大戦勃発 ―王威覚醒―後編
妙だ。何故ロイ先生の攻撃を対処出来る? 俺のような存在ならともかく、雷速の速度域に在るロイ先生の攻撃を音速を超えた程度の速度域で完全に対処し切るだと?
――これは何か種があるなァ、と考えた俺は知覚のレベルを引き上げた。
途端、俺は青年悪魔がどのような力で対処しているか完全に理解した。知覚レベルを全知の欠片と呼べるレベルまで引き上げればこの程度容易い。
「これは……そうか、成る程なァ。魔眼は魔眼でもレア中のレアってか。確かにこれなら雷速にも対処出来る」
「その言葉から察するにロイ先生の戦いを〝視〟てるのよね。何か分かったの?」
「あァ、まあな。ロイ先生と戦ってるあいつ……ディール=ハルファスっつうのか。ディールは複数の魔眼を持っててな、その内の一つに〝自分が知覚出来るありとあらゆる軌道を視る〟っつう能力の魔眼がある。
ヤツはこの魔眼でロイ先生の攻撃の軌道を先読みしてやがるのさ」
「ありとあらゆる軌道を? それはまた厄介な魔眼ね」
面倒だとでも言いたげに形の良い眉をひそめるカレン。そんなカレンに心底呆れ返った俺はため息混じりに言う。
「今更だろ。それに、お前の持つ〝天象の光〟の方が能力の階梯も厄介さも上じゃねェか」
これは真実だ。
それこそ、カレンが有する〝天象の光〟は能力の階梯だけを見れば俺の〝破壊の風〟を上回る程の権能だ。
とにかくチート過ぎる。特に今のように星空の下だと、俺ですら全力全開で戦ってもカレンを殺すのは骨が折れる――というか、ぶっちゃけ逆に殺されるくらいの力だと言えば分かるだろうか。
無論戦えば勝つのはこの俺だが、それにしたって無事で勝てる自信はない。死ぬ事はないと思うが、ほぼ確実に相応のダメージを受けているだろう。
何せ、天に仰ぎ見る星々から力を吸収しその特性すら得るという権能だからな。
驚嘆すべきはそれだけではない。
例えカレンの肉体がバラバラに砕けたり消滅したりしても、魂の一欠片さえ無事ならば星光から即時復活するというチートっぷり。
これではバランスブレイカーもいいところだ。自分の能力が概念的に上位に立っていたとしても、魂ごと消滅させねばならないのだからな。
付け加えると、カレンが消耗していたとしても復活した時には全快した状態で復活する。……どうだ? ヤバすぎる権能だろ?
このある種不死性と言っても過言ではない権能があったからこそ、かつての大戦争の折、『光の覇者』を頂点とし『風の覇者』を最強としていたのだ。
総指揮官が簡単に死ぬような存在では話にならないからな。普通の戦争ならば総指揮官が戦わねばならないような戦況は最早先は見えたようなものだが、生憎と俺達の戦争はそんな柔なものではない。
「厄介と言えば、あの白い魔人もよね。先刻から〝視〟てれば何よあの力、魔法じゃないわよね」
「白い魔人? ああ、サイスの報告にあった序列七位のライト=ファングとか言うヤツか。あいつのあの力は、いつぞやにも話した超能力ってヤツだよ。
大方、魔人の力で異世界を旅している時に手に入れ――ッ!?」
話題に挙がったのを機にサイスの戦闘相手であるライトに知覚を向けた俺は、夢想だにしていなかった事を〝識〟り言葉を切る。
「どうしたの?」
「どうしたもこうしたも――」
怪訝そうに訊いてくるカレンに、俺は険しい表情で述べる。
「あいつ、転生者じゃねェか! しかも神や世界からの介入による転生じゃねェ。独力で転生を繰り返してきた輪廻転生の賢者だ……!」
「転生者っ!? ちょっと、それって拙いんじゃないの? 魂の連続性があるんだから、どんな能力や経験を持ってるか――」
「いや、それについてだが……」
知覚した情報を解析し尽くした俺は、沸き上がる疑念を抑えきれずに首を傾げた。
「こいつ、最後の転生時――つまり今現在の姿である魔人に生まれ変わる時に魂に蓄積されていた能力の殆どを削ぎ落とされてやがる。
記憶や経験は十全に引き継がれてるってのに何でまた器用に能力だけ無くなってンだ? こいつが転生するのに用いた術式を解析してみたが、不備は何処にもねェぞ?
むしろ完璧と言っても良い。記憶・力・人格の保存、そして前世での死亡から今世に存在を確定させるまでの保存内容の接続と引き継ぎ……実に見事な出来映えだ。
この出来で何故能力に欠損が……まあ、お陰でウチのサイスが善戦出来てンだが――ん?」
ふと感じるものがあり、俺はリンス先生と戦う狐の青年獣人を〝視〟た。
そして〝識〟る事になる。ライトの転生に関するコトの全容を。
「成ァる程、そういう事か。カレン、リンス先生が相手取ってるあの狐野郎……アレも転生者だぜ」
「……もしかして、その人も神や世界に頼らず独力で転生を成し遂げた人なの? これはあくまで憶測でしかないけど、あのライトって人の転生に偶然便乗してしまった――」
俺は大きく頷いた。
「話が早くて助かる。お前の考えは正しい、カレン。あの狐、アルグラッハ=バスクとか言うヤツはな、ライトとは違って奇跡的に完成した転生術式で転生した人間だ。
ただ、その奇跡的に完成した術式ってのが根本の所でライトのそれと全く同じ構成になっててなァ。しかも二人が転生の術式を発動させたのがこれまた全く同時だった所為で、術式が重複しちまったんだろう。
その結果、お互い持って産まれるべき能力の幾つかを欠損させた状態で転生しちまったワケだ」
俺の話を聞いていたカレンの頬が豪快に引き攣る。
サイスやリンス先生と戦う二人を〝視〟て独白した。
「良い意味であれ悪い意味であれ、奇跡ってあるんだなぁ……」
「サイスの方はこれから戦況がどう動くかまだ分からねェが……あっちはリンス先生の勝利は確定したなァ」
アルグラッハも善く戦っているが、相手が悪かったな。狐の獣人というだけあって火属性の魔法や幻術は見事だが、神器再現したリンス先生には及ばない。
リンス先生が柄の部分にある小型の竪琴の弦を指先で弾けば、奏でられた音色がアルグラッハの魂に染み渡り、リンス先生が籠めた想念がアルグラッハの魂を蝕み、精神は勿論肉体すら死へと導く。
アルグラッハ程の戦士がこうも容易く魂への攻撃を許してしまったのは、リンス先生が有する『水の覇者』としての権能が原因だ。
リンス先生のありとあらゆる攻撃的干渉と言う名の『水』は、敵の守りを開き浸水していく。自分の意思力が上である限り防がれる事なき水の権能。
故にアルグラッハは魂への攻撃を許してしまった。ただでさえその身は転生者、魂関連のダメージには人一倍敏感なはずだ。
現にアルグラッハの端正な顔には徐々に苦痛の色が見え隠れし始めている。さぞかし苦しかろうよ、魂へのダメージは肉体損傷によるダメージとは比べ物にならねェからなァ。
「アルグラッハが倒されンのも時間の問題だろ。となると、後はシリアさん達――ッ! ちいっ、この気持ち悪ィ気配はッ。またあのヘドロかァ!?」
〝眼〟を向ける場所を変えようとした所で、俺は下方から最早慣れてしまったとある気配を知覚した。
俺がずしゃっと黒刀を抜き放って中空に立つと、同時に事態を察したカレンが天象剣の権能を以って俺の戦闘能力に補正を掛ける。
全身に行き渡る増幅された力の奔流を知覚しこれなら消滅させる事が可能だと判断した次の瞬間、下方に見える血の海の一部に黒い裂け目が開いた。
そこから大量の黒いヘドロが間欠泉の如く吹き上がり、俺とカレン目掛けて飛んでくる。
このままいけば俺とカレンは黒いヘドロに呑まれるだろう。そうでなくともアレは俺と同じ規格外の存在だ。先程までの俺なら対応出来なかっただろうな。
だが、と俺は黒刀を頭上に持ち上げる。
カレンの天象の力による補正が加わった今の俺なら……果たしてどうだろうなァ。
黒いヘドロが間合いに入った瞬間、俺は亜光速すら超え光速の速度域に突入し大上段から黒刀を降り下ろした。
筋繊維の一本一本を完全に掌握し身体の駆動の流れを把握し全身全勁の内部で増幅に増幅を重ねられた力の籠った刀閃が速度を失った世界に在っても尚速く閃き、黒いヘドロに命中する。
瞬間、黒いヘドロは真っ二つに斬り裂かれ、分断された先から更に細かく斬り刻まれ素粒子の一欠片すら残さずこの世から消滅した。
それは黒いヘドロが出てきた裂け目にまで及び、黒いヘドロと同様これを容易く斬り消すと役目を終えた斬撃は虚空に帰した。
それを見届けた俺は光速の速度域から外れて通常の時間軸に回帰する。
「お疲れ様。素晴らしい刀術を〝視〟させて貰ったわ」
無言で黒刀を鞘に収めると、満天の星空を内包したかのような刀身が宇宙を内包したかのような暗い輝きの刀身に戻った天象剣を片手に保持したカレンが労いの言葉を掛けてきた。
それに対し俺は鷹揚に頷くと、再び黒刀の鞘に腰掛ける。
今ので黒いヘドロは障害にはなり得ない事が分かった。カレンの天象の力で強化されていた俺は、深度の高まった全知の欠片で黒いヘドロの有効な消滅のさせ方を知覚していたからだ。
〝殲滅鬼バロール〟本人の意思が加わってない限り、刀身・魔法が黒いヘドロに接触する瞬間にその力の根源たる〝虚無〟の力を模倣して攻撃に内包させれば、黒いヘドロが有する無効化能力と内包させた力とを対消滅させて攻撃を通す事が可能だという事を。
カレンの力無くしては光速の速度域に突入出来ないが、相手がただの現象としての黒いヘドロに過ぎなければ問題ない。
次からはカレンの助力無しでも余裕を持って消滅出来るだろう。
しかし――
「未だ大敵は現れず、か。こいつァ思いの外神経がすり減るなァ、オイ」
「珍しい事もあるのね、戦いに関して貴方が神経がすり減るなんて発言をするなんて」
「ったりめェだ。他の〝覇者〟後継者達が戦ってるってのに俺達だけ警戒に大半の力を注ぎ込んでる所為で戦えねェンだ。あァ、俺も早く戦いてェ……!」
歯軋りを交えて述べる。
情けない話だが、今の俺が警戒と戦闘をこなすとしたらどちらかのレベルを落とさなければならない。
先程遠方の軍勢に遠隔攻撃したようにあの程度ならばどうという事ないのだが、ヴィンセントクラスの戦士を相手取るには戦闘のレベルを落とすわけにはいかない。
もし警戒する対象が格上の相手だったとしても、一定の力量さえ超えていなければレベルなど落とさずとも問題なく戦えるのだが……バロールはそんな甘い相手ではないらしい。この俺が本気で知覚領域を拡大しているというのにまるで引っ掛かる気配はない。
今の俺の〝知〟ならば、相手が単一世界全知全能能力を用いて存在を隠していたとしてもおおよその位置と存在だけならば知覚できる。本来全知全能能力とは力の階梯で劣る場合には一切知覚できないのだが、俺はそれを可能にする力がある。
それでも尚知覚できないという事は……つまり、そういう事なのだろう。
「ねぇレオン」
「何だァ?」
俺は視線をカレンの方に向ける。
カレンは遥か遠方の空を眺めていた。長い白銀の髪が戦風にたなびき、アメジストのような深くも鮮やかな紫色の瞳にはこの地獄のような戦場には似合わぬ静かな光が宿っている。
不覚にも、戦争中だというのに俺はカレンに魅入っていた。何故か目が離せない。
そんな俺に構わず、カレンは言葉を紡ぐ。
「私達、この戦いに勝てるの? 生き残って、戦い続ける事が出来るの? 貴方の本当の気持ちを聞かせて」
「……本当の気持ち、ねェ」
夜の戦風が俺の髪を揺らす。それに合わせるように俺は足をぶらつかせた。
「……俺の力を疑っているのかァ?」
俺は思った事をそのまま口に出した。本当の気持ちを述べる上で重要な事だからだ。
カレンは首を横に振ると、遠方の空に向けていた視線を俺に移した。
「貴方の力は信じてる。戦闘能力も戦いに臨む在り方も全部纏めて信じてる。だけどね」
そこでカレンは白皙の美貌に僅かに焦燥の色を見せて続けた。
「だからこそ不安なのよ。貴方程の戦士が本気で知覚しようとしているのに、敵の位置はおろか存在すら掴めない事が。それってつまり、バロールって存在が最低でも単一世界全知全能は軽く超える力の持ち主って事でしょう?
もう一度訊くわ。この戦い、本当に私達は勝てるの?」
「く、フハハハハハッ!」
本当に勝てるのか――その問い掛けに俺は笑う。天を仰ぎ大いに笑う。
動じた風なく此方を見つめ続けるカレンに、笑いを治めた俺は言ってやった。
「この戦いに勝てるのかァ……? 案ずるな、最後に勝利するのは俺達だ。無論、俺に連なる者達は一人も死なせずになァ」
「その過程で貴方はどうなるの?」
「さァな。ただ一つ言えるのは――」
事ここに及んで不可解さを増したファランの言葉、『闇の覇者』の矛盾点。そして以前到達しかかった至高の存在概念。
これらの事から察するに――
「俺は、此度の戦を以って〝王〟となる。〝秩序無き乱世王〟と名高きファランと同格の絶対者になァ」
「〝王〟……それはただ単に国を治めていたり種族の頂点に立つような意味での〝王〟じゃないわね?」
「無論だ。この俺がその程度の存在格に留まるはずなかろう。俺が至るとしたら、それは人間の本質を顕した無限を超えし可能性の〝王〟。
これに尽きるッ」
夜天に手を伸ばしグッと拳を握り込む。
何故だか、明確な先の見えた言葉が出てきた。普段の俺なら確証のない曖昧な事を断言するなどという事はしないというのに。
「くっくくくくくく……クハッ、フハハハハハハハハッ」
「レオン……?」
――何なんだァ、この昂りはァッ! 先刻から急速に魂が、己が存在の全てが戦闘中でもないのに高揚してならんッ!
