カフェでおしゃべり
僕らはとある駅で揃って降りた。都市ではないが、街と呼べる程度には人のいる場所だ。僕に続いて電車を降りたので、どうやら彼女も同じ駅で降りるつもりだったようだ。……と思ったが、乗り越し精算をしていた。どういうつもりなのだろうか。
改札を出て歩き始めると同時、率直に訊いてみた。
「どこで降りるつもりだったんですか?」
「え? あぁ、えっと、別にどこでも良かったのよ」
「そうですか」
気分転換かなにかのために電車に乗ったのだろうか。僕も考えごとをするために、偶に電車に乗ることがある。
これからどうしよう、とぼんやり考えながら歩いていると、彼女はなにかを思いついたように僕を見た。二人して立ち止まる。
「そういえば、まだ名乗ってなかったわね」
「あぁ、そうですね。では僕から。僕は一ノ瀬正悧。大学生です」
「大学生? そうなんだ。高校生かと思ってた」
「え、僕って童顔ですか?」
「そんなことないわよ? 単に若く見えるってだけ。高校生とは言っても、三年生くらいに見えたのよ」
そうか。ならよかった。子どもっぽく思われるのは嫌だが、若く見られるのは悪い気分じゃない。
「私は龗都玲穂。大学生よ。とは言っても、もう退学するつもりだけど」
「それはまた、どうして?」
「気が向いたら話すわ」
「そうですか」
気にならないわけではないが、初対面の相手の事情に深入りするのは賢明ではない。生きていれば誰にだっていろんなことがある。彼女だけではない。僕たちだけではない。自分が辛い時、苦しい時、思考が制限されて、あたかも自分だけが不幸なのだと錯覚してしまう。でもそうではないのだ、とこうして時たま思い出す。今の僕は──
「ねぇ」
「はい?」
彼女の呼びかけに現実に引き戻される。
この、意識が空想から現実に帰ると途端に景色が色づく感覚は、少し面白い。
「これからどうするの?」
「そうですね──」
軽く視線を巡らせると、タイミング良くカフェが見えた。僕の目的地は市立図書館だったが、本を眺めるくらいの予定しかなかったので、今となってはわりかしどうでもいい案件だ。
「お茶でもいかがですか?」
彼女もそのカフェを見つけていたようで、軽く頷いて見せた。そして硬質な声で一言。
「ええ、喜んで」
……少しくらい嬉しそうに言ってくれないものかな。
店の端っこにある窓際のテーブル席に着くと、店員のお兄さんがメニューを持ってきてくれた。僕はキーマンをベースにしたアールグレイを、彼女はダージリンベースのレモンティーを注文した。注文を取っている間、彼が龗都さんをちらちら盗み見ていたのを見て、僕もあんな感じだったのだろうな、なんて思った。そしてやっぱり、この人は美人なのだ。派手な服装でなくとも目立ってしまう。今の彼女の服装だって、白いブラウスに膝丈の黒いキュロットスカート、それにローファーとかなりシンプルだ。それにも係わらず、人目を引く。店の外を歩いている人ですら、通り過ぎる時、窓越しに二度見してしまうほどだ。そうさせてしまう魅力が、彼女にはあるのだ。
そんな彼女の対面にいる僕を見る遠慮のない視線を気にしないようにしながら、注文したものが運ばれてくるまで僕たちはお互いのことを話していた。
龗都さんも僕と同じく、今は大学の夏季長期休暇を利用して実家に帰省しているらしい。彼女は意外にも僕より一つ年下で、物理を専攻しているのだとか。最近では理系の女の子も少なくないと聞くから、そこまで驚きはしなかったが、外国語学部かな、という僕の予想は安直すぎたようだ。ちなみに僕は大学で社会学を専攻している。ちなみのちなみに、『専攻している』といっても『専門的に研究している』のではなく、『大学で主に学んでいる』のだ。それにしても物理とは、渋いところにいるな。これは単なる偏見か?
