意地とかお節介とか
れいほ視点です。
皿洗いをしている私におばあちゃんがお皿を運びながら声をかけてきた。
「玲穂ちゃん、ありがとね」
「ううん。これくらい任せて。ご馳走になってるんだから」
「悪いねぇ」
「私がいる時くらい、おばあちゃんはゆっくりしてて」
「ありがと」
おばあちゃんは目尻に皴を作って優しく微笑む。私の大好きな表情だ。
「うん」
私は夏季休暇の間はずっと、田舎の祖父母の家に泊まっている。小さい頃は、盂蘭盆や正月の時期など、父親の連休にいつも連れられて来ていた場所だ。ここ数年は父はあまりここには帰らなくなったが、祖父母もそれほど気にはしていないようだ。尤も、そう振る舞っているだけかもしれないけれど。
夜も深け、微かな眠気が体に広がるのを感じながら、電気を消して布団に寝転がる。ここはこの家に泊まる時にいつも使っている部屋だ。この家独特の木の匂いに落ち着く。なんとなくスマートフォンを手に取り、指紋認証でロックを解除する。
「うん?」
ロック画面からホーム画面へと移り変わる一瞬、通知が来ていたような気がした。確認すると、一通の新着メールがあった。送信者名は『Ichinose Yuri』となっている。記憶になければ登録されたアドレスでもない。
「イチノセ、ユウリ……?」
正悧さんではない。姓はイチノセだけど、名は知らないものだ。本文に目を通す。
『はじめまして。私は一ノ瀬正悧の妹。
あなたは兄とどういう関係?』
簡潔なものだった。礼儀の欠如は敵対心から来るのだろうか。この最後の文言から推測するに、兄を取られたくない妹心といったところだろう。とすると、どう答えるべきなのか。
ただの友人です、と言うのは不誠実かな。なら、こ、恋人です、って言っちゃったほうが良いのかしら? 先ずは正悧さんに相談を……いえ、それはユウリさんに失礼かもしれないわ。少なくとも摯実じゃない。正悧さんの妹さんならまっすぐに向き合いたい。
取り敢えず、私に直接コンタクトを取ってきたということは、正悧さんには尋ねていないということね。そして、兄には訊けなかった。つまりは……どういうことなのかしら。とにかく、直接会ってみたほうがいいかもしれない。
『一ノ瀬様
初めまして。私は龗都玲穂と申します。
正悧さんとお付き合いさせていただいております。
若輩者ではありますが、よろしくお願い申し上げます。
もし宜しければ、お会いしたいのですが、いかがでしょうか。良いお返事をお待ちしております。
龗都玲穂 (れいつれいほ)』
知らない相手へのメールというのはどうにも難しい。姓の漢字は分かるけれど、名のほうは分からないので書かなかった。
「……はぁ」
返信なんてそんなに早く来ないだろうに、私はなぜスマホを見つめているのだろう。と思ったその時、見計らったようにメールの返信があった。ユウリさんからだ。
『嫌。会わない』
……簡潔にもほどがあるわ。
どうしようかと考えていると、彼女からもう一件メールが来た。
『丁寧な文章はやめて。イライラする。敬語も不要。』
……前途遼遠ね。
『わかったわ。それで、どうして会ってくれないの?私と話をしたいからメールをくれたのだと思ったのだけど。
それと、どうやって私のメアドを?』
メールを送ってから気づく。なぜ『アクセ』ではなくメールなのだろう。よく見ると、彼女のアドレスは有名なフリーメールサービスのドメインを含んでいる。用心深いのか、兄の近くにいる女というだけで嫌われているのか。
それにしても、彼女はどういうつもりなんだろう。私のアドレスを入手したということは、順当に考えれば正悧さんのスマホからその情報を得る他ない。けれど正悧さんがそれに関わっているとは考えにくい。つまり彼女は──
不意にスマホの画面が発光し、はっとする。
ユウリさんからの着信だ。返信が早いのを見ると、このやり取りが今は最優先なのだろう。暇なだけかもしれないけど、彼女にとってこのやり取りが重要だということに変わりはないだろう。
『会いたくないから会わないの。情報は得たからもう必要ない。
あと兄貴のスマホの暗証番号くらい知ってる。アクセ以外の連絡先があったからそっちを使った。まだあなたを信用してないから。』
雑さはあるが簡潔だ。取りつく島がない。
「むー……」
こうなったら意地だ。ユウリさんに会いにいく。
私の幼稚さが少し顔を出した。
最初のメールを受け取ってから六日も経ってしまった。ここ数日は柚梨さんにメールを送ってみたのだが尽く無視されている。仕方がないので、強硬手段に出ることにした。
桔梗咲高校。
それがユウリさんの通っている学校であり、正悧さんの母校でもある。初めて話した日に正悧さんがそう言っていたはずだ。
その最寄り駅、桔梗が咲駅に来ていた。一度高校のほうにも行ったけれど、思えば私はユウリさんの顔すらも知らない。突出した度胸を持つわけでもないので、校門から出てくる生徒の集団に話しかけることもできずに校門近くで暫くふらふらした後、諦めて帰ろうと駅に戻ってきた時だ。プラットホームに下りると、一人の男子高校生が目に留まった。桔梗咲高校の制服に身を包んだ姿はどこか寂しげで儚いにも係わらず、そこはかとなく凛々しく見えた。そんな矛盾した不可思議な印象を与える彼に、なぜか正悧さんを重ねてしまった。