高揚に高揚を重ね、俺の知覚能力がかつてない領域へと到達し始める。
最大で、ルーレシア世界と虚世の空間までに広がる時空間と次元と位相と存在格しか捕捉できなかった知覚領域が突然拡大し――。
〝外〟へと、至った。
「――ッ! 来るぞっ」
〝それ〟の到来を知覚した俺は腰掛けていた黒刀の鞘を引っ付かんで抜刀し、そのまま片手で鞘を腰に帯びる。
まだ知覚出来ていないカレンも俺が見せたただならぬ様子に表情を険しくさせ、宇宙を内包したかのような暗い輝きを宿した天象剣を星々の光で満たし、得られた力を以って自分と俺を強化した。
暗いヘドロはこれで十全に対応できた。バロール相手では十全とはいかずとも、食い下がる程度の事は出来ると踏んでいた俺だったが――
「これは……!」
敵の存在の規模を知覚した俺は思わず唸る。
何だこの巨大な存在格は。敵が力を等分に拡散させて知覚を誤魔化してでもいるのか? ……いや、これは。
――敵の体躯自体が巨大なんだ!?
俺がそれを悟って戦慄した時、〝外〟に居た敵の気配がルーレシア世界が在る座標に急接近した。
あたかも獲物に肉食獣が襲い掛かるかの如く、巨大な存在格が虚世の空間を通してルーレシア世界の外壁に衝突し――
「上だッ。上からでけェのが来やがるぞっ」
「上ね。分かったわ――」
俺が警告を促しカレンがそれに応じて夜空を見上げた直後、俺とカレンが静止している空域よりも遥か上空で快音が鳴り、満天の星空が文字通り〝割れた〟。
裂けるのではなく、割れたのだ。次いで夜空という硝子を割るようにして現れた夜闇よりも深い闇を覗かせる裂け目に、灰色の巨大な手がガシッと力強く指を掛け。
――ガガガガガガ、バキバキバキバキバキッ!
『ヴゥオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォォォォーーーーー!!!!』
世界空間を引き裂き、遂に殲滅の名を冠する鬼がルーレシア世界に現界した。
始めに訪れたのは、圧倒的という言葉すら生温い程の強烈な力の波動。
この世、全ての存在を圧し潰すかのようなプレッシャーは刹那の間にルーレシア世界に浸透し、それだけで一瞬にして力無き者達が絶命した。
唯一の例外は俺の加護の力が働いている俺に連なる者達のみ。それ以外の全ての弱き者が呆気なくその生命を散らせた。
絶対致死の威圧感を耐えきった強者達も無事ではない。
俺とカレンを除く〝覇者〟後継者達は揃って大地に平伏し、戦闘中であった〝闇主側〟の序列持ちの魔族達も同様に平伏している。
使い魔勢も大地に倒れ伏しており、ノヴァ、レイ、コア、ヴィンセントの四名だけが平伏す事無く立っていた。
しかし、四名共に滝のように冷や汗を流しておりとてもじゃないが無事とは言い難い。少なくとも、まともに戦えるような状態ではなかった。
ディアスとユイは勿論、レイラも学園の敷地内に倒れている。三人とも生きてはいるが、やはり無事ではない。
ただ倒れ伏しているだけのディアスとユイはまだ良い方だ。敵の力の波動がどれ程のものか理解しきれず、訳も分からぬ内に倒れる事になったのだから。
その点、レイラは最も酷かった。
なまじ強いだけあって正確に敵の力の程を思い知ってしまったレイラは、震えながら半開きになった唇から涎を垂らし虚ろな瞳でうつ伏せになっており、股の間からは排泄する音がはっきりと聞こえる程盛大に黄金色の液体を撒き散らしていた。
これを無様と思う事なかれ。レイラは強い。それこそ音速の速度域での戦闘が可能なレベルにまで己を高めていた。
だからこその有様だ。ロイ先生達が敵の力の波動をまともに受けても倒れ伏すだけだったのは、ロイ先生達が超絶レベルの戦士だったからであり、もしレイラと同等程度の力だったならばロイ先生達とて粗相をする事になるだろう。むしろ、現在の力で粗相をする程度で済んだ事が驚嘆すべき事実だ。
孤児院の子供達も俺の加護の力で生き延びてはいるものの、涙を流して苦しげな表情をしている子ばかりだ。中でも苦しそうなのはやはりカイとイルトの二人だ。
二人とも、常人よりも優れた力を有する為に感じるプレッシャーも他の子供達とは桁違いなのだろう。
孤児院の敷地内には護衛に付いていたユリウス達の姿もあった。皆、例外無く地に伏している。
ただ一つ気になる事があるとすれば……ゼフィアは何処にいった? 少なくとも、拡大した俺の視覚には映っていない。死んでいない事だけは確かなようだが。
ゼフィアの事も気掛かりだが、俺にはそちらに更なる知覚と思考を向ける余裕はなかった。
「……ッ! 想像以上だ、これが〝殲滅鬼〟の力かッ」
深海の水圧の如き物理的な圧力さえ伴う力の波動に対抗しつつも、俺は遥か上空に浮遊する巨大な生命体に瞠目を禁じ得ない。
灰色の皮膚に筋骨隆々とした肉体を包み、武者鎧を着込んだ巨大な姿の鬼神。知覚した情報によると、その体長は優に十万メートルを超えている。
デカい、余りにもデカ過ぎる。あんなデカブツが攻撃してきたら果たして凌げるか――否。
凌げる凌げないの問題じゃない、今の俺では間違いなく一撃で肉体を砕かれる。
これで相手が図体だけで力量が伴っていない雑魚ならば余裕で止められるが、バロールは力量も確かだ。
単刀直入に言うと、俺は今すぐ自分に連なる者達を連れて逃げるべきなのだろう。恥も外聞もなく無様に、それこそ負け犬のように。
だが――と、俺は冷や汗を流しながらもニヤッと笑った。
この期に及んでも尚俺の闘争心は一向に萎縮する気配がない。むしろ、これ程の絶対者と戦えるのかと思うだけで昂る一方だ。
死の恐怖がないわけではない。実際、こうしている今も死の恐怖は感じている真っ最中だ。そうでなければ冷や汗など流さない。
しかし、それ以上にこの俺が死の恐怖を感じる程の戦場を愉しく魅力的に思う心の方が遥かに大きい。
それにだ――。
「…………」
甘美なる戦いへの情動とはまた別の、異様なまでの高揚感が俺にはあった。
バロールに未だ動きはない。それは余裕の現れなのか、状況の把握に努めているだけなのか、それとも――。
「カレン、聴覚までは持ってかれてねェよな? お前に一つ、伝えておきたい事がある」
「う……く……っ」
視線をバロールから外した俺は、傍らでバロールが放つ力の波動に固まってしまっているカレンに声を掛けた。
カレンはバロールの力の波動に抗い、動かない身体に鞭打って首を巡らせて此方を見つめてきた。
アメジストのような紫色の瞳を見つめ返し、俺は落ち着いた声音で告げる。
「いいかァ、よく聞け。バロールと戦えば恐らく俺は潰される。だが絶対に俺とバロールの戦いに手を出そうとすンじゃねェ」
「……っそれは、闘争を邪魔されたくないから?」
声を振り絞って言葉を紡ぐカレン。
「それもある。が、それ以上に俺は〝変革〟を渇望していてなァ……前からそんな感じはしてきたンだが、どうやらここが俺に取って最初で最後のターニングポイントらしい」
その時、バロールに動きがあった。ゆらりと片手を持ち上げたかと思うと、空間を割り砕くようにして無骨な真紅の長刀を取り出したのだ。
バロール自身の体長のおよそ三倍はあろうそれは、間違いなくこの大陸程度ならば容易く両断出来るであろう。
彼我の戦力差は明白、最早逃げる事も叶わない。常識非常識問わず、この戦いは完全なる負け戦と見るのが普通だ。
しかし、俺にはこの戦いが負け戦には思えなかった。確かに俺は完膚なきまでに潰されるだろう。だがそれだけだ、最終的に勝利するのはこの俺唯一人。
俺はそっとカレンの白銀の長髪を指で梳くと、いつものように唇の端に不敵な笑みを刻んだ。
「ンな哀しげな顔すんなよ。案ずるな、最後に勝つのはこの俺だ。ちゃんと生きて帰ってくるっての」
「本当……?」
「ああ。この俺に死と言う名の敗北は有り得ねェ」
確固たる口調で断言すると、カレンは暗い表情を消して苦笑した。
「全く、貴方は本当に傲慢な人ね。分かったわ、私は貴方とバロールの一騎打ちに一切支援をしない。その代わり、絶対に勝ちなさいよ。
負けたら承知しないんだから」
「ハッ、最ッ高の激励だ――」
そう言い捨て、俺はカレンに背を向ける。
目指すは空前絶後の巨体を誇る灰色の〝殲滅鬼〟。不動の構えで待ち受けるそれに対し、俺は黒刀を水平に構えその真名を唱える。
「神器再現――魔剣<ディスヘルスラスト>」
魔界 〜魔王城〜
時は少し遡り、レオンとヴィンセントが黒いヘドロに苦戦している頃。
魔界へと帰還を果たしたレーゼとリリスは、道草一つ食わず魔王城へと直行していた。
道中、レーゼとリリスの姿を見た魔族達は凍りついたようにその場で硬直したりしていたが、レーゼとリリスは見向きもしなかった。
そして辿り着いた魔界の中心部。先代の魔王達は城の周囲に城下町を築いていたのに対し、今代の魔王である『闇の覇者』は城下町の存在を戦の妨げになると断じて、転移魔法で住んでいた種族ごとに城下町をそれぞれの領土へと跳ばしてしまった。
その為、周囲を見渡せば地平線のみが広がるような地帯にひっそりと魔王城はあった。
――相変わらず、シケた場所ね。
一時的に精神を一つに統一したリリスは、深層意識にレーゼのおっとりとした穏やかな気を感じつつそう思った。
リリスはそっと魔王城の城門に黒いシルクに包まれた繊手を添えた。
端から見れば、黒いゴスロリ服に身を包んだ銀髪の少女が軽く城門に触れたようにしか見えない。しかし、無数の強化系の魔法が永久化されていた城門はそれだけで軋みながら開き、悠々とリリスは敷地内へと足を踏み入れた。
敷地内といっても、普通の王城にありがちな庭など欠片も見当たらず、あるのは石造りの寂れた景色のみだ。
仮にも王城だというのにこの無骨さにはリリスも苦笑した。
リリスは庭よりは内装に力を入れる方なので、どちらかと言えば庭に関しては大して気を回さない方なのだが、それにしたってここまで徹底してはいない。
華々しさの欠片もない庭を通り過ぎて城内へと移行したが、使用人などの姿はなくやはり王城らしからぬ光景が続く。
変わらぬ寂れた光景にいい加減飽きてきた頃、漸く謁見の間の扉が見えてきた。広さだけは無駄にあるのだ、この城は。
気配を探らずとも分かる。謁見の間の奥まった高みにある玉座――そこに『闇の覇者』が座している事が。
ただそこに在るだけで他者を圧倒するこの気配は『闇の覇者』のものに他ならない。恋人としての贔屓目が入ってもレオンの力などとは比べ物にならない力の波動を受けても、リリスは顔色一つ変えずに謁見の間の扉に手を掛けた。
そこでリリスはある事に気付く。
――妙ね、以前訪れた時に地下から感じた力の波動が消えているわ。
リリスがレオンのもとにレーゼとして召喚される前にこの城に来た時には地下から不気味な力の波動が漂ってきていたはずだが、今はそれがない。
リリスは眉根を寄せて知覚能力を向上させ探りを入れてみるも、地下はやはり蛻の殻だった。
その事に疑問を抱きつつもリリスは謁見の間の扉を開いた。
「――来たか」
開口一番に投げ掛けられたのは来訪を認めた無感情な言葉だった。
「ええ、お陰様でね。ご機嫌麗しゅう、現魔王様?」
「ふっ。貴様にはそう見えるか、〝吸血鬼の女王〟よ」
皮肉げに言葉を返すリリスだが、『闇の覇者』は薄く笑うのみだ。
ため息を吐いたリリスは謁見の間の半ば程まで歩を進めると、改めて高みに座す『闇の覇者』を見上げた。
片目を隠す長い銀髪にレオンと同様の鮮血を思わせる真紅の瞳。神が造り上げたかのような美貌からは、先程の笑みはもう消えていた。
「では、問答の時間だ。ヴァンプクイーン、貴様から見て今代の『風の覇者』はどのような存在だった? 忌憚のない意見を聞かせて貰いたいものだ」
「忌憚のない意見ですって? お前、それを私に言うのかしら。よりにもよって〝女王〟たるこの私に」
「……そうであったな。失敬した。今の貴様からは〝女王〟というよりはどうも女の匂いがしてならんのでな」
『闇の覇者』は目を細め挑発的な発言をする。それをリリスは鼻で笑って一蹴した。
「言ってくれるじゃない。ええ、確かに女になったのは認めるわ。今や私の全てはあいつのモノ……だけど、逆にあいつの全ては私のモノでもあるのよ。
私の愛は安くはないわ。私の寵愛を受けるという事は私の全てを手に入れる事と同義だけど、同時に自己の全てを私に捧げる事にもなるの。
決して一方的に降ったわけじゃない。欲しい存在は是が非でも手中に収める――〝女王〟としての在り方まで損ねたつもりはないわよ」
