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帰宅後、カケルの習慣で誰もいないはずの家に「ただいま」と律儀に挨拶して入り、一旦二階に上がって荷物を放ってから風呂に入った。
五時に入る風呂の心地よさは半端じゃない。旅館に泊まった時のような気分を味わえるのだ。
今日の良い出来事に思いを馳せながら湯船に浸かること数十分、すっかりのぼせた体を拭き、腰にタオルを巻いたまま二階に上がる。部屋から服を移動させるのが面倒らしい。
すると、カケルの耳に朝感じた時と同じような違和感を感じる。自分の部屋からドタバタと足音がするのだ。
(え?)
今朝は忙しいという理由であまり気に留めなかったが、よくよく考えるととても恐ろしくなってくる。一人しかいないはずの家の中なのに、と心の中で疑問符を浮かべた。
先までほてっていた体は一転して身震いし始める。
恐る恐る階段の壁に耳をつけてみると、先ほどよりはっきり聞こえる何かが動く音、そして女の子の声に聞こえなくもない騒ぎ声のようなものが聞こえる。
(え、え?)
もう頭がパニックだった。
カケルは常々幽霊の類は信じないと言い張っている。でも実際は大いに動揺し、慌てふためいている。普段の言動は誤魔化しに過ぎなかったということだ。
「ゆ、幽霊?……どろ、ぼうとか?」
いよいよカケルの鼓動は早くなる。むしろバキバキとなるほど苦しい。
音を鳴らさないように慎重に階段を上り、自分の部屋の前に来て深呼吸する。
(逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ)
同世代の女の子と一つ屋根の下で生活している人造人間操縦士の言葉を借りて勇気をもらうと、勇気が消えないうちに扉を一気に開いた。
「……いない?」
とりあえず部屋に入ることをせずに入口から室内を伺うが、これと言って変わった様子はない。……と思ったがやはり気になる部分が見つかる。
カケルは部屋のデスク横、自分の漫画たちが収められている本棚の前に立つ。
「微妙に……ずれてないか?」
おそらくカケルにしかわからないような微妙なずれだ。だが、思春期の男子にとってこのズレが一体どれほど大きな意味を持つかということは世の男子のみならず女子にも、いや人間ならば予想がつくだろう。
隠してあるのだ。
通販で何の考えもなく買ってしまったPCゲーム(R18)が。
こういう経験は人間だれしもあるだろう。
さすがに大きなPCゲームのようなパッケージをうっかり購入することは無くても、魔が差して買ってしまったエロ本やBL本を隠し持っている紳士淑女は結構存在している。カケルはそう考えている。
恐々として本棚の後ろを確認すると、カケルの動きが止まる。
そしてまるでつわりでも来たかのように口を押え、カケルは膝から崩れ落ちた。
(ま、まさか)
もう一度確認するが、やはりない。これがもし家族にとられていた場合、気まずいどころの話ではない。
(僕自身なんで買ったかわからない『オンリーロリー ~あなただけの幼女~』が消え去っている……だと)
絶望に染まった顔は急に生気がなくなり、青ざめ始める。
その時、押入れのほうでまた物音がするが、そのことにカケルが気を使っている余裕はなかった。
『オンリーロリー』通称『オンロリ』はエロゲに加えジャンルがロリもの。親から譲り受けたノートパソコンで一度プレイを試みたところ、突然やってきた双子の幼女が何故か冴えない高校生男子に好意を抱き、共同生活をするところでスタートする。決して内容を選んで購入した訳ではないが、こんなカケルの現状――特に冴えない部分――とぴったり一致する内容のエロゲの存在を親に知られて平気でいられるほどカケルの神経は太くない。『妹……欲しいの?』などと気を遣われてはカケルは家に居づらくなる。
幽鬼のごとき足取りで部屋の中を歩き回り、万が一自分が寝ぼけて取り出して別の場所に置いた可能性を潰すが、無駄なことは分かっていた。
残すところ最後となった押し入は昨晩布団を出してから触っていない。しかし万が一あるかもしれない。それに。
「この中に犯人が立てこもって、ってことも」
そんな状況考えただけでちびりそうになる。
強盗に押し入ったおっさんがカケルの部屋の隠されたエロゲを見つけ出して押入れに引きこもっているなどカオスの極み。しかも幼女もの。
だが、そんな恐怖を抱えたままでテストに臨むことが出来るわけもない。親と泥棒の二つの恐怖は左院にとって少々荷が重い。が、この一週間の勉強を乗り切るためにも押入れの中の状況は確認しておくべきなのだ。
押入れの前に立ち、昔お茶を零してできた押入れのシミを見つめながら心臓の鼓動を沈める。
もしドラえもんが出てきたら万能ペンシルを貸してもらおうと心に決めて目をカッと開くと同時に押入れを力強く開いた。
「……ほっ」
ドラえもんが居なくて少し残念な気持ちではあるが、とりあえず泥棒が居なくてよかったと安心する。
どうやらカケルの聞き間違いだったらしい。
綺麗に敷かれていたはずのドラえもん用布団が少しばかり寄れているのはカケルの気のせいだろう。
確認の直後、母親と大学生の姉の由香里が同時に帰ってきた。
