第一章 「AIO(エーアイオー)」
季節は夏。世間が夏休みだと浮かれている期間にも幼稚園児たちは暑い中元気に先生に挨拶し、園庭の中を狂ったように駆け回る。
国道沿いにあるため歩道を行く老人やランニング中の男性も園内の保育士と元気に挨拶を交わしていた。鼻の下を伸ばしている通行人もいるが、せめて保育士の女性を見ての行為だと信じたい。
そんな熱い夏の日。隅幼稚園の大広間の開放された窓に、男の子と女の子のペアが他の園児たちを見ながら三角座りしていた。
他の園児は皆鬼ごっこやボール遊び、かくれんぼや鬼ごっこなどをする給食の後の時間だ。
「ねぇ、楓ちゃんはみんなと遊ばないの?」
男の子が問いかけると女の子はあからさまに嫌な顔をして長い髪の毛を散らす。女の子の方は珍しいほどメガネの似合う、年不相応に大人びた感じを醸し出している。
「遊びたくない。あんな下等動物」
「かとう……? 加藤君のこと嫌いなの?」
「違う。下等っていうのは程度の低いこと。人間って馬鹿だから嫌いなの。できるだけ関わりたくない。カケルもそう思わない?」
楓――西野楓――の怪訝そうな横顔から発せられた質問は、まだ5歳のカケル――左院カケル――には難しい話だった。
意味は分からないものの、とりあえず自分も嫌われていると思ったのだろう。カケルも他の園児たちの遊びの中に混ざろうと立ち上がって尻を叩く。
「どこ行くの?」
「いざゆかん」と靴の履きなおしをしていたカケルの背中に西野が不安げな声を掛ける。
「楓ちゃんあんまり僕と話してて楽しくなさそうだったし、迷惑かなと思って」
「そ、そんなこと無い! 人間は嫌いだけどカケルは……」
声が小さくなっていく。続きを伝えようと口を開いた時、カケルの言葉が重なる。
「僕も人間だよ?」
悪意のない回答が、卓見した考えを持つ西野に返答を迷わせる。
顔を時折赤くして、何かを言いたそうにカケルと手元を交互に見る西野。その様子から理由を察知したカケルは手をポンとたたく。
「本当はみんなに混ざりたい?」
「違う。それは本当にちがくて人間は本当に嫌いだけど……と、とにかくこっちに座ってよ」
西野は先ほどカケルが座っていたスペースを叩く。遊ぶ以外に大事なことが有る、という雰囲気が感じられる。
それなら、という感じでカケルが座ると、西野は距離を詰めてぴったりとくっ付く。
「楓ちゃん、暑くないの?」
「暑くない」
そうは言うも、西野の額には若干汗の玉が見える。
西野がなぜ嘘をついているのかカケルは考えあぐね、しかしお願いを無下にすることも出来ないで黙って園庭を眺めていた。
「匂い」
「え?」
しばらくして、西野はカケルの肩に顔を乗せながら呟く。
「カケルの匂い、うちは好き。これで理由がはっきりしたでしょ。カケルは特別」
「匂い? ……そんないい匂いするかな?」
カケルも自分で服を嗅いでみるが、よくわからない。柔軟剤の香りがするだけだ。
「うちが気に入ったんだからそれでいいの。とにかく、カケルはうちのそばにいていいから」
西野の半ば強引な説得に納得こそいかないが、反論するほどでもなかった。カケルは「まぁいいか」と思考をやめる。
「よくわからないけど分かった。これからも仲良くしてね楓ちゃん」
「よ、よろしく」
西野とカケルは小さな手を握り合わせる。
そしてその景色は周りの園児の喧騒とともに少しずつ遠くなり、次第に闇があたりを覆う。
これは年齢不相応な考えを持つ西野と、年齢相応に友達を大事にするカケルが過ごした夏の日の思い出。
月日が経っても色あせないハンディーカムのような記憶はカケルの中で今も鮮明に残っている。「あの頃は」楽しかったと思える。
何度見直したか分からない、カケルを感傷的な気持ちにさせる羨ましくて少し辛い記憶。
いや、けして記憶が悪いのではない。起きることをしなかったカケル自身がすべて悪い。
もう分かるかもしれないが、これは夢だ。
そのことをしっかり理解したうえでカケルは重たそうな瞼をゆっくり開いた。
さわやかな朝、澄み切った空気、高く上った太陽。窓から入り込んでくる風が気持ちよさそうにカーテンをなびかせ、斜陽をとぎれとぎれに室内に送り込む。
「ふー。今日もかぁ」
カケルはさわやかな口調でそうこぼしつつ、気持ちよさそうに伸びをする。
しかし、彼の額には大粒の汗が所狭しと並んでいた。
太陽が高く上っている時点ですでになんとなく予想はついていたのだが、あくまで確認のために枕元に置いてある目覚まし時計をわしづかみにし、眼前に持ってくる。
「完全な遅刻……か」
慣れない中二ワードで気分を落ち着かせてから時計をもとの位置に置く。
目覚まし時計の針が指し示すは十時二三分。いや、正確な時間など今はどうでもよかった。問題は学校に完全に遅刻しているということ。そして恨むべきかな電車の都合上、学校につくのはどうしても三時間目終わりになってしまうということだ。
カケルの脳内では母親が一階から大声で叫んでカケルを起こそうとしている場面がありありと浮かんでくる上、現在成績のそれほどよくないのだから嫌でも現実を意識してしまう。
おまけに今日の午前中はカケルがもっとも苦手な数学と物理の授業があり、テスト範囲が発表される日でもある。
