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Fairy Sense 《蕾の母性》

作者: 奈月遥

 上瀬かみせ飛梨あずりが冬の淡く薄い黄昏じみた午後の光射し込む教室の扉を開けた。

 部活のために放課後に使用許可を取っているそこに、まだ授業時間であるのに先客がいた。低い冬の日に伸ばされた影は、飛梨の足元まで届き、その本人より悠かに高い背を辿れば、机に腰かけた小さな体躯に繋がっている。これまた影のように長い、夜に沈む海色の髪がその小さな体躯には纏わりついていた。

 林檎の蜜色に似た光は、妖精みたいに小柄な姿を包むベージュのダッフルコートの色合いをまた一段と甘やかに変えている。

「海弥?」

 明槻あかつき海弥みやが部活の遥かに前から教室で大切な部員を待っているのは、いつものことだ。しかし、飛梨はその武道で鍛えた感覚からか、高校からの付き合いの長さからか、海弥のほんのりと上気した頬で黄昏じみた光が反射しているのを見逃さなかった。

 飛梨は声をかけても振りかえらない背中にもう一度追い縋ることはせずに、扉を静かに閉めた。ゆっくりと、足音を立てずに海弥の座る机の隣に立つ。

 飛梨が顔を覗けば、海弥は首をくいと逸らして、その視線から逃れた。

 今度は飛梨が明後日を向いて、海弥を視界から外した。

 一拍、二拍、三拍、四拍と半分が経った時、微かな衣擦れが鳴り、細く吐かれた息の音が零れた。

 飛梨がまた視線を戻せば、海弥の口元だけの微笑みが向けられていた。

 ただし、その紺碧に揺れる瞳に注目すれば、その目尻に大粒の透明な真珠が今にも重力に手繰られて頬に線を引きそうだが。

「どうしたの?」

「……それ、きく?」

 飛梨の率直な疑問に、せっかく形だけでもと取り繕った海弥が弱々しく抗議を返した。

「どうしたの?」

「……ねぇ、きいちゃうの?」

 全く同じ音律で飛梨は繰り返し、さらに弱々しく海弥が返す。

「どうしたの?」

「……うぅ、あ、ふにゅ」

 半音のずれも、八分の拍のずれもなく、飛梨が自分の声を再生すれば、海弥はもはや言葉にならない鳴き声をもらすばかりとなった。

「で、どうしたの?」

 ダメ押しは、三度のリピートから転調して投げかけられた。

 雫がひとつ、海弥の頬に熱を沁みこませて滑る。

「今日、駅で」

 ぽつりと、そよ風吹けば掻き消されるようなささやきが綻んだ。

 一拍、二拍。

 黙って続きを、飛梨は待った。

「小さい男の子が、いたの。青い塾の鞄を背負って、改札前で」

 このご時世、塾通いの小学生はいくらでもいる。まさか、常日頃からもらしているように、子どもが外で走って遊べないなんて、などという嘆きを目の当たりにして、悲しんだということもないだろう。流石にないと信じたいと飛梨は思った。

「その子が」

 途切れることなく紡がれるさえずりに、飛梨は心底安堵した。この世からお受験をなくすことも、その不条理を正当なものだとこのお姫様に納得させることも、とても出来ないのだから。