飲める温度にまで冷まそうとスプーンで紅茶をかき混ぜながらそんなことを考えていると、龗都さんがなにか言いたげにそわそわしだした。どうしたんだろうと思って見ていた僕と目が合うと、彼女は意を決したように口を開いた。
「……あの」
「はい」
「今さらだけど、敬語を使ったほうがいい?」
「え?」
驚いた。龗都さんがそんなことを気にする人だったとは。それなら年齢の分からない相手にタメ口なのは少し無用心だ。否、お茶目と言うべきか。
「いえ、気にしないでください。僕は上下関係などは好まない人なので」
「そう。……あなたはなぜ敬語を使うの? 私のほうが年下なのに」
「別に理由は。えっと、僕は誰にでもこうですよ。とは言え相手によってはこんな中途半端な敬語ではなく、ある程度気をつけて話しますけど。僕がタメ口で話すのは妹くらいですかね」
「妹さんがいるのね。でも、親御さんにも敬語なの?」
「少し事情があって、小さい頃から母方の叔父夫婦に育ててもらっているのですが、中学時代にはその二人にも敬語を使うようになりました。細かい話はしませんが、まぁそんな感じです」
「……そう」
「……分かってはいるんです。これが他人への押しつけなのは。でも僕は、敬語を使うことで自分を保っているので、どうかこのままで許してください」
「あの、謝ることじゃないと思うけど。私も人に言えた義理じゃないし、気にしないわ。お互い様よ」
「まぁ、確かに。そうかも」
僕らは小さく笑った。
初対面でお互いのことをなにも知らないとはいえ、話が途切れないことはない。寧ろ初対面だからこそ生まれる間がある。
必然的に訪れる沈黙。
僕はほどよい温度になった紅茶に口をつける。
話が途切れたことによって、話題を変えやすくなった。実は一つだけ気になっていることがあるのだ。
「龗都さん、あの──」
「玲穂」
「え?」
「玲穂って呼んでくれないかしら。この苗字、あまり好きじゃないの」
「あ、はい。玲穂さん」
「なに?」
玲穂さんは少し満足気に続きを促した。
「一つ、お訊きしても?」
「ええ」
「どうして僕に話しかけたのですか?」
「……」
その問いに、彼女は少し複雑そうな顔を見せた。加えて、沈黙。この人なら、なんでもないような顔で「そこにいたから」なんて応えると思ったのだけど。
「まぁ、大した質問でもないので、別に──」
「いえ、ちゃんと理由はあるのよ。そうね。どう話そうかしら」
彼女は僕の言葉を途中で遮り、話す意思を示した。なにかを思い出すように瞳を閉じてほんの少し間を置いてから、彼女は僕のアールグレイを見つめながら話し始めた。
「なにも持たず、誰にも気づかれないように、静かに歩きだしたあの浜辺で、私が思い描いていた未来は、波に舐められた砂の城のようにあっさり崩れ去ってしまった。なにも知らず、なにもできないまま、絶望が私の手を引いて死の許へと導こうとしていた」
詩的な言葉を紡ぐ口を閉じて、彼女は不意に僕のほうへ顔を向けた。視線が交叉する。心臓が大きく跳ねた。
「そんな時、あなたに出逢った」
それだけを言って、彼女はすぐに視線を戻した。僕の視線は縫いつけられたように動かず、目を逸らすことができなかった。その時に見た彼女の目は、僕を見ているようで、けれど同時に、なにか他のものを見ているようだった。それは不思議の目。ある小説で読んだことがあるが、目にしたのは初めてだ。それは無意識下に違和感を与える程度の、少しの焦点のズレからきているのだろう、と僕は予想している。
それにしても。
僕は拍動を落ち着けるように、思考を切り替えた。
彼女に一体なにがあったのだろう。それに彼女と僕の出逢いは、今回が初めてではない……?