「そうか。一週間後にはテストがあるのか……」
カレンダーを見るとⅦ月一二日のところに赤丸が書かれている。テストの印だ。なお『Ⅶ』は誤表記ではなくカケルの部屋のカレンダーに本当にそう書かれている。変わったカレンダーが好みらしい。
もう何度目になるかわからない遅刻に加え、授業についていけないカケルの心中は消して穏やかではない。
「なぜ僕は二度寝するんだ? 睡眠時間が足りないのか? 昨日は十一時に寝たんだぞ」
実に一一時間の睡眠。コアラのような睡眠時間だが、カケルは彼らほど消化の悪いものを食べているわけではない。
一説によるとコアラなどはユーカリを食べるからその毒素を消化するので全体的にのろまな動きになるのであって肉を食べさせるととてもエネルギッシュに動けるのだとか。つまり自分もベジタリアンな母親が出す緑の食卓ではなく、父についていき汁のたっぷり詰まった肉塊をほうばる(なんかエロイ)的なことをすればもっと寝坊をしなくなるのかと一考してから布団を退ける。
(ああ、まるで一人で体を慰めた後のような落ち着き様)
せわしく用意をしながらそんなことを考えているのだから、カケル自身も自分で何を考えているかわからないくらいに焦っていたらしい。そして焦るとふと諦めが顔を出す時がある。
(用意はするけど、電車の時間に間に合わないようなら諦めよ)
諦観を心の片隅に小さく置いておき、カケルは部屋の中を見回してみた。
高校生としてはあまりに何もない部屋だった。
あるのは唯一の趣味である漫画集めのために購入した本棚くらいで――もちろんそれなりに漫画は入っている――勉強机だけは親が奮発して購入した高価ウッドデスクを使っているが、他は何もない。
布団はデスクの前に置かれ、布団を挟んだデスクの反対側には布団を収納するための押入れがある。二段構成の内の二段目は無駄な空間だ。というのもカケルがいつかドラえもんが住み着くんじゃないかと期待し、荷物をあまり入れていないからだ。勿論ドラえもんように布団も一枚収納してある。
あとはキューブソファが部屋の端に置いてあるが、布団と一緒に並べるとほとんど空間がなくなる。かなり狭い部屋だが、カケルはこの広さで満足しているようだ。
この部屋をみて、言ってしまえばあまり裕福な家庭ではなかった。
一応二階建てではあるもののマンションであるため一室一室はとても狭い。隣にある姉、由香里の部屋との間の壁は薄いが余り騒ぐこともないのでカケルは現状これで満足なのだ。
カケルが視線を再び勉強机に戻すと、先ほどまで無かったと思われる紙切れが一枚、太陽の光を鈍く反射していた。
その紙切れを手に持ち、内容を読んでいくうちにカケルの表情は真っ青になる。
『七月五日(月)数学小テストあり。二点以下の者は放課後追試の元追加課題を提出するので必ず受けること』
先ほどまでの賢者モードが嘘のように「え?」を連呼しながら、カケルは再びドタバタと焦りだす。
居残りがあるなんて聞いてなかった。
カケルの数学担当の中島は鬼だ。レベルの高い問題を嬉々として選び、出来なければ数時間かかるように設定して課題を出す。そのせいでテスト前のこの時期にくる中島の追加課題は『テスト対策殺し』の異名をもっている。
正直三限目は終わりかけにつくからどうせならもう一本電車を遅めて四限目、つまり午後からの授業に間に合えばいいかとカケルは急ぐことを諦めていた。しかし、このテストはとんだ伏兵となった。
「何やってんだよ僕は!」
先ほどまで謎の自信にあふれてゆっくりしてしまった自分を激しく呪いながら、壁にかけてあった制服を奪うように取り去り、寝間着と乱暴に着替える。
急ぎすぎのあまり脱ぎ掛けた寝間着に足が絡まってこけるも、そんなことには構っていられないとすぐに起き上ってかばんの整理をし始めた。
そんな忙しい時にふと耳につく雑音が聞こえる。
カケルの聞き間違いかもしれないが、どこかから女の子の笑い声を聞いた気がしたのだ。
「――気のせいか? ってこんなことしてる場合じゃない! ……あれ?」
かばんの中身の整理を続けるも、昨日行った五限目の歴史のプリントがない。成績に入るだろうから昨晩眠気眼を擦って真剣に仕上げた努力の結晶だ。
「ああ、もう時間が!」
汗をあまり掻きたくないカケルの都合上、時間に余裕がある日なら涼しくて距離が少し長い道を選んで登校したが、今日はきつくて距離の短い通学路に向かうしかない。そのことに激しく鬱になりながらも必死にプリントを探し出す。……が、机上のどこを探しても見つからない。昨日はデスクの上で作業した後そのまま放置したはずなのだが。
「あれ?」
今度は布団の横に紙が一枚放られている。さっきまでは確かになかったと記憶していたカケルは頭を捻る。
だが時間は待ってくれない。とにかく、余計なことを考えている時間は無かった。
プリントを力強く握って鞄に詰め、急いで部屋を出ようとするとまた部屋のどこからか女の子の、しかも複数の笑い声が聞こえてくる。
「――?」
カケルも気にはなったがもう一度腕時計を見て気合を入れ直し、一回に駆け降りると、食事もとらずに鍵をかけて家を後にした。