物語が始まる
この物語はネガティヴな言葉から始まる。
田舎の田園地帯を貫く線路に沿って、トロトロ走っている列車の中。僕は驚きと混乱と、緊張感を持っていた。客がほとんど居らず、車内はがらんとしているというのに、先の駅で乗り込んできた美女は、なぜか僕の隣に座ったのだ。ちなみに二人席だ。肩が触れ合うようなことはないが、近いことに変わりはない。僕になにか用があるのだろうか。そう思ったが、予想外のことが起こった。起こった、というのは語弊があるか。寧ろなにも起こらなかったのだから。話しかけられると思って少し身構えていた僕に対して、彼女はなにをするでもなく、澄ました顔で手に持っていたペーパーバックを読み始めたのだ。単に彼女のパーソナルスペースがかなり狭いだけだったのだろうか。それなら、なにも態々僕の隣に座ることはないだろうに。
万人を見惚れさせるようなその美しい横顔をちらちらと盗み見て様子を窺っていたが、彼女は相変わらず本を読み進めている。少しばかりの緊張が解けて、心のなかでため息を吐いた。逃げるように窓の外を流れる景色を見る。そんな僕の不意を突くかのように、彼女は開けていた本を閉じて、唐突にこんなことを言い放った。
「人の営みは、どう見ても無意味なものにしか思えないわ」
僕に対してか、あるいは独り言だったのか。それにしても、人の営みなど無意味、か。なんとも大胆なことを言う。
「お金も、権力も、技術も、記録も、思い出も、願いも、人も。いつかは消えて、忘れ去られる。なら、なんのために人々は活動しているというの」
どういう意図でそう言っているのかも、どんな経緯でそんな疑問を抱くようになったのかも、僕には分からない。彼女自身ですら、分かっていないのかもしれない。それでも彼女は言葉を紡ぐ。ほとんど感情の消えたような、冷たい声で。
「この本も、私自身も、いつかは消えてしまうだけなのに、どうして生きる意味を見いだせるというのかしら」
「……」
「……」
「…………」
「どう思う?」
彼女は一瞬だけ、僕を一瞥するように視線を振った。
やはりというか、僕に話していたらしい。
「えっと、どうでしょう。少なくとも、僕は意味があると思っていますけど、説明しろと言われたらできないかな」
「あなたは世界を信じているのね。でも、あまりにも盲目的だわ。他人の言ったことが、そのままそのものの価値だと思ってしまう人ね」
「そういうところがあるのは認めますよ。……価値、というものは、相対的なものですね。でも、そもそもただの定義づけでしかない。でしょう?」
「そう。そういう考え方もあるのね。でも、それでは有と無は紙一重だわ」
「そうですね。そしてそれでいい。価値の有無は、貴女が決めることであり、僕が決めることでもある。世界を一つのものとして見るよりも、貴女がどう見るか、僕がどう思うか、という主観的なものとして扱うほうがいいと、僕は思います。そして、意味の有無も同様に、ね」
「……デカルトが提唱した哲学の第一原理。そのキーであるコギトにも示されているように、主観というものは、確かにある種の絶対性を持つわ。けれど、同時にとても脆いものよ。常に外界の影響を受けるもの」
コギト-エルゴ-スム(cogito, ergo sum)、『我思う、故に我在り』か。
かの有名なデカルトが、すべてを疑い尽くした末に、唯一疑い得ないものがあることに気づいた。それはそうやって疑っている自分自身の存在だ。その思考する主体としての“私”という存在は疑い得ない。彼はこれを哲学の第一原理としたのだ。
しかし、それを彼女は二言で斥けた。今回の話では無意味だとばかりに。
だが、元より僕もそこまで掘り下げて話すつもりはなかった。
「もちろん、人々は交流することによって、互いに影響を与え合うものだから、価値評価やその基準が他人からの影響を受けてしまうことは避けられない。というより、寧ろそうすることで、価値評価の幅が広がるのです。そうして僕たちは、より自由に近づける」
「そうやって自由だと勘違いするのね。限定された情報に絡め取られ、固定された思考様式が、私たちを囚人に仕立て上げる。あなたは知識の分だけ自由になれると思っているみたいだけど、そうやって自分は自由だと勘違いするほど、私は幼稚ではないつもりよ」
どこか刺々しい口調だな。僕の返答が気に食わないのか、あるいは、単に彼女の無表情と硬質な声がそう感じさせているのか。まぁ、あまり気にしても仕方がない。
