秋学期の始まりに
夏休みも終わり、秋学期が始まった。今日は履修登録期間の初日だ。学部・セメスターごとのガイダンスが終わり、場所は変えたが今もそのまま大学に残っている。
今日は夏休み明け初の登校日でもある。どうでもいいことだが、本格的に授業が始まるまでは夏休みだという考え方もある。そうすると今も夏休み続行中か。しかし、僕がすでに夏休みが終わったという捉え方を採用しているのは『夏休みが終わったにも係わらず授業がなくゆっくりできる』状況を満喫できるからだ。普段なら授業を受けているような時間にまったりできる解放感とでも言おうか。なんて、本当にどうでもいい話だな。
僕が今いるのは摂動館だ。一応、社会学部の建物ということになってはいるが、他学部の学生も普通に利用する。二階には広いカフェテリアがあり、昼休みでなくても常にそれなりに人がいる。授業やアルバイトなどの用事がない時間、僕は大体ここに入り浸っている。いつも、窓に沿って置かれた長机の一席に座って、勉強したり、建物や空、外を歩いている人たちを見たりして過ごしている。
今も外は暑そうだが、空調の効いたカフェテリア内は快適だ。
「ようノセちゃん。久しぶりー」
「あぁ、春弥。お久しぶりです」
履修登録のためにスマートフォンを操作していた僕に声をかけてきたのは、同じ学科の友人、志㠀春弥だった。彼は僕のことを『ノセちゃん』と呼ぶ。
名字の漢字が変わっているが、“㠀”は『島・嶋・嶌・嶹・隯・陦』の本字だ。それを知れば、なるほど“島”は点々を省略してできたのだと分かる。“島”と“鳥”が似ているのは前者の漢字が後者ありきで作られたからだったのだ。彼に出会ってすぐに一つ勉強になった。
「登録終わったー? まだなら般教一緒に取ろーぜ」
どうやら春弥も登録が終わっていないようだ。今のところ、僕が入力した授業数は一つの学期で登録できる上限までは達していない。ちなみに『般教』とは学部に関係なく選択できる共通教育科目に分類されている授業のことだ。一般教養または一般教育科目の略語だろう、と僕は思っている。
「単位上限まではまだ。なにか面白そうなものでも?」
「いや〜、別に面白いもんなんてないけど。なんでもいいから今のうちに単位取っとかねーとな。パイセン方みたいになりたくねーし」
春弥の言う先輩とは、卒業要件を満たせずに留年組になった人たちのことだろう。去年の秋だったか、春弥と一緒にいた時に、壊れたロボットのように「ヤバイ」「終わった」と繰り返す先輩を見かけた。周りにいた同期らしき人たちの話によると、単位数の計算を怠ったことで予期せず留年組になってしまったようだった。それも、就職先が決まっているにも係わらず、だ。他にも、何人か絶望的な顔をした人たちがいたな。彼らも似たような理由だろう。その時に実際にそんなことがあるのだと知った。油断してはいけないということらしい。当然だが、先輩の大半はちゃんと単位を取って卒業している。
「確かに。気をつけないといけませんね」
なにか興味の持てそうなものはないかと、一般教養の授業一覧が載っている紙と画面に表示された空きコマを交互に見ていると、物理学入門という文字が鎮座していた。
「あの、これなんかどうですか」
僕が指差した箇所を春弥が覗き込む。
「ん? ……物理ぃー? ノセちゃん前に物理嫌いって言ってなかったっけ?」
「そうですね。言ったと思います。でも、それは中学の授業で苦手意識を持ってしまって、それ以来敬遠していただけなんですよね」
「へー。でもなんで興味持ったの?」
「それは……」
その理由をトレースしようとして、思わずあの時のことを思い出してしまった。
背筋を伸ばして、下がりそうになる視線をどうにか維持する。唇が震えているのが分かる。それでも僕は言いたい。否、言わなければならないのだ。逃げてしまえば、後悔するのが目に見えているのだから。
龗都玲穂という美女に、僕が釣り合うとはまったく思えない。彼女は岩壁に咲く最も美しい花だ。対して僕は水辺にたくさんあるうちの一本の葦に過ぎない。だから、恋人になどなれるわけがないのだ。けれど、友人として付き合って、彼女に魅了され続ければ、僕は相思相愛の恋愛などできないだろう。下手をすれば一生。だから僕にとって、彼女の友人になるという選択は、ある意味、悪手なのだ。それに──先の言葉と矛盾するようだが──少しだけ、可能性があるような気がしたのだ。いや、あると信じたかった。玲穂さんが、Yesと言ってくれる可能性を。だから僕は勇気を出して、賭けに出た。