そんなはずはない。これほどの美人だ。出逢ったことがあるなら忘れているはずがないのだ。もしかすると、彼女は他人の空似で僕を誰かと人違いしているのだろうか。あるいは、彼女の妄想か、デジャビュか。
僕がそこまで思考を巡らせたところで、彼女は僕の疑問に解答を与えた。
「とは言っても、あなたは気づいていなかったと思うわ。あなたは空を見上げていたもの」
「そうですか」
なるほど。それなら納得できる。僕はよく空を見上げることがあるのだ。太陽の光を浴びながら、青い空と白い雲が織り成す刹那なる美や、その空虚さを示すような変化の過程を見るのが好きだから。しかしそれとは別に、その行為には大切な意味がある。
「その横顔を見ていて、イライラしたわ」
え、なぜ? 僕は人をイラつかせるような顔をしているのだろうか。なんて、それは被害妄想がすぎるか。
「そして、羨ましかった。つまりね、あなたに嫉妬していたのよ。ただ空を見ているだけで、幸せそうな顔をしていたから。私が絶望したこの世界を、慈しむように」
僕は沈黙したまま、彼女の話を聴く。
少なくとも人間には、他者の気持ちを知ることも理解することも、原理的には不可能だ。けれど彼女の気持ちを察することならできる。自分の気分が沈んでいる時に他者が穏やかな表情を見せていると、軽い苛立ちや羨みなどの感情を抱くことがあり、あまつさえ、その人に少しの興味が湧くことすらある。今回彼女が僕に興味を持ったのは、どうしてだろうな。まぁ、それは考えても仕方のないことか。
それにしても、世界を慈しむとは、僕は何者だ。誇張表現か、あるいは誤用か。もしかしたら、彼女の目には、本当に僕がそう映っていたのかもしれない。
しかし残念ながら、それは全くの見当違いというやつだ。現実とは往々にしてつまらないものだ。特に僕の場合は。それはこの件においてもそうで、彼女の僕に対する印象は、結果的に裏切られることになる。ただ好きだからというだけではなく、空を見ることには、どうしようもなく情けない理由があるのだ。
「私はそんな風にはなれなかった。今もそう。私の心は穏やかになってくれない。いつも破滅的な幻想に苛まれているの。そうして世界を恨むようになった。でもあなたは違う。あなたは気づいていてなお、世界を受け入れている。……あなたは強いのね」
「それは、違います。僕は……」
彼女のそれは、ただの過大評価だ。
僕が空を見上げながらしていることは、もっと単純なことだ。
思考を止めて、なにもかもを忘れて、ただ眺める。意識的に微笑みながら、肌で陽光の温もりを感じて、擬似的な幸せを錯覚する。セロトニンを増やして、ストレスを軽減させる。そうやって自分を保っているのだ。そう、それはなんら高尚なことではなく、単なる逃げと休息の過程でしかない。僕はただ嫌なことから逃れたいがために自分を騙しているのだ。
「なに?」
だけど、それは彼女には黙っておこう。世界は知らなくてもいいことで溢れている。これもその一つだろう。
「あ、いや……。貴女には僕がそう見えたというのなら、それは貴女自身が持っている心だと思います。羨ましいと思うのは、貴女が希望を捨ててはいないということ。生きる意味をまだ見つけられていないなら、それは、それが意味するのは、ある意味、貴女はどこまでも自由だということです」
「そう。……ふふ。逆説的な言い方が好きなの?」
「あ、いえ、まぁ」
「どっちよ」
クスクス笑う彼女は、どこまでも美しく、同時に、そこはかとなく儚く見えた。どこか懐かしく、ほわほわした温かい気持ちにさせる笑顔だった。
遠い記憶が頭の片隅でちらつく。しかし捉えようとするとサッと消えてしまう。そのくり返し。そんな記憶との鬼ごっこをしてみたものの、結局なにも得られなかった。
仕方なく諦めて現実に帰る。そういえば結局、龗都さんが僕に話しかけた理由が曖昧だな。
「話を聞く限りでは、やっぱり、僕でなくても良かったのではないですか? 話をするまで貴女は僕の心の内を知らなかったのですから」
「そう言われても。ん〜、なら、あなたがハンサムだからかしら」
一瞬なにを言われたのか理解できなかった。まさか僕が外見を褒められるとは思っていなかったな。とはいえ、それは彼女の単なる思いつきの冗談だろう。
「いや、普通ですよ。……ハンサムって、そこはかとなく時代遅れな表現ですね。嫌いではないけど」
「イケメンって言葉、あまり好きじゃないのよ。どこかチャラチャラしてるイメージがあってね」
「分からなくもないです」
「多数派が使う表現としてハンサムからイケメンへと変わったのはいつ頃なのかしら。長いスパンで変遷していったのか、あるいは短期間で変わったのか。こういうのも社会学では扱うんじゃない?」