「僕も完全な自由を獲得できるとは思っていませんよ。……確かに、人がコントロールできることは限られています。貴女の言う通り、僕らは囚われの身なのでしょう。けれど、多角的な視点なくして自由には近づけない。偏った知識を前提とすれば、貴女の言うことは尤もですが、広く知識を得ることでその危険性を排除できる」
「偏っていない知識って? それはどうやって獲得するというの?」
「……」
論破された。
確かに、偏りのない知識などというものは本質的に所有の不可能性を孕んでいるし、それを獲得できる者がいるとすれば、超越的存在者たる神のみだろう。
「なるほど、その部分については、反論できないですね。けど、意味や価値を自分で定義するべきという意見を曲げるつもりはないですよ」
「強情なのね」
彼女の声が少し柔らかくなったように感じた。微笑むことこそなかったが、ここで初めて彼女の感情が垣間見えた気がする。
そのことに、なぜか僕は少し動揺してしまった。嬉しかったのか、それともただの驚きか。どちらにしろ、それをこの美女に勘づかれたくはない。僕は一つ咳払いをする。
「話を戻しましょう。貴女が言いたかったことは、結局のところなんなのか」
僕の問いかけに、彼女はもともと良かった姿勢をさらに正した。同時に、彼女の感情が再び隠れる。あるいは、感情が見えたように感じたことが、ただの気のせいだったのかもしれない。一つ息を吐くと、彼女は僕の問いに答えた。
「人生に意味はない、ということよ」
「そう結論づけながら、今も意味を求めている。けどまだ見つけられていない。ですね?」
「まぁ、そんなところよ。それで? 参考までに訊きたいのだけど、あなたにとって生きる意味とはなんなの?」
畳みかけるような僕の言葉に、彼女はムッとしたように少し唇を尖らせて、質問を投げつけてきた。なるほど、彼女は案外、子どもっぽいところがあるのかもしれない。それと、この短時間で少しでも心を開いてもらえたということかな。
そして、僕の指摘は間違っていなかったようだ。とはいえ怒らせると恐そうだ。物言いには少し気をつけよう。
それにしても、僕の生きる意味か。そんなもの。
「……ありませんよ」
「え?」
彼女は不意を突かれたようにきょとんとした。かと思えば、訝しむような目つきで僕を見つめてくる。なにか癇に障るようなことを言ったかな。でも、事実は事実だ。
「僕が生きる意味など存在しない。生きる価値もない。自分自身に価値を見いだすことができないのですよ。少なくとも今はね。けれど、意味や価値などなくても、人は生きていける。だから僕は生きている。たったそれだけのことです」
「そんな……」
「言ったでしょう? 意味や価値の有無は、主体が定義するものだと。でも、意味の不在がそんなに驚くようなことでしょうか。僕はその事実になにも抵抗を感じない。それは僕が自分の言っていることを、真には理解できていないということでしょうか」
「あなたは、それでどうやってアイデンティティを保持しているというの……?」
「そうですね……。理由として考えられることと言えば、ある程度ストレスフリーな生活を送れていて、友人に恵まれているから、ですかね。承認欲求をある程度満たしてくれる人がいるというのが大きいのかな」
「それじゃ納得できないわ」
「そうですか? えっと……。そうですね……。まぁ、敢えて言うなら、寧ろ、人生には意味があるべき、という言説が、僕を苦しめるのですよ。なにか夢や目標を持っていないといけない。なにか特別なことができないといけない。そんな風に身構えてしまって、自分の不出来さを嘆くのも、いい加減バカらしいですから」
人生に意味を求める無意味さに気づくまで、僕はそうやって、自分を蔑んで生きてきた。まったく、とんだエネルギーの無駄遣いだ。
僕はため息を一つ吐いた。
「でもやっぱり、実質的に僕にとって大切なのは、承認欲求がある程度満たされている、という事実ですかね。人間というのは、案外単純な生き物ですから」
僕が話し終えても、彼女が喋る様子はなく、ただ僕の話を聞いている。いや、もしかしたら僕の話など聞き流して、他のことを考えているのかもしれない。
「僕は恵まれているのだと思います。僕自身にはなんの価値がなくても、友人や家族に恵まれている。それに気づいてからは、少しずつ幸せな気分になることが多くなりました」