「貴女に一目惚れしました。僕の恋人になってください」
極度の緊張のせいか、視界が一瞬だけ狭まり、ぼやけた。再び焦点が合うと、玲穂さんが驚いた表情のまま、二度、瞬きをするのが見えた。少し間を空けてから再び二回瞬くと、彼女は視線を彷徨わせ始めた。それから徐々に、少し困ったような、戸惑うような顔になった。
その様子を見て僕は悟った。やっぱり、迷惑だったのだ。僕のような凡人が、彼女のような高嶺の花になにかを望むなんて、思い上がりもいいとこだ。どうしようか。この後なにを話すかなんて考えていなかった。なにをどう言えばいいのだろう。誤魔化すことはできないし、したくない。でも、現在進行形で迷惑をかけているのだと思うと、申し訳なくなってくる。
「……一ノ瀬さん」
「……はい」
「いえ、正悧さん」
「え、あの……はい」
「私も、今になって、あれは一目惚れだったのかな、って」
「それは、どういう……?」
「だから、その……私も、正悧さんに──」
惚れてたんだわ──と、確かに彼女はそう言った。
僕は暫く頭の中が真っ白になった。放心状態というやつだ。茫然自失とも言う。何度か声をかけてくれたようだが、それには気づかず、玲穂さんが顔のすぐ前で手を振ってくれて、やっと現実に戻ってこられた。
「その、つまり、僕とお付き合いしてくださるのですか」
「え、ええ。その、両想いなんだから、断る理由なんてないわ。……あ、いえ、そうじゃなくて、上から目線で話してしまうのは悪い癖で、ごめんなさい、私からも」
玲穂さんは心を落ち着けるために深呼吸を一つする。
「私も……あなたともっと一緒にいたいの。あなたのことを知りたい。もっと話したい。だから」
彼女はふわりと微笑んだ。
「よろしくね。正悧さん」
「おーい。ノセちゃーん? なーにぼーっとしてんの」
「あ……いえ、すみません。夏休みにちょっとありまして。それでもう一度、物理を勉強してみようかなと。もしかしたら楽しいかもしれないし」
「ふーん? ま、苦手を克服しようってのはいいじゃねーの。それにしようぜ」
「いいんですか?」
「俺が勝手についていくだけで、ノセちゃんなら一人でも受けるっしょ? 俺は取り敢えず単位取れればいいし」
なら、これを登録して終わろう。あまり入れすぎてもテスト期間に辛くなるだけなので、ほどほどにしておいたほうがいい。残念ながら僕は、単位数上限まで入れてすべての授業の勉強を上手く捌けるほど器用ではない。
「僕はこれで終わりますが、春弥は?」
「俺は寧ろ今から登録始めるとこ。てか登録したの見せて」
「まぁ、いいか。はい」
登録画面を開いたまま、スマートフォンを春弥に手渡す。僕は知り合いと一緒に授業を受けるのはあまり好きではないが、春弥ならいいだろう。教室の後方で友だちとお喋りしている人たちの気持ちは分からなくもないが、あまり煩いのはやめてほしい。僕自身、友人と一緒なら彼らのようになってしまう可能性は否定できない。だがその点、春弥は授業中に余計な話をしようとしないので、僕は安心して一緒に授業を受けられる。同じ授業を受けている友人がいると、分からないことを教えてもらえることがあるので心強いというのもある。
僕はすることがなくなったので、なんとなく窓の外に視線を移した。今日は朝からずっと快晴だ。ほどよく涼しい屋内から蒼い空を眺めるなんて、なんとも贅沢な時間だな。
「おい、アクセ来たぞ」
春弥が僕のスマートフォンを手渡してくる。
『アクセ』とはアクセサリーのことではなく、海外の企業が開発したインスタントメッセンジャーアプリケーションの一つだ。『アクセ』は“accelerator”の略で、会話を加速させるという意味を持たせたのだと聞いたことがある。文字や絵文字の文章だけでなく、スタンプという専用のイラストやアニメーションもあり、ある程度ならスタンプだけで会話することも可能だ。このアプリはスマートフォンを使っている人なら誰でもインストールしているのではないだろうか。
スマートフォンを受け取り、そのアプリを起動させる。相手は玲穂さんだった。メッセージを開くまでもなく、メッセージの内容が見えているのは、このアプリの仕様だ。短い文章ならチャットを開かなくても全部読めてしまう。
『今日って空いてる?』
メッセージを見た瞬間、鼓動が少し速くなる。彼女に会えるのは純粋に嬉しい。
