明らかになった後に対象が再び隠されても、(魅力の多少の減退はあれど)同様の効果が現れることだ。例えばマスクをしていない顔を知っていてその人にあまり魅力を感じていなくても、マスクをした状態だとそれまでなかったはずの魅力を感じてしまう、という具合だ。
「それって、現在において隠されている点では、未来も過去も同じってこと?」
「というと?」
「未来において暴かれるとしても現在進行形で隠されているのと、過去に暴かれていたけど今は隠されているのと。どちらも……観測者にとっては実存していない、つまり仮想的で可能な本質としてしか現れていない、という点では同じよね」
「なるほど、共通していますね」
「もちろん記憶に残っていたり、いろいろ事情が変わるとは思うけど……」
「ええ、分かりますよ。しかし効果として現れている部分を見ると、それは些細な差ですね。玲穂さんの指摘は的を射ているかと」
応用的ではありますが、と前置きして先ほどの話に繋げてみる。
「それは貨幣の話でいえば、売買の際にはその危険性が机上論と化しているということになりますか。売買をしている時にはそんなことは忘れている。あるいはもし思い出したとして、それで売買の内容を変更することはないかと思います。つまり、売るのを止めたり、より多くのお金を手放すために高いものを選んだりはしない」
「なるほど、そうね。モヤモヤしてた部分がクリアになった気がするわ。……そういえば先、全貌を知るということが妄想や錯覚でも失望したりするって言ってたわよね?」
「あぁ、そんなことも言いましたね、例えば──」
自殺者(あるいは自殺志願者)にとっての救われない未来は、人生の全貌として彼の前に立ち現れている。しかしこの場合、未来という形で隠されていることが却って彼を自殺に導いていることになるとも考えられる。つまり全貌が明かされていれば不要であったかもしれない自殺という選択肢が、彼にとって強調されて顕現しているのだ。けれどそれは、未来の不確定性よりも死の未知性が魅力的だからではなく、人生の全貌を知った──もちろん実際には知らないのだが、知った気になる──ことによる魅力(生きる希望や意味など)の消失が生み出した選択肢であると考えられないだろうか。精確には、彼の悟った未来が本当の未来を覆い隠していることが問題となっているのだが、悟った未来が失望を誘発しているのは、全貌が見えたことによるそれと同型であることに違いはない。
「……ぐるぐるしてて分かりにくいわ。ちょっと待って、整理するから」
「ん、はい」
ぐるぐるってなんだろ。ただ、確かに雑然として理解に難い言いまわしだったかもしれない。
玲穂さんは顳顬に指を当てて目を閉じ、眉間に皴を寄せている。悩ましげな表情さえ洗練されて見えるのは、なんというか、ずるい。いや、ずるいといっても悪い意味ではない。それこそ僕の勝手な、そう、つまり──
玲穂さんの表情が和らいだタイミングで口を開く。
「つまり主観的観測なんですよね。全貌を知ることと知った気になることに有意な差異がない」
「まぁ、魅力の発現そのものが普遍的なものではないのだから、それは当然ね。個人差があるというか、個別の事象だもの」
「ん、なるほど……魅力の発現は個別の事象……各人で独立して生じている、か。もちろん、価値観そのものが外部の影響を受けていることは前提ですが」
「それは前に話したあれね」
「えぇ、初デートの時に。……なんだか随分と前のように感じます。まだ二週間弱しか経っていないというのに」
「あ〜それ分かるわ。それでいて鮮明に思い出せるのよね」
「そうなんですよ、不思議ですね」
あの日のことを生涯忘れることはないだろう。電車の振動やそれに連動した音、窓の外を流れる景色に、心を惹きつける美麗な横顔。そしてカフェでのひと時。僕は奇跡的に一瞬だけ二人の人生が交叉しただけだと思っていたが、そうではなかった。目の前に彼女がいる。それも僕の恋人として。
「ふっ」
思わず喜びの吐息が漏れた。
「なに? どうしたの?」
「秘密です」
「え〜、なにそれ」
「ふふ。閑話休題です。長くなりましたし、これで最後にしましょう」
水で喉を潤してから、僕は人差し指を立てる。
「注意すべきなのは、全貌を現していないものがすべて魅力的なわけではないということですね。少なくとも、こう考えられます。全貌が見えていなくとも、容易に明確に想像できてしまえば、実際には見えていなくても、見えているのと同じなのです」
そこまで言って、自分の発言に違和感を覚えた。正確に表現するには掘り下げるべきか。