僕は彼女の顔をちらと盗み見た。彼女のその美しい横顔は、少し不機嫌そうに見えた。あるいは、僕がそう見ているだけなのかもしれない。
「まぁ……取り敢えず、人生観において重要なのは、ポジティヴに捉えるということでしょうね」
そう言って僕は話を締め括った。締め括ったなどと表現したが、実際には話すことがなくなっただけだ。一方の彼女はなにかを考えているようだ。いや、誰しも思考を止めることはないのだから、当たり前のことか。そうではなく、彼女はなにかしらの結論を求めて考え込んでいるように見えるのだ。それがなにかを知るには、彼女が口を開くのを待つしかない。
二人が口を閉ざし、暫し沈黙の時間が流れてゆく。
先ほどまでの会話には、僕自身よく考えずに話したことも少なくない。僕は軽く思考を転がすことにした。
客観視、状況、不可能性、理由、意味や価値の主観的定義……。
そこで僕は頭の中でもやもやしていたイメージが、一つの形に収束したように感じた。同時に、僕は思わず「あぁ……」と呟いてしまった。沈黙の中での意図せぬ発声は、再び沈黙へと戻ることを僕に躊躇させた。隣の美女は気にした様子はないが、なんとなく気まずい。少し話すことにしよう。ただの独り言になってしまうだろうが、仕方ない。
「なるほど僕は自分の言っていたことを、正しく認識できていなかったみたいですね。状況を定義づけてるわけじゃなくて、状況の捉え方を定義づけているんだ。普遍的な真実ではなく、各人の持つ世界観をそれぞれの、ある種の真実で以て彩る、ということを意味していたわけだ。どこまでも主観主義的なことだ」
「……そうね。それに、なにが真実かは人間には分からない、ということかしら? 不可知論的ね」
僕の独り言に、彼女は言葉を返してくれた。
「まぁ、それは真実の定義に依りますけど。普遍の真実についてなら、僕の意図はそうですね」
「でも、主観的な真実というのも、あやふやなものだわ。知ってる? 人間の脳は、事実の忘却だけでなく、記憶を捏造したり、記憶の変質を起こしたりするのよ。外界の情報一つ得るのにも、無意識下の影響だってあるの。あまり信用できるものじゃないと思うけど?」
「あ、その話、聞いたことがあるような気がします。そう……。言われてみれば、確かにそうですね。でも、それでいいんですよ。知らないなら知らないまま、知ることになるなら、その後で対応すればいい。可能性が無限大であるとしても、僕ら人間にできることは、限られているのですから」
「……ええと、つまり?」
「えっと、つまり……。本質的に、自分たちで制御できる範囲で生きていくことしかできないのですから、それ以外をどうこうしようとするのは、あまり意味がないように思います。例えば、物理学という学問では、人間が実証できる範囲内の事象を対象とします。端的に言うと、神などには手を出さない。僕はそれと同じようなスタンスなんです」
「それは、思考の放棄?」
「あ、いえ、そうではなく。達観しつつ、日常を生きる。なにも知らず、深く考えずに生きている人たちと同じように。思索を止めるという意味ではありません。『人間は考える葦』ですから」
「パスカルね。パンセは読んだことないけど」
「まぁ、僕もありませんが。というか、哲学の有名な本なんてツァラトゥストラくらいしか読んだ記憶がないかな。それに個人的には、ツァラトゥストラは哲学書というより、文学作品の色が濃いですね。別に活字は嫌いではないですけど、あまり本を読まないので、知識はあまりありません」
「私も似たようなものよ」
そうなのか。でも思い返せば、確かに知識を並べ立てるような感じではなかったな。デカルトやパスカルの名前は出てきたが、所詮それは一般常識レベルのものだ。彼女の知識レベルは未知数だが、反論が少なかった。初めのインパクトが大きかったが、実は知識人というほどではないのかもしれない。だとすると、拙い者同士で議論していたということになる。ん? ……あれ?
「……なんか先から論点とか主張がズレてきてる気がする」
「というか、話題が変わりすぎて、なんの話をしているのかよく分からなくなってきたわ」
彼女は眉間を摘むと、艶めかしく息を吐いた。
仕草がいちいち艶っぽくて、ドキッとさせられる。無意識なのは余計に厄介だ。
よく僕はこんな美女相手に話せていたものだ。コミュ症が発症しなかったのは、話題のお陰かな。
雲間から太陽が顔を出し、車内を明るく照らす。天使の梯子が僕らに延びているのだ。