服を着てしばらくするとカケルにも一階から呼び声がかかり、晩御飯の手伝いをしに部屋を出る。
(さて……)
最強の敵、母と姉との決戦に向かうべくカケルは階段を降りようとするが、動きがロボットのようにぎこちない。
リビングの入口で深呼吸してから扉を開けると、いきなり姉の由香里と目が合う。思わず「うっ……」と苦い顔をしてしまう。
「どうしたの?」
由香里はソファに座ってテレビの前でカケルのほうを振り向いていた。
「……いや、なんでもないよ」
「あ、ごはんもうちょっと待ってね」
反対側のキッチンからは母親の声も聞こえるが、母親にも由香里にもカケルが見つけられる変化は無かった。
「ふぅーん。お姉ちゃんと一緒にテレビ見る?」
「いや、遠慮しとくよ」
愛想なく食卓テーブルにカケルが座ると、由香里は「ちぇっ」とつまらなさそうに呟いてテレビに戻った。
由香里はミスキャンバスに輝いたことのあるちょっとした有名人だ。髪の毛は肩の辺りまで伸びていて、微妙にウェーブがかかっている。目鼻立ちはしっかりしており、可愛い、というより美人な雰囲気を醸し出している。外に出る時はコンタクトをつけているが現在は上半分にだけ赤い縁の付いたメガネを手で掛けなおしている。
かなりモテる、ということはカケルが毎日姉の愚痴を聞いているからよく知っていた。だが少しばかり男を毛嫌いする傾向があり、今だに彼氏はいないという。
二人のこの様子だと、エロゲを持ち出した可能性は低いだろう。
カケルが胸を撫で下ろした頃に「これ運んで」と母親から声がかかり由香里もテレビをやめてカケルとともに手伝いを始める。
今日の夕食は豚カツ。それもいつもとは少し違って衣に厚みが加わった食欲をそそる出来栄えだった。母が「自信作」だと言っているのは間違いないようだ。
「いただきます」
元気よく手を合わせたカケルは次々にカツをほうばっていく。が、食べていくにつれてやはりどうしても『心配事』が箸の勢いを止める。
大好きなカツを食べているのに食事が進まないカケルに母が「どうしたの?」と尋ねるも、「なんでも」とぎこちなく返すしかなかった。「実は僕の部屋に隠していた幼女もののエロゲが……」などと話せるわけもない。
母と由香里が時折学校や話題の服装の話をし、それ以外に聞こえる音は箸を動かす音とリビングからのテレビの音だけ。
カケルは服や姉の大学に興味はないので必然、テレビの音に敏感になる。
『では次のニュースです。最近全国区で発生している、見えない犯人による強姦事件。最近では東京都○○区のあたりで一〇歳の幼女が襲われる事件があり――』
ガシャン!
カケルはテーブルの上のグラスを倒してむせていた。
「ちょっと、カケル大丈夫?」
由香里が心配そうにカケルの背中をさすってくれるが、優しくされた本人は心が痛かった。
「幼女」というワードに反応してしまったのです、すいません。と心の中で謝ってから由香里が差し出したグラスを一気に飲み干した。
「これ結構近所じゃない?」
汚れたテーブルを拭くために母親が滅菌タオルを洗いながら二人に話しかける。
「うん、大学近いかも。てゆうかどういうこと? 見えないって」
未だに咳が止まらないカケルを介抱しながら由香里が疑問の声を上げる。
「暗くて見えないとかかもねぇ。なんにしても小さな女の子狙うっていう神経がわからないけど」
母が呆れたようにため息をつき、由香里はそれに便乗して日ごろの不満をぶちまける。いつもカケルが見ている家庭内の風景だ。
「ほんとに。男ってずっと下心丸出しで嫌。大学でもそんな奴ばっかりだし。……でもカケルはそんなことないもんね。反抗もしないし。変なこと言わないし。由香里の癒し」
「げっふぉげっふぉ……う、うん。そうだよ! 小さい女の子見て罪を犯すなんてありえないよね」
テーブルを掃除し終わった母は再び席について、むせこむカケルを心配そうな目で見る。
「カケルは本当に反抗期無かったよ。でもたまには文句言いなさいよ? お母さんもお姉ちゃんも聞いてあげるから」
「ありがとう母さん……あ、じゃあごちそうさま」
いつもと変わらないはずの二人の言動が誘導尋問に聞こえるというのは相当末期なのではないかと自分で感じるカケル。
二人の言っていることは当然のことで、むしろ正論しか言っていないのだが今のカケルにとってはつらいことでしかなかった。
「はい。お粗末様です」
急いで皿をまとめたカケルに母親が笑顔で決まり文句を投げかけ、台所に皿を置いた後足早に二階に駆け上がった。
リビングの扉が閉まってから、由香里は母親に悲しそうに告げる。
「……カケルどうしたの? 今日は冷たい」
「さぁねぇ。もうすぐテストだからもしかしたら緊張がストレスになっているのかもね」
心配しなくていいわよ、と母は変わらぬ調子でご飯を口に運んでいた。
「ふーん、高校生も大変ね。あ、じゃあ今度由香里が緊張ほぐしてあげる」
「由香里は本当カケルと仲いいわね。珍しいくらいよ」
「だってカケルは由香里の彼氏だもん」
「はいはい」
母は苦笑して由香里と話を続けた。
階段の途中で盗み聞ぎしていたカケルも、自分が居なくなってからの会話に『オンロリ』の話が出てこないことに安心してひっそり二階に上った。