「まぁ、社会学は大体なんでも研究対象になりますからね」
何度目かの沈黙がまた訪れた。こういう時、社会学の面白い話でもできたらいいのだけど、こういう時は往々にして特になにも思いつけないものだ。
「はぁ。今となってはバカバカしいわ。どうして私はあんなに自暴自棄になっていたのかしら」
玲穂さんが突然そんなことを言った。『ほんとバカらしい』とでも言うように肩を竦める。
「先の話ですか?」
「そう。ほんの少し前までの自分が、なんだか急に滑稽に思えてきたのよ」
「そんなにおかしなことではないと思いますけどね」
人生の意味とはなんだろう。楽しいことや面白いことをすることだろうか。美味しいものを食べることだろうか。恋をすることだろうか。なにかで勝利や成功を収めることだろうか。人に認められることだろうか。いろいろなことを経験することだろうか。
けれど、それらはいずれ消滅してしまうのだから、なにかを残そうとすることは大いなる無駄ではないのか。
僕もそんな風に考えたことがあった。そうしてなにもかもがバカバカしく思えた。それでも日常の生活をそれまで通り続けられたのは、一概に妹の存在があったからだ。あの子の前では、僕は強くなければならない。賢くなければならない。頼れる兄でいなければならない。だから僕は高校に行き、大学にも入った。今となってはありがたいことだ。
玲穂さんも僕も同じような道を歩いていたということなのだろう。
「まぁ、言うなれば思考が宇宙を彷徨ったんでしょうね。視点が遥か上空にまで飛んでいた。でも、貴女は客観視していたようで、実は主観的でしかなかった」
僕の発言を分析しているのか、彼女が口を開く様子はない。もう少しはっきり言葉にするべきか。
「これは貴女自身の言葉が意味していたことです。主観が外界の影響を受け、囚人に仕立て上げられていたのは、正に先ほどの貴女だ」
「……そう。私は自己矛盾を抱えていたのね」
「はい。でも、矛盾することは人間らしさだと思います。野生的でもなく機械的でもなく、その中間。最も曖昧な存在。それが人間の特異性なのではないかと」
「それ、聞いたことがあるわ。今は機械と人間を対比して心があるのが人間らしさだとされているけれど、昔は野生と人間を対比して理性や論理性が人間らしさだとされていた、って。だから、あなたの言う通りなのかもね」
「所謂中庸というやつですかね」
中庸という概念を僕が正しく理解できているかどうかはともかく置いておくとして、人間が矛盾を抱えることは間違ったことではなく、寧ろ自然なことだと思う。もちろん矛盾を放置するべきという意味ではない。矛盾を解消しようとしても、結局なにかしらの矛盾は残る。それは人が感情と理性というある種の矛盾したものを併せ持つがゆえの特性だと僕は思っている。
それにしても、もしかしなくても、僕は彼女に自分の思想を押しつけすぎたかもしれない。そんなことを思った時、ほぼ無意識に、そして言い訳のように、気がつけば僕はこんなことを言っていた。
「そういえば、先ほど僕が主観性を主張したのは、貴女が客観性を追い求めるあまり、自分を見失うことがないようにしたかったからです。実際、そのせいで生きることに対してネガティヴな思想を持っていたように感じましたから」
「別に死にたいわけじゃないけど、悲観的だったのは認めるわ。でも、生きることに積極性を持つ必要もないと思うけど?」
「あぁ、確かに。そうかも」
彼女の言う通りだ。生きることに積極的であり続けなければならない義務など別に存在しない。生きていれば、なにもかも投げ出したくなることも、死にたくなることも、夢中になれることも、いろいろあるものだ。
「なるほど。玲穂さんは思考が柔軟ですね。あるいは、それに気づけなかった僕は視野が狭かったということか」
「相手を過大評価して自分を過小評価? 良くないわよ。そういうの。それに、私よりあなたのほうがよく世界を見れていると思うわ」
「そうですかね……。でも、どちらにしろ、所詮僕の言っていることは一個人の意見に過ぎません。視点を変えて考えることはできても、それには限界がありますから。それに知識も確かなものとは断定できない。貴女が指摘したように記憶は変質しますし、そもそも一般的に、あるいは学術的に正しいとされていることが本当に正しいかどうかも分かりませんからね」
ちょうど僕が口を閉じた時、店の扉が開く音がした。思わず視線を送る。二人の高校生が店に入ってきたようだ。制服から、僕が通っていた高校の生徒だと分かった。可愛らしい女の子と、整った顔の男の子。とてもお似合いな二人は、恋人同士なのかもしれない。まだ二人とも幼さがあるが、彼らが大学生くらいになれば、立派な美男美女カップルになりそうだ。それにしても、なぜ制服を着ているのだろう。……あぁ、そうか。高校生は九月には授業が始まるのか。そういえば、僕ら大学生が期末テストで必死になっていた頃にはすでに夏休みを満喫していたようだったな。
