星陰のトラバイユ「月と太陽向き合って」
西野にとって寺門は特別な男性だった。愛していると言ってくれた人物だった。
「あはは、電車なかなかこないね」ぎこちない笑顔になってしまっただろうか。
「ほんと、ごめん……」寺門が顔を伏せたままつぶやいた。
「なんで謝るの?」笑顔をキープ、笑顔をキープと、心に言い聞かせながら西野は笑ってみた。それも虚しさを増大させる行為にしかならなかった。
寺門の口から別れ話が切り出されたのは、「そろそろ帰ろう」と西野が口にする寸前だった。どうして楽しいデートを台無しにするような言葉を帰宅間際に持ってくるのか、西野には理解できなかった。どうせ切り出すのならばメールだとか、手紙だとか、後日改めて……でよかった。どこまで生真面目なのだろう。
警笛が鳴る。その音に促されるように寺門は一歩下がった。家が近い彼とは同じ方面にむかう電車に乗るはずだった。往路も同じ車両に乗ってきたはずだ。どうやら、気まずくならないように電車に乗る時間をずらしてくれるらしい。
不器用なくせに相手の気持ちを察して行動する。そういうところが好きだった。
比べて西野は鈍感だった。彼の考えていることがわからない。寺門が浮気をしていることすら、つい先ほどまで知らなかったくらいだった。男は浮気をする生き物よ、嫌いな先輩が訳知り顔で語っていた。けれど、自分たち二人だけは平気だと思い続けていたのだ。
車両のドアが閉じられる。ふと見れば寺門の顔が苦しそうにゆがんでいた。
「ごめん……。ありがとう」
「なんで、お礼をいうの?」
「いや、だって、俺が……」
最後までは聞こえなかった。音の波長がドアに遮られたせいではなく、西野の頭が真っ白になっていたからだろう。
失恋のショックは、これまで味わったことのない感覚だった。胸がひたすら高鳴る一方で、虚無な感覚が頭を埋め尽くしていく。不思議なもので悲しみはあまりなく、むしろちょっとだけ心地いい。頭にあった重荷がすーっと抜け落ちてゆくような呆然が楽しい。告白された時はこんな感情にはならなかったのにな……。
彼は最後になんと言おうとしたのだろう。違う女性と会っていたことを弁明しようとしたのだろうか。まさか、彼の口から聞くなどとは思ってもみなかった。最後まで不器用な男だった。不器用で生真面目な男だった。
そういうところが好きだった。
そういうところが好きだったのだ。
だから――謝らないで。
閉じられたドアを背もたれにし、ふうとため息をつく。これ以上、彼の姿を確認することはなかった。どんな顔をしているのか見てみたい気持ちもあったが、振り向くことはやめた。振り返れば負けな気がしたからだ。これは西野が彼に、最後に見せる強がりだ。
車内には人がまばらにいる。新聞紙を広げている人や、寝そべっている高校生。六人がけの座席、はしっこに座る若い女性の胸もと、優しく抱かれた赤子がこちらを向いている。物珍しげな目を向けている。西野は赤子に向けて微笑んでみようとした。その時、初めて西野の眸から涙がこぼれた。
小さなページにおさまるサイズを意識して書いたもの。
深い意味はありません。