妖しく煌めくリリスの真紅の瞳。黒いゴスロリ服に包まれた肢体から言い知れない覇気が漂い、大気すら震える。並みの上位魔族ではこれだけで膝を屈するであろう。
しかし『闇の覇者』も〝王〟の名を冠する者、リリスの覇気を受けても眉一つ動かす事なく口を開いた。
「成る程、どうやら俺の方が認識を違っていたらしいな。その傲慢さ、貴様は真に〝女王〟のようだ。あのファランを相手によく言えた」
リリスは怪訝そうな表情になる。
「ファランを相手に……? お前は何を言っているのかしら。私が結ばれたのは今代の『風の覇者』よ」
「何?」
それを聞いた『闇の覇者』が想定外だと言わんばかりに頬杖を止めて手を肘掛けに置いた。
不可解そうに問い掛けてくる。
「ヴァンプクイーン……貴様、女同士で結ばれたのか? いや他人の好みに口を出そうとは思わんが、まさか貴様が――」
「お前は何を勘違いしているのかしら。まあその気持ちは分かるけど、レオンは男よ」
「…………」
『闇の覇者』は暫し無言でリリスを見下ろしていたが、リリスの言葉に偽り無しと見ると再び片肘を立てて頬杖をついた。
虚空に視線を彷徨わせて呟く。
「あの容姿で男だと? 馬鹿な……いや、そういう事もあるのか。にわかに信じ難い話だが――」
『闇の覇者』は軽く瞑目した後、
「……まあいい。して、先の問いについてだが。貴様はどのように感じた?」
「そうね――言葉に出来る事があるとすれば、レオンという男は人間の本質を体現した存在だとでも言っておこうかしら」
「ほう」
「人間の本質を体現した人間というだけなら異世界を旅して回っていれば珍しい存在にも思えないけど、レオンの場合は話は別よ。
アレは根本的に人間の本質を体現した在り方が違う」
そこでリリスは一旦言葉を切ると、ルーレシア世界で戦っているであろうレオンの勇姿を脳裏に浮かべつつ続ける。
「人間の本質を体現した人間の大半が理性が本能に振り回されているだけなのに対し、あいつの場合は理性と本能が初めから一致してるのよ。
理性と本能では異なる体現者達とは違い、理性と本能が同一のモノとして内在している。謂わば天然の人間の本質の体現者。真に人間の本質を体現しているのよ、そもそもの格が違うわ」
「そうか」
『闇の覇者』は再び瞑目した。無言で瞑目し玉座に座すその姿は見る者を凍てつかせる無表情の美貌と相まって、寂れたこの城には似合わぬ荘厳な雰囲気を漂わせていた。
リリスは豊かな胸の下で腕を組み、『闇の覇者』の次なる言葉を待つ。
暫時、そのままの状況が続いた。
両者共に動きを見せない。永遠に続くかに思われたその静寂を破ったのは『闇の覇者』だった。
「……契約は果たされた。あの女ならば此処より南東の方角にある青藍の祠に封じてある。これで封を解き連れ帰るなり何なり好きにするがいい」
「!」
『闇の覇者』は虚空から、陽光を受けたクリスタルのような輝きを放つ液体が閉じ込められた小さな楕円形の宝玉を取り出し、それをリリスに投げて寄越した。
咄嗟に手を伸ばしたリリスは、己の掌に収まった宝玉を一瞥してから『闇の覇者』を見やった。
「随分とあっさり渡したわね。見たところ確かに本物のようだけど、敵である私に塩を贈るなんてどういうつもりかしら」
目的を達成する為には戦闘は避けられないと踏んでいたリリスからしてみれば、『闇の覇者』が契約通りにとある封印を解く為に必要なこの宝玉を渡したのが意外だった。
少なくとも、この宝玉が『闇の覇者』の手元にある限りリリスは派手な行動は控えなければならない。あの傲慢な〝女王〟たるリリスが、だ。
リリスに取ってはそれ程の価値がこの宝玉にはあった。だというのに『闇の覇者』は契約通りにこの宝玉を渡してきた――。
リリスの目が俄然鋭くなる。そんな不信感全開のリリスの姿に『闇の覇者』はくつくつと喉の奥で笑った。
「ふっ。そう構えるな、何も企んでなどおらんよ。己の方から結んだ契約を違うなど〝王〟としての器が疑われるであろう?」
「……どうやら本気で言っているようね」
淀みなく言い切った『闇の覇者』を目を細めて見やり、リリスは一つ頷くと玉座に背を向けた。
そのまま、未練無く謁見の間を出ていこうとする。
「待て、ヴァンプクイーン」
その背中を『闇の覇者』が呼び止めた。
リリスは半身だけ振り返って『闇の覇者』を視界に収める。
「何? 言いたい事があるならさっさと言って頂戴」
「〝獣人の王〟には警戒しておいた方が良いぞ。あの男、貴様に対して妙な隠し玉があるようだ」
「ふぅん……? まあ、諫言として耳に入れておいてあげるわ。それにしても、随分とご親切な事ね。お前も私に惚れでもしたのかしら?」
わざとらしく艶っぽい笑みなど浮かべて魅せるリリスに、しかし『闇の覇者』は弛く首を横に振った。
「それも悪くないかもしれんが、残念ながらただの気紛れだ。それに貴様は今代の『風の覇者』に夢中であろう。俺の事なぞ眼中に無いだろうに」
「眼中に無いのはお前の方も同じじゃない」
リリスは軽く笑って言い捨てると、今度こそ謁見の間を出ていくのであった。
魔界 水晶の森
魔界南西に広がる森林の一部、水晶の森。
自生する全ての植物が水晶で出来ている摩訶不思議な森にリリスは訪れていた。
無論、『闇の覇者』が言っていた青藍の祠に行く為だ。『闇の覇者』の言葉が正しければ、その祠には、〝女王〟たるリリスが無視できない存在が封じられている。
全く開拓されていない森ならではの自然のままの険しい道のりを、リリスは勝手知ったる様子で悠々と進んでいく。
初めて訪れた場所だというのにその足取りに迷いは無く、感覚の赴くままに歩を進める。只人であらば迷ってしまう事は必至だが、リリスには目的地に必ず辿り着けるという自信があった。
――〝獣人の王〟には警戒しろ、ね。面倒な事になりそうだわ。
倒木を乗り越える為に地を蹴ったリリスは、浮遊感に身を任せつつ考える。
水晶の森は魔界の南西――つまり獣人領に位置する場所にある。魔界には国境はあっても国境を越える為の手続きなどは無い――『闇の覇者』が廃止した所為だ――ので、別段どうという事はないのだが……。
「あの男なら無理にでも難癖付けて来かねないわね……」
すたっと綺麗に着地したリリスは苦々しく呟く。
元よりリリスと今代の〝獣人の王〟の仲は最悪だった。それ故に、事あるごとにリリスに突っ掛かって来ていたのは嫌でも覚えている。
「ああ、もう最悪よ。厄介な事になる予感しかしないわ」
リリスは本気で嫌になってきたのか絶世の美貌を曇らせた。
そうこうしている内に、リリスは水晶の森の最深部に到達した。
半径十五メートル程の円形に開けた場所だ。その奥まった位置には蒼天の如き色を宿した青藍の祠が鎮座している。
青藍の祠は高さ三メートル、幅は二メートル程しかなく、重要な存在を封印しておくには心許ないようにも思える。
しかし、この祠はこれで良いのだ、とリリスは考えた。リリスの知覚能力は青藍の祠の内部に外見にそぐわぬ広大な広がりを認識していたからだ。
リリスは青藍の祠の両開きの扉に手を掛けると、躊躇う事なく開け放った。
青藍の祠の内部には外見に相応しい小綺麗な小規模な空間があった。リリスはその空間の奥まった位置にある壁をじっと見つめると、祠の内部に踏み込んで物も言わずにいきなり拳を叩き込んだ。
亜光速で振るわれたリリスの拳はあわや壁を破砕してしまうかに思われたが、壁に当たる直前で不自然に停止した。端から見ればリリスが壁を破砕しようとして失敗したように見えるが、無論そんなはずはなく――。
リリスの拳には見えざるモノを破砕したという確かな手応えが伝わっていた。その余韻を味わうようにゆっくりと腕を引いたリリスは、腰に片手を当てて何かを待つ。
数秒経過……突然リリスの背後にあった扉が音も無く閉まり、リリスは祠の内部に閉じ込められてしまった。光の失せた空間で、しかしリリスは気にせず立っていた。
更に十数秒経過……閉鎖されているはずの空間に生暖かい微風が吹き、リリスの銀髪を撫でた。それでも尚、リリスは反応を見せない。
そこから更に十数秒経過した時、周囲の水晶の壁が急速に罅割れた。
それは加速度的に規模を拡大させていき、刹那の間に水晶の壁全体が細かい罅割れに覆われ遂には壁が崩壊してしまう。
当然内部に佇んでいたリリスは外気に晒される事になるはずだったが、そうはならずに異常は更なる異常に上書きされる。
砕けた水晶の壁の破片が周囲に拡散するように弾け飛び、空間が塗り換えられたのだ。
狭苦しかった祠の内部から、広大な広がりを有する神殿のような内装へ。空間は侵食されていく。
空間の変換が完全に終わった所で、漸くリリスは動きを見せた。
「ある限られた空間に一定以上の力を加える事によって発動する固有結界、ね。仕込んだのは〝悪魔の王〟と見て間違いない……あの享楽主義者も此度の大戦争に参戦するつもりかしら」
一応知人と呼べる程度の付き合いのあった男の顔を思い浮かべるリリス。しかしすぐにそれはないと首を横に振った。
――あの男は享楽主義だが、得体の知れない思惑に動かされるのを何よりも毛嫌いしている。少なからず得体の知れない思惑が働いているであろう此度の大戦争に参戦する事はまず無いわね。
悪魔は上下関係には厳しいが個人としての行動については自由度が高く、此度の大戦争に参戦している悪魔達は個人の意思で参戦しているわけで、王命を受けての参戦ではない。
尤も、その個人の意思に何かしらの干渉を許してしまっているのが吸血鬼の一族を除く魔族の現状なのだが。
辺りを見回していたリリスは、数十キロ程離れた位置にこの神殿を構成している物とは異なる水晶で出来ている棺桶が鎮座している祭壇を見つけた。
とんっと軽く床を蹴って亜光速の速度域に突入したリリスは一瞬にして数十キロの距離を縮めると、通常の速度域に回帰した。
三十段程の階段を上り祭壇へと上がったリリスは、そこにあった紫水晶の棺桶に視線を落とした。
透き通った紫水晶の向こう、一人の女性魔人が眠っていた。
美しい女だった。尻の辺りまで伸ばされた豪奢な縦ロールの艶やかな金髪は金銀財宝よりも眩く、白皙の美貌は種族性別を問わずあらゆる存在を魅了する。
プロポーション抜群のその肢体は妖艶ながらも清らかな気品を漂わせており、その美麗さはまさに美神と呼ぶに相応しい。
「……遅くなったわね」
リリスはそっと紫水晶の棺に手を添えると、慈しむように撫でる。
やがて胸の谷間に手を差し入れると、人差し指と中指の間に『闇の覇者』から受け取った宝玉を挟んで取り出した。
「あとはこれを……」
リリスは紫水晶の棺に上から下までさっと目を通すと、棺の半ばよりも上の辺りにちょうど宝玉が収まる程度の窪みがあるのを発見した。
そこに宝玉を嵌め込むと、手を離して様子を見る。
変化はすぐに訪れた。
宝玉を中心として紫水晶の棺全体に幾筋もの蒼く輝く光の線が走り、それに伴って紫水晶の棺が柔らかい光に包まれ始めたのだ。
光はやがて紫水晶の棺と同化し、最後は紫水晶の棺を紫色の光の粒子に変換して虚空へと消え去った。淡い残光のベールを隔てた向こう側で女性魔人の目蓋が震えた。
「ん……くっ」
開かれた双眸は鮮血の如く。深き眠りより覚醒した彼女は、その真紅の瞳に神殿の天井を写す。
「これは……固有結界? それにこの基本行使の想定には覚えがあるぞよ」
「目が覚めたかしら、アデル」
「その声は――っ」
リリスの声に反応して女性魔人がさっと上体を起こす。リリスを視界に収めると、歓喜と安堵が入り混じった感情を露にした。
「おお、リリスではないか! 良かった、お主は無事であったか」
「ええ。それよりも……貴女程の戦士が封じられるなんて、やっぱり何かあったのね」
リリスはアデルと呼んだ女性魔人――本名を〝アディシァルアルル=スティア=リ=ジルティナ〟と言う〝母親〟の言い様に眉をひそめるのであった。
「〝世生詩編〟を保持していた!? 馬鹿な、〝世界詩編〟系統の宝具は全て原初の時代に私の宝物庫に納めたはずよ!」
〝悪魔の王〟特製の固有結界である神殿にリリスの声が響き渡る。
普段のリリスを知っている者が聞けば驚愕するであろう。それ程、リリスの声にははっきりと危機感が滲んでいた。
ただならぬ様子のリリスに対し、しかしアデルは落ち着いた風に言った。
「恐らくアレは新造の〝世界詩編〟の一種じゃろう。あの時は不覚にも遅れを取ったが、お陰で〝世生詩編〟に蓄積されておった歴史の浅さに気付く事ができた。