僕らの夏休みもあと数週間で終わる。そういえば、彼女は退学を考えているんだったな。
「ところで、これからどうするつもりですか?」
「どうするって?」
「大学を辞めて、それから」
「あぁ、そのことね。……正直、迷ってるわ」
玲穂さんは「はぁ」と憂鬱を吐き出すようにため息を吐いた。
「今ね、あなたのせいで退学の決心が揺らいでいるの」
僕が言葉に詰まっていると、玲穂さんは「別に責めてるわけじゃないのよ。ごめんなさい、言い方を間違えたわ」と慌てたように謝った。
「改めてちゃんと考えてみて、私は……自分がなにをしたいのか分からないのよ。だから辞めるとも辞めないとも決められてなくて。そんな今、するべきことは、一応、分かっているわ。けれど、それも無意味に思えてきて、無気力から抜け出せないのよね。別に将来的に物理系の道に進みたいわけでもないし、大学生を辞めるなら、まったくの無駄になるかもしれない。そんな風に考えることこそが無意味なのに、そんなことばかり考えてしまうの」
「それは……」
僕になにが言えるだろう。励ますのは違う気がする。慰めるのも違うだろう。彼女のためになる言葉を見つけることができない。こういう時、僕は自分の無力さを痛感する。なにか言わなければ。考えがまとまらないまま口を開く。
「利用可能性が価値ではないでしょう。生きる上で必要なことしか知らないなんて、できないなんて、それは少し寂しくはありませんか」
僕はなにを言っているんだ。違うだろ。そうじゃない。
「なにかを無駄にするかどうかは、自分である程度決められます。それに、多分あまり無駄にはなりませんよ。その知識や考え方や技能などは今の貴女を形成しています。それに今後どこで活かせるかなんて、まだ分からないじゃないですか。それに……」
あぁ、もう駄目だ。僕はまた価値観を押しつけている。そろそろ玲穂さんに嫌われるかもしれない。けれど、言わないわけにもいかないと、なぜかそう思うのだ。
「先も言ったように、なにかに活かせなくても、別にいいと思います。必要じゃないものを抱えながら生きても。寧ろそれが人生なのではないかと思うのです」
「……そうならいいのだけど」
玲穂さんはしゅんとして、そのまま黙り込んでしまった。彼女がなにかを考えているのか、それともなにかを考えようとして思考が空転しているのかは、外から見ている僕には分からない。もう冷めてしまった紅茶に口をつける。ひと口だけ飲み込むと、ベルガモットの香りが口に残り、少しずつ消えていく。店内に薄く広がる洋楽にゆったりと浸りながら、僕は玲穂さんの言葉を待つ。
暫くして、玲穂さんが視線を上げた。その形の良い唇が言葉を紡ぐ。
「一ノ瀬さん。お友だちになりましょう?」
そう来るとは。予想もできなかったな。
「唐突ですね。それは悪くない提案です。……けれど、僕は貴女とは友だちになりたくありません」
「えっ……? あ、そ、そう。それは残念だわ。良いお友だちになれると思ったのだけど」
玲穂さんは一瞬ぽかんとして、すぐに顔を引き締めると、少し俯いてキョロキョロと視線を彷徨わせる。
しまった。言葉の選択を誤ったな。これでは僕が彼女を拒絶しているみたいじゃないか。
「あの、違います。そうではなく……」
こういうことは、はっきり言わないといけないな。僕は気を引き締める。すると同時に、心臓が高鳴り始め、呼吸が少し不規則になる。今までどうやって息をしていたのだろう、なんてよく分からない疑問まで湧いてくる始末だ。情けないな。
「玲穂さん」
「……なに?」
玲穂さんは少し困惑した表情で見つめてくる。僕は静かに深く息を吸い、意を決した。
「貴女に一目惚れしました。僕の恋人になってください」
玲穂のこのセリフ「今は機械と人間を対比して心があるのが人間らしさだとされているけれど、昔は野生と人間を対比して理性や論理性が人間らしさだとされていた」は、僕はTwitterで見かけて、なるほど確かに、と思ったものです。誰が気づいたのかは知りませんが、こういう気づきって面白いですよね。素晴らしい気づきだと思います。僕もこういった気づきを得たいものです。
〜ー〜ー〜
〔変更〕2019/10/17
トップスは白いブラウス、ボトムスは膝丈の黒いキュロットスカート、それにローファーとかなりシンプルだ。
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白いブラウスに膝丈の黒いキュロットスカート、それにローファーとかなりシンプルだ。