「帰るのに、お金が足りないって」

 だがしかし、それと同じくらいどうしようない方向へと、舵が切られつつある気がして、飛梨は頬を引きつらせた。

 今さらながら、四度の問いかけを後悔し始める。それをしないという選択肢はないにも関わらず。

「わたし、その子が困っているのに、お金、渡せなかった。たった硬貨の二枚も! 渡してあげられなかった!」

 次から次へと、ネイビーの瞳から涙がこぼれおち、膨らんだ涙袋はいくらでも宝石を取り出せるようだった。彼女の、どうしようもない悲しみの量だけ。

 曰く。すぐに母親と連絡が取れるだろうと。

 曰く。戸惑っている間に、友達がやってきたのだと。

 曰く。不審者に話しかけられたら、子ども達が怖がるだろうと。

 その全ての言い訳を言い訳だと断じて。海弥は嘆く。

「違う、違うよ。ほんとは、ほんとは、勇気が出なかった……」

 絞り出すように、震えた吐露が続く。

 助けたいと思いながら、なにもできないなんて。

 なんて偽善。思うだけの行動の伴わない思いやりのふり。

 なんて卑怯で、なんて情けなくて、なんて弱くて。

 ただひとつ、飛梨が救われたのは、海弥がその本心を、自分なんてだいきらいだという本心だけは、口にしないでくれたこと。

 声にならなければ、想いはシュレーリンガーの猫のまま、もう死んでいるのか、まだ息づいているのか判断できない。だからそんなことは思ってないと思い込むことが許される。

「どうしたのって、だいじょうぶって、そんな一言も投げかけられないなんてっ!」

 言葉と一緒に肺の空気もみんな追い出した海弥は、荒く、肩を上下させて、体の機能全てをつぎ込んで呼吸をする、息をする、生き続けようとする。

 一拍、二拍、三拍、四拍、五拍、六拍、七拍、九拍、十。

 荒れた息の音がなくなるくらいには落ち着いたのを見計らって、飛梨は長く息を吐く。決意を固め、言葉を固めるために。

「なら、今日は部活休めば?」

 思いやりであり、気遣いであり、真心からの言葉には違いなかった。それが受け入れられないと確信しつつも、飛梨はその言葉を差し出さずにはいられなかった。

 一拍の間もなく、ゆるゆると力なく海弥は首を横に振る。そんなことはできないと彼女の心は即座に考える間も与えずに判断を下す。

 手の届かない子には、頼られない子には、手を差し伸べられなくても。

「手の届く子に、わたしを頼ってくれる子を、見捨てられない。そんなことできない。応えたい。わたしは、そうしないとなにもできなくなっちゃう」

 部活の後輩を、創作を楽しむ仲間を、海弥は家族と想い、子どものように想い、だからこそ、彼女の母性は責めたてるようにその役割を彼女に望ませる。

 だから、ここにいる。ここで待つ。一番に来て、全ての家族を迎え入れる。抱き寄せる想いで。

「それなら」

 力強い飛梨の言葉は、武道で鍛えられたものか、その精神に裏付けられたものか。

「祈ればいいのよ。手の届かなくても、祈りが届くように。無事でいるように」

 真っ直ぐに、黒い眼差しが、サファイアの目へ想いを注ぎ込む。

 涙が、一粒落ちて、二粒そのあとをなぞって、三粒目は瞬きでまぶたに吸い込まれた。

 海弥は深く息を吸いこみ、そして手のひらを合わせて、祈る。

 無事であるように。

 お母さんに怒られないように。

 不安で泣き出さないように。

 そして、どうか、この祈りを、わたしは忘れないようにと、海弥は祈る。忘れずに、この後悔を忘れずにいられたら、今度はきっと手を差し伸べられる。手を差し伸べてみせる。

 二枚の硬貨をきちんと渡して、お家に帰してあげられる。

「次は、助ける。助けられる、わたしになりたい」

 自分は挿し出せなかった言葉を、すぐに差し出してくれた親友の肩に、海弥は重くなった頭を預ける。

 誰よりも格好よくて、いつでも頼ってしまう、頼りたくてわざとらしくここに来てしまうくらいに尊敬している親友に、体も心も預けてしまう。

 飛梨は、優しくネイビーの髪を指で梳く。さらりと指通りのいい艶やかな親友の髪は、飛梨の自慢だった。そしてなによりも自慢なのは、この心優しい母になりたくてなりきれない乙女な親友そのものだ。

「そうありたいと決意した今の気持ちを忘れなければ、必ずなれるわ」

 ほんの少しも貶すことなくそう励ましてくれる親友の言葉に、海弥はくすぐったそうに身じろぎした。

 お金がないって困ってる男の子がいたのにっ! お金を! 渡せなかったんですっ!(執筆したその日にあった実話)

 悔しい、情けない、悲しい!

 この後悔は忘れません。忘れないために書きました。

 次は助けられるように。

 

 自分の心のままに動けなかった後悔。あなたも、次は足を踏み出してくださいませんか?

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