彼の肩をそっと叩く。振り返ったその顔には不審を抱いている感じはなく、ただ純粋なまっすぐさだけがあった。好青年だ、と言葉を交わすこともなく思った。
その後の会話で、ユウリさんとの接触の可能性が出てきた。初っ端から当たりとは私も運が良い。途中で一つ訂正が入り、彼女の名前はユウリではなくユリだと分かった。確かに“Yuri”はユリと読むべきだった。
やってきた電車に二人で乗り込み、ロングシートに並んで座る。同じ方向に帰るので、流れで暫し会話をすることになった。
「いきなり頼みごとしちゃってごめんね。私は龗都玲穂。大学生で、今は夏休みなの」
「神海龍二です。高校一年です。よろしくお願いします」
「ええ、よろしく。そうだ、頼みごとのお礼になにか……そうね、悩みでも聞いてあげるわ」
「悩み……ですか?」
「ええ。高校生なら悩みの一つや二つあるでしょう?」
「ええと、特には……。いえ、あるとは思うのですが、急に訊かれてすぐに思いつけるような大きな悩みはないかと」
「そう。それは、良いことなんじゃないかしら。悩みがあることが悪いとは言わないけれど」
そのまま沈黙に身を任せる。神海くんは特に話していないと落ち着かないというわけでもなさそうなので、私も無理に話すようなことはしない。
電車がレールの上を走る音が一定のリズムを刻む。昔からこの音が好きだった。物語の始まりを感じさせてくれるから。
「そういえば、先ふと思ったのですが」
「なに?」
「いえ、月並みな質問かもしれませんが、存在意義、というか、人生の意味ってなんだろうな、と」
神海くんは呟くように言ってから、ちらと私の顔を見た。どこか答えを求めるような目をしているが、答えらしい答えなんて私にはないからその期待に応えることはできない。そのかわりに、彼の探究の手助けくらいはしようと思う。
「あなたはどう考えてるの?」
「へ? あ、いえ、ほんとに先疑問に思っただけなので、なにも考えなんてありません」
「そう。なら、今考えてみて。難しく考えなくていいから」
神海くんは短く返事をして体の前で腕を組む。それから一分くらいが経過しただろうか。私は待ちきれずに口を開いた。
「どう?」
「……えっと」
彼は困ったように、くしゃりと笑った。上手く言葉にできないようだ。それは仕方のないことだ。多分だけど、彼はなにか壮大なものを答えとして予期しているのだと思う。
「灯台下暗し、なのかもしれないわね。遠くを見てるだけじゃなくて、身近なところに目を向けてみるのも良いかもしれないわよ」
「身近なところ……」
「人は、妄想と現実を区別できていると思っていても、その実、案外そうでもなかったりする。現実に妄想が透けて見えていて、その影に一部の現実が隠れてしまっていることもある。とでも言っておこうかしら」
「……なかなか難しいことを仰いますね」
「ふふ。私の話をするとね、思い描いた世界は現実にはなかった。でも、現実には思いがけないことがある。私はね、そういう自分の外から齎されるなにかが、現実らしさだと思うわ」
「現実と妄想、ですか。その二項対立がヒントですか?」
「ええ、私なりの、だけどね」
もともと人生に意味なんてなかった。そのことを毅然と肯定されて『人生の意味』なんていうものは虚構だと知った。そして空虚だと思った。でも、そもそもおかしかったのだ。 なぜ、そんなものが初めから存在している必要があるのか。誰がそれを決めるのか。神か、仏か、将又この世界そのものか? それもまた虚構だ。私は知らぬ間に決定論的な運命というものを仮定してしまっていた。 それが空虚の原因。人生の意味は、自分で創りだすものなのだから。決定論なんて、決められた道を歩くだけの人生……いえ、もっとなにもないものだ。無意味にもほどがあるんじゃないかと思えてしまう。そんな泥沼から引き上げてくれたのが、正悧さんだった。
「私は一つの結論を持ってる。もちろんそれが正解だとは言わないし、正解が一つとも限らない。けれど、一つだけ自分が納得する答えを持っているわ」
アドバイスをしないのであれば、私は彼にとっての第三者の審級として振舞うべきだ。答えがあると思って考えるのと、答えなんてないと思って考えるのとでは、思考のベクトルが変わってくる。生きる意味がポジティヴなものであると彼に思わせるくらいしかできないが、それだけで充分だとも思う。
「だから、人生の意味を探す中で、迷ったり絶望したりして辛くなった時に、他に頼れる人がいなかったら、私を頼りなさい。気休めくらいにはなると思うわ」
彼は私の言葉を噛み締めるようにゆっくりと頷く。
「ええ、そうですね、そうさせていただきます」
彼がそうであるように、私も彼が思い詰めるようなことになる心配はしていない。根拠薄弱だけど、彼は私のように間違わないだろうと思う。
彼とは目的の駅が違ったので、プラットホームから手を振って見送った。暗闇を見上げながら、そういえば、彼はどこか正悧さんに似ていたな、とふと思った。