であれば、前知識さえあればお主ならば自身への干渉だけならどうにか出来ようと思っておったのじゃが――」
アデルはゆるりと首を横に振ると、気まずそうに苦笑いした。
「やれやれ、まさか封印されるとはの。お陰で〝獣人の王〟が保持する〝世生詩編〟についてお主に教える事が出来なんだ。挙げ句、世話を焼かせる事になるとは。
何にせよ、これでお主に儂が知り得た事を教授できるというわけじゃな」
「そう……で、この手は何?」
鷹揚に頷いたリリスはいつの間にか自分の腰の辺りに回されたアデルの手を軽く叩いた。
リリスとアデルは祭壇の階段に並んで腰掛けていたのだが、気が付けばアデルはリリスの正面に回り込んでいた。
アデルは染々とした様子で口を開く。
「いや何……一万と八千年程前から段々儂との触れ合いを避けるようになってきたじゃろ? 儂に接する態度も母親に対するそれではなくなってきておるし、母親として寂しくてのう」
「当たり前よ。いつまでも子供じゃないんだから――んっ」
アデルはリリスの唇に己の唇を触れ合わせ、舌を差し入れて深い接吻をした。
リリスは口を開くのみで舌を動かさず、アデルからの一方的な接吻になっていた事にアデルはむっとした表情になったものの、文字通り目と鼻の先にあるリリスの顔を見ると瞳を閉じて舌を動かした。
ピチャピチャと何とも背徳的で淫靡な水音が静閑な神殿内に響き渡る。
母と娘によるキスの裏では、唾液に含まれる生体情報に新たな情報を書き加えて相手の口内に送るという膨大な情報のやり取りが行われていた。
「んっ……んんっ」
「ん……」
――ピチャ、チュルッ……ヌチュ、クチュクチュ……。
〝獣人の王〟が保有する〝世生詩編〟、その最も肝要な情報を全て送り終えたアデルは、最後に娘の唇に舌を数回出し入れした後に唇を離した。
二人の唇を濡らす唾液がつうっと銀色の糸を引き、ぷつりと途切れた。リリスは口内に注がれたアデルの唾液を飲み下すと、アデルに非難の視線を向けた。
「最後のは余計じゃない?」
口元を拭いながら言うリリス。
「カカッ、良いではないか。久しぶりの母娘の触れ合いじゃ、大目に見ぃ」
しかしアデルは気にした風もなく機嫌良さげに笑うのみ。これだからこの母親は、と思わず額に手を当てて天を仰ぎそうになるリリス。
封印されて少しは大人しくなったかと思えば、その実全く大人しくなっていない。いや、むしろ少し調子に乗っているようにも思える。
なので、リリスは密かに拳を固めてキツいのをお見舞いしようとしたのだが。
「――じゃが、襲撃を受けたのが儂一人だけで本当に良かった。もしお主まで襲われておったらと思うと……」
ふわりとリリスを抱き締めたアデルは、リリスの銀髪をゆっくりと撫でながら囁く。
そんなアデルの様子にリリスはため息を吐くと、「私は此処に居る」とでも言いたげに安心させるようにアデルの背に手を回して抱き締め返した。
これじゃあどちらが母親か分かったものじゃないわね――そう思いつつも、アデルの気持ちも分からぬ事もない。
アデルは遥か二万四千年前の魔界の〝魔人の王〟の娘だった存在だ。謂わば魔人姫、王位を継げるだけの力量が有りながらそれを成さず、辺境に移り住んだ変わり者である。
そして、魔界で初めて吸血の能力を得た存在でもある。それは彼女が吸血鬼になったというわけではなく、能力を得たというだけだ。
彼女が得た吸血能力は子に遺伝するものではなく、当然リリスも普通の魔人として産まれて然るべきだったが、何の因果かリリスは魔界史上初の吸血鬼として産まれてきたわけだ。
リリスを産んだという事は無論アデルにも伴侶となる男が居たのだが、その男は種族間の戦争によって命を落とし、以来アデルは女手一つでリリスを育ててきたのだ。
〝魔人の王〟であった父親も戦乱の中で敵の頭と相討ち、母親も後を追うようにして敵の大軍を道連れにこの世を去った。故に、アデルには最早家族と呼べる存在はリリスしか居らず、友好的な関係にあった者達も乱世の波に呑まれて死していった。
最後に残ったのは絶大な戦闘能力であらゆる戦場で勝利し生き残ったアデルと、その娘であるリリスのみ。
同じ時代を生きた者、家族と呼べる存在。アデルに取ってリリスは二重の意味で唯一無二の存在だったのだ。
リリスが何故覇道を謳ったのか、その理由の一つにはアデルのこうした事情もあった。
思えば、懐かしいわね――とリリスは魔界の乱世期の事を懐古する。
魔界の乱世期――本来ならば最低七百年は不動であるはずの種族を統べる王が戦争によって目まぐるしく入れ代わったあの時代。
リリスが産まれるよりも以前から続いていた乱世期の訪れから僅か二千年でアデルとリリスが時代に取り残された頃、アデルとリリスがひっそりと暮らす大陸北部の最深部の城に来訪者があった。
それが当時の〝悪魔の王〟とその娘だ。乱世期の魔界では珍しく話の通じる人物だったように思う。
彼らは意図してアデルとリリスが住まう城に訪れたわけではなく、戦争の末に敗走し落ち延びた先に辿り着いただけだった。
とはいえ、久しぶりにリリス以外の存在と顔を合わせたアデルは彼らが敗者であるのを承知の上で城に招き入れた。
アデルが出迎えた時、〝悪魔の王〟がアデル程の戦士がこのような辺境に埋もれている事に驚愕していたのをまだ覚えている。
彼らがアデルとリリスの城に滞在したのは僅か二週間程の事だ。だが、その短時間の間にリリスと〝悪魔の王〟の娘は友となっていた。
たかが二週間、されど二週間。お互い立場の所為もあってただの三日ですらまともに親以外の存在と接した事の無かった事を鑑みて、二週間もあれば友情を成立させるには十分過ぎた。
アデルとリリスが見送る中、悪魔の父娘が礼を述べ去っていく。それなりに他者との関わりのあったアデルに取っては偶然知り合った者達との別れが来た程度に過ぎなかったが、リリスに取っては初めて情を抱いた友とその父親との別れだった。
その時だった。アデルとリリスがまだ視認可能な領域で、天より飛来した莫大な魔力の籠った光の柱が悪魔の父娘を呑み込んだのは。
……光の柱が消えた時には、悪魔の父娘は魔族の力を以ってしても快復出来ないレベルの傷を負って地に倒れ伏していた。
それでも尚、アデルとリリスが治癒魔法を掛けようとした時、他ならぬ父娘本人によってそれを阻まれた。父娘揃って辛そうに苦笑いしながら首を横に振っていたのを見て、アデルは全てを察したのだろう。治癒魔法を掛けようと伸ばした手を引っ込め、腕を組んで悪魔の父娘の最期を看取っていた。
しかし、当時のリリスはそれが納得出来ずに尚も瀕死の友に治癒魔法を掛けようとし――今度は治癒魔法の光を纏った手を掴まれてそれを拒まれた。
少なくとも、それが最早助かる見込みがない事を予期しての行動だという事は理解出来ていたリリスは、何故お前が死なねばならぬと涙すら流して誰にとも知れず頻りに問い掛けていた。
その問いに答えたのは死の淵に在った友だった。
『何故死ぬのか、か。それはな、リリス。我ら父娘が敗者だからだ。闘争に敗れた者には死か隷属あるのみだ。それこそが魔界の法、不変なる世界の理。
やれやれ、私もこうして制裁が下るまで忘れていたよ』
そう言った彼女の表情は今でも眼に焼き付いている。困ったような、達観しているような――それでいて決して諦念の入っていない、不思議と記憶に残る表情と言葉だった。
沈黙したリリスの様子を見た彼女は力の無い手で掴んでいたリリスの手を胸に抱くと、
『恐らくリリスは私の死を以って魔界の誰もが届かぬ頂への道を歩むだろう。そんな君の最初の友人になれた事を私は誇りに思う。
願わくば、その道程が光に満ちている事を。願わくば、辿り着いた頂に君に取って掛け替えの無い存在が在る事を!』
力強く言い切ると、彼女は穏やかに微笑んで告げた。
『さよならだ、リリス。私の最初で最後の友よ――ありがとう』
それを最期に、リリスの腕の中で友の肉体が解け黒い粒子となって虚空へと消えた。友の肉体が完全に消滅した直後、リリスは初めて己の力を全力で解放した。
今まで知り合った者達とは違い、間に何も挟まず、初めて出来た友を喪ったこの時、リリスの覇道は始まったのだ――。
「……すまぬのうリリス、落ち着けたぞよ」
「そう」
アデルの手が弛んだのを機に、リリスはアデルから体を離した。
ぐるりと辺りを見回して言う。
「なら、早々に此処を発つわよ。私も暇じゃないんだから」
普段なら冗談だろうと笑い飛ばせる言葉。しかし、リリスの様子から何か不吉なものを感じたアデルは問い掛ける。
「……此度の大戦争に参戦するつもりかや?」
「ええ。尤も、それ以前の問題があるのだけど」
隠す事なく肯定したリリスは、この固有結界に侵入した時に立っていた立ち位置の方を見やった。
「それについては城への道すがら話すわ。今はただ私に着いて来て」
「うぬ」
リリスが亜光速の速度域に突入すれば、アデルも後を追って亜光速の速度域に突入した。向かう先はこの固有結界の始まりの一点、真に外界との境界線であり扉である限られた空間。
その領域にリリスが入ろうとした瞬間、強い衝撃と共にリリスの肢体が弾き飛ばされた。
「ちっ」
「おっと」
弾き飛ばされる刹那の間に何が起こったのか理解したリリスは舌打ちしてその場に踏み留まろうとする。しかし、それには及ばず、リリスの後塵を拝していたアデルが物理法則を超越した技巧を以てふわりと娘の肢体を抱き留め、自身も微塵も後退する事なく通常の速度域に回帰する。
リリスがアデルに礼を言う間も無く、固有結界内に嘲笑が響き渡った。
『はははははっ! 良いザマだなぁリリスゥ! 差し詰め檻の中のお姫様ってかぁ?』
「〝獣人の王〟……!」
即座に声の主に当たりを付けたリリスは、キッと上方を睨み付けてそう洩らした。
そんなリリスの反応が知覚出来ているかの如く――いや、実際に知覚出来ているのであろう〝獣人の王〟が再び固有結界内に声を落とした。
『オイオイ、〝獣人の王〟だなんて呼び方はねえだろ。俺とお前の仲だ、遠慮無く〝ビスグラド〟って呼んでも良いんだぜ?』
甘いバリトンの声で己の名を紡ぐ〝獣人の王〟――ビスグラド。
それを聞いていたリリスは盛大に顔をしかめた。
「ちょっと、汚物風情が言葉を発さないでくれないかしら。聞いているだけで汚濁した声音で鼓膜が穢れた気がするわ」
『てめえ……』
向こうに此方の様子が解る事を察したリリスは、耳に手を当てて満面の渋面を浮かべて見せた。わざわざ手に浄化の魔力まで纏わせている。
ビスグラドは怒りに声音を震わせているが、自身が有利な立場にある事を思い出したのだろう。最初の調子を取り戻したようだ。
『ハッ、相変わらず傲慢な女王様だな。だが何時までその傲慢さを保てるかな? てめえ等が居る固有結界の外界との境界線は〝世生詩編〟で弄らせて貰った。
俺の許し無くしてそこからは出られないぜ?』
「それはどうかしら。まさかこの私が何の対策もしていないとでも思っているの、お前?」
実際、ビスグラドが保有する〝世生詩編〟についての知識がある今ならば、〝世生詩編〟によって書き加えた情報ごと固有結界を破砕してしまえば外界に戻る事は出来るだろうとリリスは確信していた。
ならば何故それをしないのか。それは、その過程で障害となる事項が二つ程ある為だ。
一つは固有結界を破砕した際に生じるであろう世界の空隙。ルーレシア世界程ではないが、強度の高い魔界の隔絶空間を破砕した際に生じる空隙に巻き込まれれば、リリスとアデルとはいえ存在の確立・維持の為に相応の力を消費する事になる。
もう一つはビスグラド――いや、ビスグラドが保有する〝世生詩編〟の存在。ビスグラド自身も〝獣人の王〟を名乗るだけあって魔界でも有数の卓越した戦士ではあるのだが、リリスとアデルならば容易くあしらえる。が、そこに〝世生詩編〟が加わった場合、先に挙げた理由で消耗した状態で戦うには少々厄介な事になる可能性が高いのだ。
戦えば必ず勝てる自信はある。が、〝世生詩編〟の力で妙な制約を掛けられる可能性が無視できない――そんな中でリリスはある決断をした。少し時期尚早な気がしてならないが、今こそ招来の時。
対策がある事を匂わせる発言に反して動きを見せないリリスに、ビスグラドはハッタリだと考えたのか得意げに話し掛けてくる。
『どうしたリリス。対策があるんじゃないのか? それにしちゃあ動きが無さ過ぎるように見えるんだが……本当は対策なんざねぇんだろ?