彼女と出逢った日の翌日には僕は大学近くに借りているアパートに戻っていた。彼女は夏休みが終わる直前まで地元にいるとのことだったので、彼女とはあの日以来会えていない。彼女も僕と同様、京都の私立大学に通っているということだった。僕たちは連絡先を交換し、何度か文章での会話をしている。なので彼女が昨日、京都に帰ってきたことは知っていた。そろそろ彼女の通う大学も夏休みが明けるのだろう。
ちなみに、件のアプリケーションの連絡先だけでなく、電話番号とメールアドレスも交換したが、使う機会はあまりなさそうだ。
『空いてます。どこで待ち合わせましょう?』
『四条烏丸駅とかどう?』
『わかりました。地下鉄の改札を出てすぐのところで会いましょう。大きな地図の前です。僕は四十分くらいで着きます』
返事を送るとすぐにスタンプが届いた。頭の上で両前脚を輪っかにして可愛らしく笑う猫のイラストだ。僕は持っていないので、使用期間に制限のある無料スタンプか、アプリ内のコインやクレジットカードなどで購入できるものだな。
『私もそれくらいで着くわ』
僕もスタンプを送る。無邪気に白い歯を見せてにっと笑いながら、グッと親指を立ててサムズアップのサインをしている女の子のイラストだ。デフォルトで入っているものだが、なかなか可愛くて僕は気に入っている。
「すみません、春弥。用事ができたので帰ります」
「うん? おう。急だな。デートか?」
春弥はニヤニヤしながら訊いてくる。
「そうです」
「は? ……へ!? うっそ、マジで?」
声が裏返るほど驚かせてしまったようだ。
「冗談です」
「ちょ、なんだよー。だよな、お前彼女いないって言ってたもんな」
「というのが冗談です。機会があれば紹介しますね」
「あ? え? マジなの……?」
「いえす。では、また」
「お、おう……」
そんなに驚くようなことなのだろうか。確かに僕はモテる人間ではないけれど。玲穂さんが僕の彼女だと聞いたら誰でも疑うだろうが、ただ恋人がいるというだけでそんなに驚かれるのは少し心外だな。僕は自分の顔が不細工だとは思っていないのだが。いや、そういうことではないか。彼には僕が恋愛に興味がないように見えていたのかもしれない。確かに、玲穂さんと出会うまでは然程興味がなかったのは事実だ。彼のリアクションは正しかったのだろう。
バス停で時刻表と現在時刻を見合わせる。次のバスが来るのは二分後か。タイミングが良いな。そうだ、履修登録を確定しなければいけないな。それからそれをスクリーンショットして春弥に送っておこう。
僕が待ち合わせ場所に着いたのは、それから約二十分後だった。思ったより着くのが早かったな。こんなに短時間で来られるものだったのか。しかし以前に春弥と来た時にはもっと時間がかかったように思う。バス停への到着や電車への乗り継ぎのタイミングでかなり変わってくるということだろうか。
まぁ、待たせるより待つほうが良い。
「ふーっ」
少し深めに息を吐き、意識を内から外に向ける。自覚的に道行く人々を眺める。学生の姿はあまり見えないが、若者から尊老まで、様々なファッションに身を包み、それぞれの歩行速度で通り過ぎてゆく。社会の縮図のようだ、と思った。老若男女の知らない人たち。この一人ひとりが、三者三様の過去を持っている。十人十色の人生を歩んでいる。そう思うと、当たり前のことなのに、少し不思議な気分になる。
普段の生活の中では、僕にまったく関わりのない人たちには物語性がないように見える。それは仕方のないことなのだ。人には、少なくとも僕には、常にそれを空想するだけのエネルギーや時間がないのだから。ただ、その一つひとつを僕が辿ることができなくても、彼らが自身の人生を振り返ることができるなら、世界は優しさを孕んでいるのだろう。
……振り返る、か。
すべての瞬間は現在となった直後に、無限大の速度で過去へと遠ざかってゆく。一年前も、一週間前も、一瞬前ですら、すべて等しく過去として隔絶される。過去に対するあらゆる作用は拒絶され、改変の不可能性は覆されることなく保持される。そして、すべて事実は記憶と記録の一部としてのみ生起することができる。つまりは、過去に対してできることは、振り返ることだけなのだ。
それが現実だ。良い悪いという問題ではない。ただ世界がそうあるだけだ。それは惨酷であり、救いでもある。未来への不安と同様の不安が、過去に対しては存在しない。過去を変えることができないことがその根拠となる。同時に、未来へ抱く希望が、過去に対して存在しないのだけれど。
まぁ、なんだっていいさ。どうしようもないことについては都合の良いところだけを見ていればいい。必要なら嫌でも見ることになるのだから、その時に考えればいいのだ。