「容易に明確に、とは言いましたが……これも実は具体性のない予期なんですよね。矛盾していると思われるかもしれませんが、というか実際それは矛盾なのですが、無意識下での働きとして生起しているので僕らにはそれを知ることはできないかと……うん? どうなんだろ……。泥沼ですね、この話は置いておきます」
僕が透明な箱を横に退ける動作をすると、玲穂さんがくすりと笑い、僕の鼓動が一つだけ大きく跳ねた。
「と、とにかくですね、無意識の予期によって魅力がないと判断される場合もあるということです」
「魅力を感じる感じないに関係なく、どちらの場合も具体性のない予期が生じてるってことよね?」
「そう! それです。助かります。また、これが一般的かと思いますが、逆に、明かされることで魅力的になることもある。この二つを一緒に説明してみましょう。例えばあの席の人、どう思います? 黒髪で青いパーカーの」
僕は失礼を承知で店の奥の席にいる細身の男性を視線で示す。
「どうと言われても。普通の人じゃない?」
「服で隠れていますが、かなり鍛えていますね。格闘技でもしているのでしょうか」
「えっ」
玲穂さんが再び彼に視線を向けるが、分からないとでも言いたげな表情で僕に視線を戻した。
「彼の印象、変わりました?」
「ええ……そうね」
「先ほどよりも魅力的に感じるでしょう? 予期していなかった情報が与えられたことで、服の上から見た印象が今裏切られたわけです。これが明かされることで得られる魅力ですね。しかし実際にはまだ僕らには明かされていない。そこで、実際に目の当たりにした時に期待していたほどでなければ、逆に失望することになります。これは最初に話していたものですね。おぉ、三つ同時に説明できましたね」
「えっと、要約すると、普通の人っていう印象は、魅力がないという無意識下での判断によるもので、その次が明かされたことによる魅力の発現、そして最後のが、予期を裏切られることによる魅力の消失……ってことね?」
「そういうことです」
「ん〜、つまり、魅力の発現と消失、そのどちらにも共通しているのは、予期に対するギャップがそうさせてる点ね。ギャップ萌えとは善く言ったものだわ」
「ギャップ萌え……なるほど、そうですね。片方はその一言で事足りる話でしたか。ま、とりあえずこの話で今考えているのはこんなところです」
「うん。なかなかおもしろかったわ」
「それはなによりです」
「この話を文章にしてまとめるの?」
「ええ、そのつもりです。まだ碌に文献を当たっていないのでなんとも言えませんが、上手くいけば卒論のテーマにできるのではないかと思っています」
「卒論……二回生ってもうそんなこと考える時期なの?」
「いえいえ、そんなことありませんよ。ただ早めにテーマをいくつか持っておくと後々余裕を持てるかと」
「堅実ね。他にも考えてあるの?」
「いえ、今はこれだけです。ただ問題がありまして。この話には結論がないんです。論じたその先に、だからこうだ、と言えるなにかがあるわけじゃなくて。それを見つけられない以上は論文どころか課題レポートにもなりません」
「そう……。でも、焦ることでもないわね。書いてるうちに閃くんじゃない? それか、社会問題とかいろいろ調べてたら繋がったりするかも」
「そうですね、気長にやります。お、そう考えると書店はうってつけですね」
「……これがデートだって忘れてない?」
「まさか。本のタイトルを軽く見てまわるだけですよ」
「ほんとかしら」
玲穂さんは若干の疑いを含めた目で見つめてくる。僕は他者から見たら、恋人を放置して調べごとをするような人間に見えるのだろうか。
「なんてね。そろそろ出ましょ」
玲穂さんの子どものような笑顔から逃れるように周囲に目を向けると、店内の空席が埋まりだしていた。話より先に食事が終わっていて、食後はゆっくりしたいのでそのまま居座っていたが、そろそろ混み始める時間のようだ。
それぞれで会計を済ませて店を出る。当初の目的地に向かう途中、玲穂さんの希望でコンビニに立ち寄ったが、僕は外で待つことにした。
「これでどう?」
声に振り返ると玲穂さんがマスクをしていた。どこか挑戦的な目だ。なにを買ったのかと思えば、早速の実践というわけだ。しかし。
「ダメですね」
「えっ」
マスクをした彼女は可愛くも美しくもなかった。これは先まで論じていたことに反する。彼女は顔を隠すべきではなかったのだ。
「マスクのせいで魅力半減です。せっかくの美貌が隠されて損をしている気分になります。……反例が見つかってしまいました。これは再考が必要ですね」
「……」
「玲穂さん?」
「さっ、次行きましょ」
顔を背ける刹那、マスクを外した彼女の頬が緩んでいたのを僕は見逃さなかった。