何も奴隷になれとは言わねえ、お前が俺に対する服従の制約を受け入れるんだったら助けてやってもいいぜ。どうする?』
ビスグラドにしては寛容な提案に、しかしリリスは応えなかった。
代わりに、ふと思い出したかのように問うた。
「この固有結界の外界との〝境界線〟は〝世生詩編〟で弄らせて貰った……お前は確か、そう言っていたわね」
『ああ。お陰でその固有結界の魔界からの乖離の度合いは通常の数百倍以上だ。どうだ、服従する気になったか?』
リリスの言葉を肯定したビスグラドは、リリスに再度服従の意を求めた。
それに対しリリスは哄笑を以て応える。
「あははははははっ。この私が服従? 魔界の始まりの〝王〟たる私が、お前如き下賤に? 身の程を弁えなさい、劣等種。そして思い知るがいい。お前は重大なミスを犯した」
『……こっちが手緩い提案を出してやってればてめえ、調子に乗りやがって! 交渉なんて止めだ、母娘共々力尽くで屈服させて性奴隷にしてやるっ』
ビスグラドの力ある怒声が固有結界である神殿内の大気を震わせる。リリスの後方に控えていたアデルが若干の焦りを滲ませた声を発した。
「あの時も儂を陵辱しようとしてきおったが、此処に来て本音が出よったか。リリス、先の言葉から察するに何か策があるのかのう。
流石にこの状況は予測しておらなんだ。いよいよ拙くなったら儂がどうにかするから、手段があるならば思い切り良く頼むぞよ」
「その心配は無いわよ。あの劣等種が私達を幽閉する為に〝境界線〟を弄った時点で、私達の勝利は確定しているわ」
そう、ビスグラドは重大なミスを犯した。リリスとアデルを幽閉したければ〝世生詩編〟で固有結界そのものの強度を引き上げるだけに留めておくべきだったのだ。
本人からしたら、通常の強化だけではリリスに容易く破られるだろうと考え念には念を入れて〝境界線〟を弄ったのだろうが――その選択が死を招く。
「――来なさい。今こそ貴方の伴侶たる私がその存在をこの場に欲するわ。この願望が届いたならば、我が内なる世界より出でて現界を果たしなさい――レオン!」
「リリス? 一体何を――」
本気でリリスの意図を図りかねたアデルが疑問の声を洩らした時だった。
「ふはははははははははははは! いきなり現界しといて何なんだけどよォ、死んでくれやァッ!」
『――あ?』
ビスグラドの惚けた声が聞こえる。
「……は?」
アデルも、余りにも唐突に過ぎる事態についていけず、ピタリと動きを止めて現実に起こり得た事実を視認する。
アデルの〝眼〟は、虚空より突き出したしなやかな繊手に頭部を穿たれたビスグラドが青藍の祠の前に立っている光景を映していた。
それとは別に、只人であっても普通に視認可能な光景として、全裸の女がリリスの前方で自身の頭上にある謎の裂け目に向かって貫手を突き出している――そんな事が起きていた。
亜光速の速度域に在っても刹那の間に、一体何がどのような順番で起きたのだろうか。全く以て意味が解らない。
そうしている間にも事態は進展していく。
「よっと」
グシュリッドチャチャチャチャチャビチャビチャッ!
片腕を謎の裂け目に肩まで埋没させていた全裸の女が、腕を引いた。それと全く同時にアデルの〝眼〟に〝視〟えていた、ビスグラドの頭部を穿っていた繊手が脳髄を掴んだまま虚空に沈むように戻っていった。
それが何を意味するのか、説明などしなくとも理解出来るであろう。――ビスグラドは殺されたのだ。リリスの前方に立っている全裸の女に、その繊手で頭部を穿たれ脳髄を摘出されて。
全裸の女は、ビスグラドから摘出した灰色と白色の混ざったクリーム色の脳髄を興味無さげに神殿の床に打ち捨てると、リリスとアデルの方を振り返った。
明らかに危険な雰囲気を漂わせていた為に、ほぼ反射的にアデルがリリスを背後に庇おうと前に出かけたが、その必要は無いと言わんばかりにリリスは自ら全裸の女に歩み寄った。
思わず撫で肩に手を掛けてリリスを止めようとしたアデルだったが、寸前で思い留まり持ち上げかけた右手を下ろす。ここでリリスを止めるという事は、リリスの事を信じていない事と同義だからだ。
その代わりとばかりに、アデルは名も知らぬ全裸の女を観察した。まだまともに容姿を見ていない事を思い出したからだ。
全裸の女を見てまず目を引いたのは、膝裏の辺りまで伸ばされたカラスの濡れ羽の如き艶やかな黒髪と、確固たる意思の光を宿した鮮血よりも尚鮮やかな真紅の瞳。
そして、百七十二センチと、女性にしてはかなりの長身に相応のプロポーション。アデルにはそのつもりは無かったのだが、偶然〝識〟ってしまった情報によると上から92・53・89といった所らしい。
白皙の面貌はただただ「美しい」としか言い様が無く、この美貌を前にしてはあらゆる美辞麗句は意味を成さないだろう。
それだけではない。世にも美麗な肉体に内包された力が容姿の美しさから来るものとはまた違った〝美〟を感じさせ、同性であり絶対的な精神抵抗力を兼ね備えているアデルですら魅入ってしまいそうだった。
そんな、常軌を逸したレベルの美女は、頬を弛めて怜利な美貌を暖かなものに変えるとリリスに向かって軽く片手を上げた。
「よう! 呼んだかァ、リリス」
「ええ。下賤な劣等種風情が一丁前に厄介な小細工を仕込んでいたから。状況を打破する為に、ね」
尤も、独力でも打破しようと思えば可能だったのだけど――と、リリスも口元に親しげな笑みを浮かべて応える。基本的に他者を見下しているあのリリスが、だ。
どうやらリリスと謎の美女はかなり親しい仲らしく、瞬く間に二人だけの世界が展開されてしまった。永年共に生きてきたアデルとしても、リリスがここまで自分以外の存在に親愛の情を抱いているのを見たのは、魔界乱世期の〝悪魔の王〟の娘以来だ。
しかし、リリスと謎の美女が互いに抱き合っているのは本当に親愛の情なのだろうか?と疑問が湧いてきたアデル。ただの親愛の情にしては何かこう、二人の心の距離感が接近し過ぎているような気がしてならない。
半端じゃないアウェイ感にアデルが居心地悪そうにしていると、謎の美女がリリスの背後に居たアデルへと視線を向けた。
「で、この人がお前の母親か。流石はお前の母親というか、容姿も力も規格外だなァ。普通にレイよりも強いじゃねェか。……おっと、こりゃ失礼。
俺の名はレオン。今代の『風の覇者』にしてリリスの伴侶たる男だ。挨拶が遅れた上に初対面が分体の状態で悪ィな、アデル」
「……う、うぬ?」
言っている事は理解出来る。理解出来るのだが、理解した内容に矛盾や信じ難い事項がある為に困惑するアデル。
〝世生詩編〟を保持し、その能力を発動させていたビスグラドを瞬殺した直後だという事もそれを助長していた。
アデルが確認するように己の娘の顔を見ると、小柄な体躯に似合わぬ巨きな胸の下で腕を組んでコトの推移を見守っていたリリスは、さも当然の事のように頷いた。
「レオンの言っている事は事実よ。男性体ではなく女性体なのは、私の内なる世界より現界する際に媒介となった存在、つまり私が女だったというだけで、レオン自身は正真正銘の男よ。
……まあ、元から女みたいな容姿だったけど」
「――リリスが認めるのであらば儂も信じざるを得まい。しかし、そうなると儂はこやつの義理の母親という事かの……いやはや、あのリリスに男が出来ようとは。
深き眠りより目覚めて早々、驚かされてばかりじゃ。やれやれ、世の中何が起こるか分からんのう」
アデルは苦笑すると、キュッと締まった腰に片手を当てて立っていたレオンの方を見やった。
「――詳しい話は我らの居城に着いてから聞かせて貰うのじゃ。取り敢えずお主は服を着ぃ」
魔界北部 〜吸血鬼の都・ルーンヴェーラ〜
吸血鬼の一族が住む魔界北部は、遥か古代にリリスが展開した指定空間改変の固有結界の領域内部に在る。
指定空間改変の固有結界は、通常の固有結界のように『己が力の及ぶ規模の空間を指定した座標に重複させるように生じさせ、任意の対象を内部に招き入れる』といったものではなく、『指定した座標を己が力の及ぶ規模の空間に書き換える』といったものだ。
『空間具現化』ではなく『空間書換』。一から空間を生み出すのではなく、元から在った『魔界北部』という空間の理を書き換える固有結界を遥か古代にリリスは展開したのだ。
その為、魔界北部という存在自体が固有結界と呼べる領域には外界との明確な境界線があった。壁と言っても良い。
「――これが件の境界線よ。一応言っておくけど、間違っても壊さないように。展開し直すのが面倒なのよ、これ。已むを得ない場合を除いて、もし壊したら生き血を吸い尽くしてやるわ」
「お前にだったら吸い殺されても全然構わねェけどな。……っと、ンな顔すンなって、別に壊しゃしねェよ。死ぬ気も無ェしなァ。
ただ、それだけの想いをお前に抱いているっつう例えだ」
若干の怒りを露にリリスがレオンを睨むと、ウィンクと共にそう口にした。
「ふん……なら良いのよ」
それを受けたリリスはレオンから顔を背けた。その美しい面貌には僅かに照れが覗いている。レオンの言葉が完全に本気だという事が解っていたからだ。何だかんだ言って、実際に言われるとリリスも嬉しかったのである。
「うぬぅ……」
そんな二人を後方から眺めているアデルは複雑な心境だ。男っ気が無かった事は勿論、天上天下唯我独尊を地で貫く娘が愛し合える伴侶を得たのは喜んでいる。それも、相手である男(?)はリリスの伴侶という存在に相応しいだけの力を持ち、更には絶対的な愛情でリリスと結ばれ合っていると来た。
それこそ、アデルの理想を実現したかのような現実だ。嬉しくないはずがない。
ただ、最愛の娘であり同じ時代を生きてきた唯一無二の存在であるリリスとの繋がりが、最早自分一人のものではなくなった事に寂寥感を感じているだけだ。真実、アデルは表面的にも内面的にもリリスが伴侶を得た事を喜ばしく思っている。
だがしかし種族を問わず感情というのは複雑怪奇なものなわけで、めでたい話だった。結局、アデルは喜びながらも悶々とした心境でリリスとレオンの後ろ姿を眺めていた。
「行くわよ。遅れずについてきなさい」
まずはリリスが固有結界の境界線を越えていった。境界線の向こう側には、周囲の風景の延長のように背の高い木々で構成された森林があるという何の変哲もない風景があったが、その風景には先に境界線を越えていったはずのリリスの姿は無かった。
しかしレオンはそれに驚く事無く、勝手知ったる様子でリリスに次いで境界線を越えた。最後にアデルが境界線を越える。
「ほう? こいつァまた、『月姫』の権能を有する俺には最適の環境じゃねェか」
久しく感じる、境界線を越える時特有の空気が変わるような感覚の直後、アデルの耳にそんなレオンの言葉が聞こえてきた。
見れば、レオンは天を臨んで満足げに笑っていた。
境界線を越えた直後は境界線の外側から見た通り背の高い木々の森林地帯であり、鬱蒼と繁った木々により天候を視認する事は出来ない。しかし、レオンはその知を以てして、魔界北部の異常性に気付いたようだ。
「魔界北部には陽は昇らず――闇夜の支配者たる吸血鬼には打ってつけの地ってわけか」
――そう。
リリスの展開した固有結界内部に在る魔界北部は常時夜の帳が降りており、天には雲一つ無い星空と永遠の満月が夜空を彩っていたのだ。
世界を直接書き換えている為に、それら全てが紛れも無く本物であり真実の世界なのだ。
レオンは固有結界内部に突入した瞬間、それを〝識〟ったのだろう。彼女(彼?)の〝眼〟には夜天が〝視〟えているはずだ。
固有結界の構成に感心しているレオンに、アデルは後ろから教えてやった。
「この固有結界は『月天頂く星々の夜海』と言ってのう。既に解っているとは思うが、闇夜の支配者たる吸血鬼の一族に取って住み心地の良い環境を築き上げておるのじゃ。
高位の者は日光を受けても身体能力と魔力が低下する程度なのじゃが、低位の者には日光は猛毒での。長時間浴び続けていると肉体が燃焼してしまうのじゃ。
それに対してこの『月天頂く星々の夜海』は良いぞよ? 内部に在る限り常時吸血鬼が全力で戦える環境故、生活面だけではなく戦争にも役立つ固有結界じゃからの』
「ンで、敵を自国領まで誘い込んで全力全開で叩き潰すって寸法かい。個々の実力だけではなく戦略面でもほぼ完璧ってか。そりゃ負けねェわけだ」
それをやられたらこの俺ですら分が悪ィンじゃねェか――と呟くレオン。
アデルとしては、分が悪いのではなくまず勝利は不可能だと言ってやりたかったが、その前に不機嫌そうな表情をしたリリスが引き返してきて、
「ついてきなさいって言ったわよね。お喋りは都に着いてからか移動しながらにしてくれないかしら。アデルもよ」
「悪ィ悪ィ、つい……」
「ぬ、すまなんだ」
後ろ髪を掻きつつリリスの方へ向かうレオン。アデルもそれに続くが、リリスの不機嫌な表情にアデルとレオンが仲良さげに話していた事への嫉妬の念が含まれている事に気付くと、何とも微笑ましくなってくる。
所々に蔓が巻き付き行く手を遮る事もある険しい森林を、木から木へと飛び移りながら軽々と進んでいく。やがて、森林地帯の終わりを示す青白い月光が前方に見え始めた。
木の幹を蹴りつける僅かな音の直後、森林地帯を抜け月光の下へと躍り出る三人。
途端、一気に視界が拓けた。森林地帯を抜けてすぐに崖となっており、此処より遥か数万キロ程遠方に〝視〟える下方には三人の常軌を逸した視力を以てしてもその全貌が窺えない程の規模の都市がある。
数万キロと言っても驚く程の事でもない。魔界の中心点たるこの惑星は、地球系列世界の中心点たる星である地球の凡そ八倍もの巨星だ。レオン達が住むルーレシア世界の中心点たる惑星とほぼ同等の規模である。
「おおっ」