そこまで考えて、はたと気づく。同時に、鼓膜に触れる音のボリュームが増す。
「……はぁ」
まただ。気がつくと内なる独白のために内閉している自分がいる。外界への無関心は自己管理の不完全さを表す。集中と散漫は紙一重だな。
大きく息を吸いながら背筋を伸ばし、胸を張る。そして息を吐きながら腹筋に力を入れる。すると視界が少しクリアになり、脳に沁み込んでくる情報量が増える。情報は脳によって処理されて初めて意味を持つということを実感する。
スマートフォンで時間を確認すると、ここに着いてから約十分が経過していた。まだ少し待つ必要がありそうだ。
他人の服装でも観察していよう。最近、ファッションに関する社会学の学術書を読んで、服装に興味を持ち始めたのだ。
ちなみに、僕はファッションという言葉を、単に『服装』という意味で使うことが多い。もともと『流行』という意味だと知ったのは大学生になってからだ。
人の波が色合いを変えながら進行していく。知らないもののほうが多いが、名前が分かるものもある。
ガウチョパンツ、ショートパンツに、カーゴパンツ。あれはティアードスカートか。初めて見た気がする。今まで他者のファッションを意識していなかっただけなのだろうが。最近知ったものを偶然見かけるとなんだか嬉しくなるな。これは趣味になるかもしれない。あの形状はサブリナ、いや、カプリか?
カプリパンツとサブリナパンツは似ていて、どう見分けるのかが分からない。ちなみに名前の由来は、前者はイタリアのカプリ島、後者はオードリー・ヘップバーンが映画『麗しのサブリナ』においてサブリナ役で穿いていたことからだというのは有名な話だ。
ボトムスしか分からないのが歯痒いが、それ以上に楽しい。
僕はいつの間にか夢中になっていたようだ。それに終わりを告げる、鈴のような清涼な音が響いた。
「正悧さん」
その名に相応わしい、透き通るような美しい声が僕の名を呼ぶ。
視線を向け、僕は思わず瞠目した。分かっていても見蕩れてしまう。一目見た瞬間に人は彼女に魅了されるのだ。それがこの世界の法則であり、普遍的事実だ、と本気で思う。
僕が彼女に気づいたことを認めると、彼女は涼しげな微笑を湛えて、小さく手を振る。
彼女がいるだけで世界が輝きを放つ。
「玲穂さん」
「遅れてごめんなさい。待ったでしょ?」
言われて時間を確認すると、僕がここに着いてから四十分ほど経っていた。
「まぁ、少しだけ」
オフショルダーの真っ白いブラウスからは艶やかな鎖骨が見えている。肩紐にはある程度の幅があり、厭らしさはまったくなく、上品さを醸し出している。袖から腕が若干透けて見えるということは、シフォン素材というものだろうか。違うかもしれないが、詳しくは知らない。ボトムスは黒のサブリナパンツか、あるいはカプリパンツかもしれないが、どちらにしろ全体的にすっきりした印象を与えるコーデになっている。
「ほんとにごめんなさい」
「いえ、貴女のためならいつまでも待ちます」
僕が思ったまま口にすると、玲穂さんは小さく驚き、次いで目を逸らした。僕ははっとして口を鉗むが、時すでに遅し。お互いに気恥ずかしくなってしまった。
「あの、ところで、どこか行きたいところがあるのですか?」
「ぇ、ええ。その、気になるお店があって、それでその、一緒に行きたいなって……」
玲穂さんは再び視線を彷徨わせる。
「そ、そうですか。光栄です」
このままでは、いつまでも同じようなことを繰り返しそうだ。僕は少し緊張しながら、徐に口を開いた。
「取り敢えず、行きましょうか」
「ええ、そうね」
僕が手を差し出し、おずおずと玲穂さんが指を絡める。それにもまた驚かされつつ、彼女の歩幅を確かめながら、二人並んで四条河原町へと歩きだした。
三年前(2014年)のことなんですけど、こんなツイートをしていまして、それを思い出しました。
「電車の中にいる人たち
それぞれの人生を
僕が辿ることができなくても
各人が己が過去を
振り返ることができるのだから
それでいいのじゃないかな」
人生は事実として宇宙に刻まれるのか、人の心にしか存在し得ないのか、記憶と記録に姿を変えて、一定期間のみ保持されてから消滅するのか。そんな取り留めのないことを考えるのも偶にはいいかと思います。なんて、ただの戯れ言です。
庭虹も少しずつ物語が紡がれてきました。僕は楽しく書いています。このお話を読んだ方に、少しでも「読んで良かった」と思っていただけたなら幸いです。