その壮大な光景を目にしたレオンが声を洩らし、崖の縁まで駆け寄るとしゃがみ込んで下界を見下ろす。
崖のすぐ下から暫く、先程抜けてきたばかりの森林と同様の森林地帯があったが、下界に見える森林地帯は所々から川や谷など、内部の風景が見て取れる程度の空間的余裕が見られ、不思議と鬱蒼とした風には感じられない。
都に近くなる程森林は密度を薄くしていき、都の半径千キロ圏内になると草原地帯が広がっている。
「ははははははっ、こいつァ絶景だなァおいっ。こんな景色、俺の知識にも無ェぜ!?」
月光を受けて淡く青白く輝いている大自然の風景に興奮したレオンが叫ぶ。アデルの記憶が正しければ、レオンの出身世界であるルーレシア世界は星の成長と共に大陸が分断されていたはずなので、まあ無理も無いだろう。
「こんな所で留まってないで、まずは都に行くわよ。私とアデルが空けていた間に何があったか知れたものじゃないんだから」
しゃがみ込んでいる為、リリスに取ってはちょうど良い高さにあるレオンの頭をコツンと軽く叩き、リリスは一足先に亜光速の速度域に突入して都へと向かう。
アデルもその後を追うが、レオンは都の方へ視線を向けたままその場を動かない。
「ぬ」
何事かと振り返ったアデルは、物珍しそうに都を眺めていたレオンの姿が一瞬にして消え去るのを目撃した。
消え去る直前、レオンのふっくらとした麗しい唇が「【瞬転】」と動いていたのを読唇していたアデルは、気配に従って遥か遠方の下方に見える都を護る外壁の手前辺りを見やった。
するとそこには、興味深そうに都の外壁にペタペタと触っているレオンの姿が――。
「何から何までつくづく規格外なおなご、いやおのこよのう。……リリスの伴侶でなければ儂が惚れておったわ」
ぽつりと呟くアデル。かつて共に在った伴侶たる男とは、愛情を深める前に永遠の別れを告げる事となった。
無論アデルにも結ばれた時点でその男に対する愛情はあった。しかし、言ってしまえばそれだけだったのだ。確かな愛情があったとしても、その男が死んでしまった時点でアデルの抱いていた愛情は停滞してしまった。
今では完全に過去のモノとなってしまっている。もし今この場にその男が現れて想いを告げてきたとしても、考慮の余地も無く一蹴してしまうだろう。その点、儂はあの男を愛し切れていなかったのかもしれぬな――と、アデルは自分の醒めた恋愛感情を自嘲する。
事実、アデルの中には『弱卒には用は無い』という冷徹な観点が存在していた。あの程度の戦で死ぬようならば、その程度の男だったと。
そして、伴侶だった男は死んだ。であれば所詮その程度の男だったのだろうと、アデルの中では酷評が下されていたのだ。
そんな所にレオンの存在である。よりによって娘の伴侶たる男――今は女だが――に恋慕の情を抱こうなど、横恋慕かつ尻軽にも程がある。そうアデルは自制するが、胸の内から泉の如く滾滾と湧き上がる想いは止まらない。
「……アデル」
「――っ、何じゃ、リリス?」
都の外壁に辿り着き亜光速の速度域から通常の速度域に回帰したアデルに、先に到着していたリリスが話し掛けた。
思考の大海に身を委ねていたアデルはリリスの声にはっとして応じる。縦ロールの長い金髪を揺らしてリリスの方を向いた。
リリスはじっとアデルの紅眼を見つめて言う。
「――レオンに惚れたの?」
「…………」
ドキリと心臓が跳ねた。しかしアデルはそれを表には出さず、至って普段通りの己を保つ。胸中の平静は保てずとも、それを内面で抑え込む事は出来た。
「うぬ? 儂がか? 確かに良いおのこじゃとは思っておるが、恋慕するまでには到っておらんぞよ」
「それは嘘ね。〝女王〟たるこの私が、己の財宝を狙われている事にまさか気付かないとでも思っているのかしら?」
にべもなくアデルの意見を否定し、醒めた目をすうっと細めた。
この場合の財宝と言うのが一体何を指していったものかは明白である。財宝といっても別に物扱いだとか装飾品扱いという事では無く、自らが真に価値があるもの、また掛け替えの無い存在だと認めたものに対する言葉である。
リリスは首を巡らせて、都の外壁の構成の解析に夢中になっているレオンの後ろ姿を愛しげに見つめると、
「レオンは私の至宝。だけど私だけの至宝じゃない……既にノヴァとレイラの至宝でもある。この意味が解らない貴女じゃないでしょう?」
「……それはつまり、あの者にはお主の他にもおなごが居ると?」
アデルは静かに問い掛ける。不満、期待、憤怒、憎悪、嫉妬――様々な感情の籠った声音だった。
レオンが娘だけを愛しているわけではないという不満、であれば自分にも希望はあるのではないかという期待、レオンの節操の無さに対する憤怒、レオンから愛を受けている他の女への憎悪と嫉妬――独占欲に満ちた、それでいて他の女が居ても已む無しという矛盾を抱えた、実に人間らしい複雑な想い。
魔族といえどもその価値観は人族と大差無いのだ。事恋愛ごとなどに至ってはほぼ全ての種族が複雑怪奇なモノを抱えているであろう。
抑えようと思えばその複雑な想いを声音に乗せず、自らの胸の内に留めておく事も出来た。
しかし、アデルはどうしても湧き上がった想いを抑えようとは思えなかった。それ程、レオンに対する想いが深くなってしまっていたからだ。
出逢ってから大した時が経っていないというのにこれでは、浅ましいと言われても仕方ない。
その自覚があるのかやや項垂れ気味のアデル。これは嫌われたとしても文句は言えまい、と思ったのだ。
「――合格よ」
そこで、想定外の言葉がアデルの耳朶を打った。
「……合格?」
その意図を計りかねたアデルは怪訝そうに訊き返した。一体何に対して合格したのだろうか。
果たして、リリスはその美貌にうっすらと薄氷のような笑みを浮かべると、すたすたとアデルに歩み寄りながら言う。
「そう、合格。アデル、貴女は私達と共にレオンに愛されるに相応しい。自分の想いを偽るような輩はあいつの妻には相応しくないのよ。
それに対して、先刻の貴女の言葉に籠められていた想いは好かったわ。貴女や私達のように、自分の想いを偽らず感情で物を言えるような女こそあいつは愛すのだから」
アデルのすぐ手前まで来てもリリスは歩みを止めず、思わず後退しかけたアデルを捕まえるかの如くその肢体に己の肢体を衣服越しに密着させると、アデルの左の乳房にそっと右手を添え、指を食い込ませながら続けた。
「だから、いい加減素直に認めなさい。惚れたんでしょう、あいつに。アデルが相手なら良いのよ? 私に異論は無いし、ノヴァやレイラ、そしてカレンだって普通に受け入れると思うわ。
それに、貴女と一緒に抱かれるというのも吝かじゃない」
「リ、リリス……んッ」
尚も躊躇う素振りを見せるアデルに、リリスはぎりっとアデルの乳房を掴む力を強めた。レオン達同様、ただでさえ鋭敏な感覚を持つというのに性感帯に強い力を加えられたアデルは、ビクッと魅惑的な肢体を震わせて声を洩らした。
そんなアデルの反応にニヤリと唇に弧を描いたリリスは、幼さを残す外見にそぐわぬ蕩けそうな淫靡な声で囁く。
「どうするの? このまま自分の想いを否定するか、それとも心の赴くままにレオンに身を委ねるか……今ここで決めなさい。猶予は与えない」
「……ふ、ふふふ」
ここに来て遂にアデルの理性という名の枷が取り払われた。アデルも乱世期の魔界を駆け抜けた戦士。魔界の法に則って欲しいモノは力尽くで手に入れてきた過去がある。
この魔界北部とて元を正せばアデルが勝ち取った領地だ。当時この地に住み着いていた魔族や魔獣達の悉くを血と力と暴力を以て制し、その最北端の地に城を建てリリスと共に隠遁していたのだから。
以来、鳴りをひそめていた絶対者としての欲望の暴威が今再び甦る。
アデルは胸の辺りにあったリリスの顎に手を添えてクイッと上向かせると、覗き込むようにしてリリスの顔を見下ろした。
「なかなか言うようになったのう、リリス。であれば儂も己が欲を抑え込む事などやめるとしよう。カカカッ、あの者が儂に溺れてしまっても知らぬぞよ?」
そう告げるアデルの口元にかつて無い程の艶やかな笑みが浮かぶ。血色の良い唇にペロッと艶かしく舌を這わせ、唾液に濡れ光る唇は途轍もなく淫靡だ。
壮絶な色香を放つアデル。その波動に中られた周囲の植物が一気に枯れ果て、その命をアデルに捧げていく。空間ですら妙な揺らぎを見せ始めた。
ただ色香を漂わせただけで超常の事象を顕すアデル。これには都の外壁の構成の解析に努めていたレオンも反応し、さっとアデルの方に視線を向けて動きを止めていた。
並みの戦士ではこの空間では生存すらままならぬだろう。数秒と保たずアデルに生命力を吸収され尽くして存在が喪われる事請け合いだ。
死にゆく世界など歯牙にも掛けず、ふっと不敵な笑みを浮かべたリリスは自信満々に言い放つ。
「レオンが貴女に溺れる? それは無いわね、女王たるこの私ですらあいつの王者の欲望を満たし切れなかったのよ。むしろ溺れるのは貴女の方よ、アデル」
「ほう」
圧倒的な魔性の美を振り撒くアデルは、胸にリリスを抱いたまま、自身の方を凝視しているレオンへと妖艶な流し目をくれてやる。
どうやら今の遣り取りから状況を察したらしい。レオンは唇の端に不敵な笑みを刻むと、
「成る程、どういう事かは理解出来た。俺もアンタみたいな美女だったら大歓迎だ。むしろこっちからお相手願いたい所だぜ」
「この場にはリリスも居るというに、己の欲望を隠す事をせぬか。まあ、黙ったまま影で他のおなごと通じられるよりはマシなのかも知れんがのう……お主、まともなおなごからは徹頭徹尾嫌われるタイプぞよ」
「ふはははははははは! であろうなァ、俺もその自覚はある。結局の所、俺の周囲には普通の女はディアナしか居なかったからなァ……だが、それがイイと俺は思うのだがね。
常識に囚われねェ女でなくば、俺の在り方は到底受け入れられまい。唯一の例外はディアナだけだろうさ。まあ、普通じゃねェってのはそこらの凡俗共からしてみればの話で、俺からしてみればノヴァもレイラもカレンも、そしてレーゼもリリスもアデルも――十分常識の範囲内に在る女だと思うがな。
比較する相手が悪ィかも知れねェが、俺やファランといった真性の番外者と比べりゃあな。しかしアデル、その言い様を聞いているとまるで自分が普通の女じゃねェと自ら示唆しているようだが?」
「儂のようなおなごが普通じゃったら世のおのこ共が泣くぞよ」
「クハハッ、違ェ無ェ」
レオンは哄笑を治めると、クイッと親指で都の外壁を示した。
「リリスでもアデルでも良いから、取り敢えずこの外壁に途を開いてくれねェか? 俺でも開けねェ道理はねェが、あらゆる意味で構成が複雑過ぎて力業になっちまうかも知れねェンだ」
「でしょうね。その外壁、基盤となっている金属はオリハルコンだけど、そこから更に数百種類もの金属やら液体やらが絡み合って構成されてるから。
中には本来混淆するはずが無いようなモノまで混じってるわよ。下手に途を開こうとすれば、この外壁を構成する要素の一つとして組み込まれるわ」
ある種の生物にも近いわね――とリリスは言いつつ、アデルの腕の中から逃れてひたっと片手を外壁に押し付けた。
魔力とはまた違った力が外壁に押し付けられた繊手に集中し、放出された先から外壁に溶け込むようにして吸収されていく。
十数秒程経過して、リリスは壁から手を離した。途端、リリスが触れていた位置を中心に外壁の半径五メートル程の範囲が凪いだ水面に水滴を落としたかの如く波打った。
波は徐々に治まっていき、それと同時に外壁に穴が空き始める。物の数秒でレオンさえ強引に突破するのを困難とした外壁に途が開いた。
と、外壁の途が開こうとしている事に気付いたのか穴のすぐ向こう側に来ていた美男美女達が、真っ正面に居た俺を訝しそうに見た後、すぐ側にリリスとアデルの姿を認めて目玉が飛び出んばかりに目を見開いた。
「――女王様!? 母君様までいらっしゃるぞ!」
「女王様と母君様がご帰還なされた……」
その場に居た美男美女達が全員揃って片膝をついた。魔界で最も気位の高い一族にして血族である吸血鬼が、左胸に右手を当て、恭しく頭を垂れたのだ。
その姿からは微塵も不快感を感じられず、彼ら彼女らが完全に本気で、且つ心地好さすら覚えて忠義を示している事が弥が上にも理解出来る。
リリスはゆるりと臣下達を見下ろすと、鷹揚に頷いた。
「面を上げなさい、お前達。――女王の帰還よ。此度は我が伴侶たる者の顔見せもある、今すぐ宴の場を整えろ!」
『御意。全ては女王の御心のままに』
リリスが一声を下すと、この場に居た吸血鬼達は声を揃えて打てば響くような受け応えを見せた。
直後、直ぐ様命令を成し遂げようと動き出す吸血鬼達。それを見送ると、リリスは開かれた途を通って都へと入っていく。レオンとアデルも後を追った。
「うん? ……ああ、成る程。やはりこういう事だったか」
都へと足を踏み入れた瞬間、レオンが来た途を振り返ってぼそりと呟いた。その顔には急激に理解の色が広がりつつある。
それが何を意味するのか解っていたリリスは、レオンに肯定の言葉を投げ掛けようと口を開きかけたが。
――ザザザッ。
外壁の方を向いていたリリスの後方から超常の聴覚が無くては聞き取れない程僅かな足音が無数に聞こえてきた。
「…………」
開きかけた口を閉ざし、リリスは首を傾けて後方を見やる。そこには、リリスの方を向いて跪き臣下の礼を取る吸血鬼達の姿があった。
その数、凡そ九億四千万。女王の帰還を知った都の吸血鬼達が、月光に照らされた女王に忠道を示していたのだ。まず間違いなく通常の視覚では見渡す事は叶わないだろう。
リリスはため息を吐くと、己が臣下達に向けて片手を上げてみせた。
「――良い。楽にするといいわ、我が臣下達よ」
ザッ!
女王の言霊に応え、九億四千万もの吸血鬼達が一斉に立ち上がった。声など届くはずがない距離に居た吸血鬼達も難なく反応している辺り、何かしらの力が働いているのだと思われる。
ふと思い出したかのようにリリスが歩き出せば、吸血鬼達は左右に分かれてリリスに道を譲る。アデルが何事もなかったかのようにやや足早に歩いてリリスの右に肩を並べるのを見て、レオンも吸血鬼達の視線など何処吹く風といった様子でリリスの左に肩を並べて歩く。
それから数十分程経過した頃だろうか。それまで都の街並みに目もくれずにただ前を見て歩いていたリリスが、不意に辺りを見回した。
やがて満足したように頷くと、体内で魔力を高めつつパチンと指を弾く。途端、身に覚えのある浮遊感がリリスとアデルとレオンを包む。リリスが転移魔法を行使したのだ。
一瞬の暗闇を経て、三人の立ち位置は様変わりしていた。民家に挟まれた道から、遥か高みより都を臨む高台へと。
いや、正確には高台などではない。三人が今居るのは、地上一万二千メートルもの高さを誇る超大規模な大祭壇、その頂点である縦に三十メートル、横に五十メートル程の長方形の半透明の床の上だ。
気温には氷点下という単語が加わり、デスゾーンですら生温い程の過酷な環境。只人であらば間違いなく命を落とす高度で、しかしリリス達は何一つの強化も施す事無く平然としていた。
そもそも、レオンについては元より暇潰しにギリギリ宇宙に飛び出すか飛び出さないかの高度を鼻歌混じりに空中遊泳するような男だ。しかも、仮に宇宙空間に弾き出されたとしても既存の概念や物理法則を超越して宇宙空間に滞在し、更に言うならやろうと思えば元々の肉体強度だけで宇宙空間に生存可能という変態っぷり。
それはリリスとアデルについても言えるワケで、この三人に関しては心配するだけ無駄だ。
「ん……、この大祭壇も外壁と同じ構成の代物か。オリハルコン自体が伝説の金属だってのに、世の賢者共が知ったらどうなる事やら。色々と価値観がぶっ飛んでいるこって」
トントン、と足で軽く半透明の床を叩いたレオンは、呆れ顔で述べた。むっとしたようにリリスが言い返す。
「都の外壁や大祭壇に使用されている素材を全て創造出来る貴方がそれを言うのかしら?」
「まあ、確かにそうだな」
レオンは誤魔化すように巨きな胸にかかった長い横髪を弄る。
そんな二人の傍ら、目を細めて下界を見下ろしていたアデルはある事を思い付き拳で掌を軽く打った。
「時にレオン。先の話についてじゃが」
「――ああ。そういえば、まだ話を付けていなかったなァ……」
最早お馴染みとなった、唇の端に不敵な笑みを刻むという見方によっては悪い印象しか抱かせない笑顔をレオンは浮かべると、体ごとアデルの方に向いた。
アデルも微笑を浮かべてレオンに向き直ると、独特の深みのある声音で告げる。
「お主のその力と在り方に惹かれたぞよ。レオンさえ良ければ、儂もレオンの女にして貰えぬか?」
「無論、喜んでその想いに応えようじゃねェか。戦士としても女としても規格外なアデル程の女をこの俺が拒むはずがない。それにだ、在り方に惹かれたっつうのは俺自身も同じなんだぜ?
容姿や力もそうだが、アデルのその在り方に俺も惚れた」
「ふむ? 儂は世間一般からしてみれば、娘の伴侶たる男に己の欲望を抑え切れずに横恋慕した最低の女と見られても仕方ない在り方なのじゃが?」
「ハッ、そんなモン世間一般からしたらだろォ? 今重要なのは俺とアデルの主観だ。それに、俺からしてみれば己の欲望を示す事が出来ねェヤツこそ最低のクズだと思う。
欲望を発露しねェってのはある種の停滞を意味するからなァ。真の意味での向上心が無ェとも言える。だってそうだろ? 向上心があったとしてもそれが己の欲する事に対する向上心じゃねェンだからなァ。
必然、すぐに限界が来るだろうさ。それがもし俺やアデルのように無限の時を生きる者であれば、最早手の施しようがねェな。そいつは絶対つまらねェ存在になる。賭けてもいい……。
それに対してアデル、お前は最高だ。正しく俺好みの女よ。アデルなら俺の妻達とも間違いなく上手くやっていけるはずだ。あらゆる意味で、俺と相性が良い」
「ぬ、そうか? それは嬉しい限りじゃが、言外に悪女と言われている気がしてならぬぞよ」
「アデルがそう感じたんならそうなんじゃねェの?」
「カカカッ、言ってくれるのう」
レオンの返しを軽く笑い飛ばすアデル。レオンも声を上げて笑うと、艶やかな銀髪を弄りながらアデルの告白を見守っていたリリスに視線を投げ掛けた。
「っつうワケだ。予定変更だぜ、リリス」
リリスは潤いのあるふっくらとした唇を僅かに開いてため息を吐くも、苦笑を浮かべて頷いた。
「分かってるわよ。『私の伴侶たる男の顔見せ』から『私とアデルの伴侶たる男の顔見せ』に内容を変えるわ。全く、帰還した時に外壁付近に来ていた臣下達に、女王たる私の帰還を祝う事と私の伴侶の顔見せって名目で伝達せよと命じたのを、こうも簡単に命令を下し直す事になるとは」
ぶつくさ言っているリリスの魔力が微妙に高まる。どうやら外壁で命令を下した臣下達に変更点を念話で伝えたらしい。
それから間も無く、二人の吸血鬼の女性が転移してきた。一人は直径三十センチ程の黄金の杯を三つ、もう一人は深紅の液体の入ったクリスタル製のボトルを五本抱えている。
黄金の杯を持った吸血鬼の女性はリリスの前まで歩み寄って来ると、黄金の杯の一つをリリスに受け渡した。次いでアデル、最後にレオンに黄金の杯が行き渡る。
三人が黄金の杯を持ったのを見計らってボトルを抱えていた吸血鬼の女性が進み出る。五本ある内の一本を両手で斜めに持ち、残りの四本を黄金の杯を渡して手の空いていた吸血鬼の女性に預けると、コルクを開けようとボトルの口に指を掛ける。
と、そこでリリスが制止した。
「待ちなさい。注ぐのは私達で行うわ。ボトルは床に置いて良いから、貴女達は下がってもいいわよ」
二人の吸血鬼の女性は数歩後退すると、音も無く床にボトルを置いてリリス達に低頭してから転移魔法でこの場を去る。
リリスはひょいとボトルを一本取り上げると、コルクを抜いてレオンの方へと歩み寄った。
その意図を察したレオンが杯を突き出すと、月光を受けて金色に輝く杯に深紅の液体が並々と注がれた。それが終わると、リリスはボトルをレオンに渡す。
ボトルを受け取ったレオンは、今の自分と同じように杯を突き出しているアデルの杯に酒を注ぐ。ボトルはレオンからアデルの手に渡り、最後にアデルがリリスの杯を深紅で満たした。
満たされた黄金の杯を片手に三人が視線を前に向ければ、下界では家々に青白い魔光が灯り、屋根の上には酒や料理を持った吸血鬼達の姿があった。
レオンは意外そうに下界を見下ろす。
「へぇ……屋根の上で祝杯か。月下で、それも青白い魔光で発光する都で行われるとこれはまた不思議な風情があって良いものだが。
何つうか、意外だなァ。吸血鬼っつうともっとこう、屋内で優雅に祝杯を上げるイメージなんだが」
「下らない先入観ね。異世界での吸血鬼がどういった趣向をしてるのかは知らないけど、私達は宴の時はいつもこんな感じよ。ご不満だったかしら?」
レオンは鼻で笑う。
「まさか。むしろこの方が俺好みの宴の様相だぜ。小綺麗な宴よりも野性味のある騒々しい宴がなァ」
ん、と何かに気付いたレオンが自分達が来た方向――都の南側を見やる。直後、都の南側の上空に金色の華が咲いた。
それが準備完了の合図だったのだろう。視力を強化したらしくリリス達が立つ遥か高みを仰ぎ見る吸血鬼達の視線の中、ゆっくりと大祭壇の縁に進み出たリリスは声を張り上げる。
「――忠実なる我が臣下達よ! 魔界最強の一族にして血族たる吸血鬼! それを統べる始祖女王たる我を崇める我が誇り高き牙達よ!
今宵はよくぞ宴の場を設けてくれた」
下界から爆発的な歓声が湧き上がる。リリスのように特殊な発声法を用いず、且つこれだけ距離が離れているというのに歓声はリリス達にまで確と届き、大気を震わせた。
頃合いを見てリリスがさっと片手を上げると、下界の吸血鬼達は瞬時に静まり返った。
「今宵、お前達に紹介すべき者が居る。私とアデルの伴侶たる男だ。今は女性体だが、本質は男。〝吸血鬼の王〟と成るに相応しい力の持ち主よ。
――レオン」
リリスがレオンに話を流した。小さく頷いたレオンは唇を湿らせた後、リリスと同様に音響が遠方まで届く特殊な発声法を用いて話し始める。
「分体な上に女性体で悪ィが、一応男だから安心してくれ。俺の名はレオン。今代の『風の覇者』にしてリリスとアデルの伴侶たる男だ。
この決定に異論があるヤツは俺に殺し掛かって来ても構わねェ。その時はリリスとアデルの伴侶たる者に相応しい力を示してやる。――以上だ」
端的に、且つ傲岸不遜に言い切るレオン。レオンとしては吸血鬼達が何らかの不快感を露にする事を期待していたのだろう。何やら密かに魔力を高めているようだったが、その期待は良い意味で裏切られる事となる。
湧き上がる歓声。止まる事を知らぬそれはやがて力ある音響になり、天地をも鳴動させる大喝采となる。
「ん……?」
この反応は想定外だったらしく、レオンは拍子抜けしたような表情で立ち尽くしていた。何が目的だったのかは不明だが、体内で高められていた魔力も四散していた。
微妙に残念そうな様子のレオンを可笑しく思ったのか、リリスは口元にスタイリッシュな小振りの牙を覗かせて笑う。
「貴方の事だから、大方挑発して反発された所で魔力を解放して強烈なのを放とうとしていたんでしょうけど。〝女王〟たる私の言葉は絶対だと知っているわよね?
それに此処は魔界よ。力こそが物を言う完全実力主義の世界。つまり、そういう事よ」
「……は。なーる」
レオンはくつくつと喉の奥で笑う。完全実力主義、力こそが物を言う魔界ではレオンの言い様こそ好ましいものだったのだ。
もしここで惰弱な言葉を吐いていれば、女王であるリリスの決定に反発はせずともレオンには多大な反感を抱いていただろう。
止む事を知らぬ大喝采の中、リリスは片手に持った黄金の杯を掲げた。それに合わせて傍らに居たアデルとレオンも杯を掲げ、
「では、我が帰還と我と対を成す〝王〟の誕生を祝して――乾杯!」
『乾杯!』
リリスに続いて吸血鬼達が復唱した。途端、月下の都が抑えていたものを爆発させたかの如く活気に満ち、月夜の宴は開始されたのだった。
「さて、宴も始まった所でお互い色々と訊きたい事があるじゃろう。早速訊きたい事があるのじゃが。レオン、ビスグラドをああも容易く殺せたのは何故じゃ?」
宴の開幕を告げた後、リリス達はどっかりとその場に腰を降ろして酒宴を愉しんでいた。
リリスは膝を崩した体勢で、アデルは豪気に胡座をかき、レオンは左手を後ろについて右膝を立てて左脚を伸ばした体勢で、黄金の杯に口を付けていた。
三人が黄金の杯にそれぞれ口を付け終えた辺りで、思い立ったようにアデルがそう述べたのだ。
それに対して、リリスとレオンもそれはいいと頷き合い、話を振られたレオンが語り出す。
「ああ、ありゃあ一言で言っちまえば『〝境界操作〟と〝概念遡及〟による事象逆行攻撃』ってトコかな。ほら、あいつ、固有結界の外界との境界線を弄ってただろ?
それを、俺の持つ鏡の力の一端である〝境界操作〟の力を以て突破したついでに、〝概念遡及〟で存在領域に在ったビスグラドの力の伝播を逆行して回避不能の攻撃を繰り出した……まあ、種はこんなモンだなァ。
ビスグラドとやらが保持していたアレ、〝世生詩編〟っつったかァ? 身の丈に合わねェ宝具を無闇矢鱈に使うからああなるんだ。お陰で殺し甲斐が無くていけねェ」
最後の方は完全に個人的な文句になっている。
「凄まじい事をさらっと言ってくれるのう。それに、仮にも〝獣人の王〟を相手に酷い言い様じゃな……」
そんなレオンにアデルが呆れ返っていると、リリスが鼻で笑った。
『こういう男なのよ……でも、そこがイイの』
「ぬ?」
自分の知るリリスの声にしては違和感のある声音に、アデルは怪訝そうにリリスの方を見やり、パチパチと目を瞬いた。リリスの瞳の色が青と紅のオッドアイへと色変わりしていたからだ。
「ん、ぬぬ? リリス……それは一体――」
『そういえばアデルにはまだ話していなかったわね……』
ひたすらにアデルが困惑していると、リリスは軽く瞑目した。数秒経ってゆっくりと目を見開いた時には、その双眼は完全に青色になっていた。
銀髪青眼の少女はアデルの吃驚した顔を見つめ、アデルからしてみれば見慣れぬ無表情で言う。
「私の名前はレーゼ。……はじめまして……で、いいの?」
「いや、儂に訊かれても困るぞよ。それよりも、レーゼと言ったか。お主……」
困惑から立ち直ったアデルはまじまじとレーゼの傲慢さが抜けた美貌を〝視〟て、確認するように問うた。
「まさかとは思うが、リリスと同一の精神個体かのう? 二重人格や変異人格ではなく、全く同一の『リリス』という存在が重なった上で癒着している……そうじゃな?」
「うん……より正確に言うと、お姉ちゃんは〝女王〟時代のリリス、私は『レーゼ』時代のリリス……そういう風に存在格に線引きになっていない線引きがある。
大体予想は出来ているとは思うけど、『闇の覇者』との交換条件でレオンの所に潜り込む為にそうしたの……それにしても、使い魔の契約を果たしていたレオンはともかく、初見でこれに気付いたのはファランさんだけだったのに……アデル、凄い」
「ふふん、そうかの? まあ、愛しい娘の事だからこのくらい当然――あ痛ッ!?」
レーゼの称賛の言葉に気を良くしたアデルは得意気に微笑むが、レオンに思いっきり尻をひっ叩かれた事により笑顔が崩れる。
只人ならぬ耐久性を兼ね備えているはずのアデルの肉体、魅力的なラインを描く臀部がヒリヒリと痛む。どうやら相当強くひっ叩かれたらしかった。
当然のように烈火の如く怒り狂うアデル。
「いきなり何をするのじゃっ!?」
「いや、お前が得意気な顔をしているのを見ていたら無性に虐めてやりたくなっただけだ。他意は無ェ」
「余計に悪いわっ!」
悪びれ無く述べるレオンの肩をがっちりと掴んで揺さぶるアデル。ガクガクと揺れるレオンの上半身。たわわに実った豊かな胸が黒い生地の下で縦横無尽に跳ね回る。
と、そこでまたもやレオンの平手がアデルの尻に振るわれる。流石に二度目ともなれば気を張っていたのか、今度は片脚を曲げて脚で平手を防ぐ。
「一度ならず二度までもっ」
「いや、なんかお前の尻って弾力があって叩き心地が良くてなァ。手に吸い付くような感触と言うか、ひっ叩いていると気分が良い。
そう考えるとつい」
依然として悪びれた様子も無く真顔で言うレオン。それに対して、アデルは何かを諦めたのか、ため息混じりに言う。
「そういうのは情事の時に好きなだけさせてやるわ。今はやめい」
「ほう? そいつァ楽しみだな。先に言っとくが、俺の攻めは慣れているはずのノヴァですら泣き叫ぶレベルのモノになるが、言ったからには覚悟をしておけよ?」
レオンの美貌がかつて無い程淫靡に微笑む。そんなレオンの表情を見たレーゼは好奇心が湧くのを自覚した。リリスとレーゼと性交している時ですらこれ程性的な笑みを浮かべてはいなかったからだ。むしろ、余裕があったようにも思える。
一体、ノヴァにどんな行為をしたのだろうか。レオンの女として、これ程までにレオンが関心を示す行為とは何か、レーゼは気になった。
結果、レーゼは問うてしまった。一人の女になったとは言えど元が純粋無垢なレーゼは、その純粋さのまま疑問を口にしていた。
「ノヴァに何をしたの……?」
「前以て言っとくが、お互い合意の上だったんだぜ。情事の最中にノヴァに誘われてなァ。ノヴァの尻を激しく打ち据えた事があった。ノヴァは受けも攻めも完璧にこなすが、どちらかと言えば受けの方が興奮するみてェでな。
始めの頃は俺も乗り気じゃなかったんだぜ? 自分の女を痛めつけて悦ぶ趣味は無ェから。だが、白桃のようなノヴァの尻が俺の手に掛かって真っ赤に腫れ上がっていく様を見ている内に俺も興奮してきて、気が付けば泣き笑いするノヴァの真っ赤に腫れ上がった尻を抱え込んで腰を振ってたなァ、うん。
この際だ、正直に言おう。今までの情事の中で最も快楽を感じたのはこの時だ」
「……変態。ドS」
反射的にその光景を想像してしまったレーゼの頬が仄かに朱に染まり、プイッとそっぽを向いた。ふるふると弛く頭を振っているが、どうやらなかなか脳裏から消えてくれないらしく、小さく唸っている。
ゆらゆらと黄金の杯を揺らしつつレーゼの様子を見ていたレオンが追い討ちを掛けた。
「しかしレーゼ。お前も人の事は言えねェンじゃねェか? 情事の時、俺の汗や精――」
「いやっ。恥ずかしいから言わないで……」
何事か続けようとしたレオンの言葉をレーゼは遮った。本気で恥ずかしそうにしているレーゼの姿に、レオンはこの話題は終わりだと言わんばかりに話題を逸らす。
「レーゼ、リリスと意識を統一してくれねェか? ちいっとばかし訊きたい事があってなァ」
「ん……」
請われて、レーゼは一端瞳を閉じる。次に開いた時に輝くは青と紅。
レーゼとリリスは、膝に置いていた黄金の杯を掬うような動きで取り上げると、深紅の液体を一口だけ口に含んだ。
舌の上で酒を転がしよく味わうと、喉を鳴らして飲み下す。妖艶な流し目などくれて口を開いた。
『何かしら……何でも訊きなさい』
「この都を覆う外壁の事なんだが、もしかしなくとも力を遮断していたりするのか? 外壁の外に居た時は都の内部の様子が知覚出来ず、中に入った途端今度は外壁の外の様子が知覚出来なくなったんだが。
外壁の上を跨ぐように知覚を通らせようとしても無駄だったしなァ。まるで、外壁を境に筒状の見えない力場でもあるみてェにな」
レオンはくいっと左手の親指を外壁の方に向ける。遥か遠方に見える外壁は変わらず月明かりの下で青白く浮かび上がっていた。
『それなら……多分、その認識で間違ってないと思うわ。……私達レベルの知覚能力があっても知覚出来ないなんて、それしか原因が無いもの……』
「多分って……おいおい、ありゃお前が造ったんだろ?」
呆れたようなレオンの言葉に、レーゼとリリスは不愉快そうに唇を尖らせた。
『だって……仕方ないじゃない。元々アレは暇潰しに造った物であって、役割とか事象とかは明確な意図があったわけじゃないもん……それに、アレは始めはあんなに大規模なものじゃなかった。
……色々と混淆させていく内に異常反応を起こして、質量と体積が膨張して……気が付いたらあんな感じになってただけよ……』
「マジかよ……」
レーゼとリリスの意識が統一されている時特有の口調の混ざった説明を聞き、レオンは顔を引き攣らせる。彼の知り得た限り、混淆した素材の中には明らかに混淆するような物じゃない物を始め、混淆してはならないような物、そもそも混淆しないはずの物まで混じっていたからだ。
もし混淆が上手く移行しなければ問答無用で自爆・拡散・侵食・吸収する素材のバーゲンセール。正直、シャレにならない。何故かつてのリリスはこんな物を生み出してしまったのか。
その点についてレオンが指摘した所、レーゼとリリスの反応は淡白だった。
『単なる好奇心……混ぜていったらどうなるのか興味があったから、適当に素材を混淆させただけね……他意は無いわ』
「ん、それについてはまあ共感できる事ではあるなァ。俺も魔法薬を作る時には様々な調合を試してみたモンだ」
レオンは遠い目をしてしみじみと呟く。それを横目に、リリスとレーゼは『あ、こいつ絶対まともな調合はしてなかったな』的な事を考えた。事実、その考えが的中している辺り最早救いようが無い。
レーゼとリリスのしんねりとした視線からそういった考えに至った事を察したレオンは、むっとした表情で文句を言おうとしたが――。
「――ッ、こいつァ……!?」
突如として大きく身を震わせたレオンは、荒々しく黄金の杯を床に置いてにわかに雰囲気を険しいものにした。
リリスと意識を統一したレーゼとアデルが怪訝そうに何事かと問い掛けるよりも早く、口早にレオンは言った。
「――宴の最中に悪ィが、一時的にこの分体から意識を退かせて貰う。もう分体に意識と思考を回している余裕は無ェッ!」
『……何があったの』
本体のレオンの方に何か良からぬ事が起きたのだと理解したレーゼとリリスは、静かに黄金の杯をそっと床に置いてレオンの話を聞く体勢になる。アデルも只事ではない事を悟ったのか、無言で話を促している。
対して、レオンは鬼気迫る表情で深刻な現状を語る。
「〝殲滅鬼バロール〟……そいつがルーレシア世界に現れた。現在の力の総量は、力の波動からして俺が万人居てもまだ足りねェクラスの力を持っているだろォな。
……こいつと戦うには最早一分の意識も割けねェ。つまりそういう事だ」
言うなり、レオンの真紅の瞳から急速に意思の光が失われ、レオンの上体がぐらりと傾ぐ。慌てて最も近くに居たアデルがレオンの肢体を抱き抱えた。
「〝殲滅鬼バロール〟? そのような存在、儂は寡聞にして知らぬが……一体何の事じゃ、それは?」
当惑してアデルは小首を傾げるが、レーゼとリリス――正確には、リリスはその限りではなかった。
『〝殲滅鬼バロール〟……レオンから話には聞いていたけど、ルーレシア世界に現れたですって……?』
以前、レイがレオン陣営に名を連ねる事になった原因、そのファクターとして殲滅鬼バロールの名は話題に上がった事があった。
〝虚無〟という力の顕現である黒いヘドロと関連し、恐らくそれが権能の一つなのだろうと推測される謎に包まれた敵性体。そんな存在が遂に此度の大戦争に投入されたのだ。
その力の程は定かではないが、先刻のレオンの言葉を信ずるに生体エネルギーの総量だけならばレオンの数万倍はある。しかし、とレーゼとリリスは首を捻った。
それ程の存在が居たら多かれ少なかれ噂話くらいにはなっているはずだ。現に、レオンやレイも魔界でも一部の者だけは知っているような事を仄めかしていた。だとしたら、そんな存在を今まで何処に隠匿していた?
そこまで考えて、レーゼとリリスに思い当たる節があった。リリスがレーゼとなってレオンのもとへ行く以前、魔王城の地下から感じた謎の力の波動の事だ。
魔界に帰還して魔王城に行った時には、既に地下からの力の波動は失せていた……確かにルーレシア世界に跳ぶ以前に魔王城の地下から感じた力の波動は強大だったが、レオンが言っていた程の力ではなかった。しかし、その辺りは『闇の覇者』ならどうとでも出来るだろう。
これが意味する事は、最早分かり切っている。魔王城の地下に殲滅鬼バロールは秘匿されていたのだ。恐らく、空間系の魔法で拡張された場所に封じていたのだろう。定期的に何らかの力を喰わせて、戦力を底上げしながら。
結果、殲滅鬼バロールは絶大な力を保有するに至ったワケだ。そうなると、気に掛かるのは――。
『殲滅鬼バロールが何処まで力を行使できるか……』
力の総量が遥かに上だったとしても、力の出力さえ低ければレオンならどうにかなる。だが、レーゼとリリスには、都合よく殲滅鬼バロールの力の出力が低いなどという事は考えられなかった。
焦燥感が募る。自然とレーゼとリリスから言葉は失われていた。アデルも不吉な予感がしたのか、意思の抜けた物言わぬ人形と化した女性体のレオンの分体を無言で抱き抱えている。
レーゼとリリスは黄金の杯に少量残った深紅の液体に視線を落とす。凪いだ水面には無表情で自分を見返す銀髪の少女が映っている。しかし、今はその無表情も焦燥に駆られたような色を見せていた。
『…………』
レーゼとリリスは小さく首を振って杯を取り上げると、水鏡に映った己の姿をかき消すように一気に酒を飲み干した。
それでも不安が消える事はない。レーゼとリリスは何かに導かれるようにしてアデルに抱き抱えられている女性体のレオンの分体を見やった。
あくまでも肉体を操作するべき意識が本体から遮断されただけなので、生命活動は停止していない。長身に相応の巨きな胸が呼吸に合わせて僅かに上下している。
怜利な美貌は眠りによって更に物静かなそれとなり、月光に照らされて仄かに青白く光っているように見える肌理細やかな色白な肌が、幽艶とした雰囲気に磨きを掛けている。
レーゼとリリスは前傾姿勢になりレオンの顔に左手を伸ばすと、そっと柔らかな頬に手を添えた。
『……絶対に勝ちなさい。私達の伴侶とあろう者が、敗北を喫するなんて絶対に赦さないんだから……』
慈しむようにゆっくりと撫でると、ぽつりと呟いた。
同時刻、ルーレシア世界。地上五十万メートル――電離層と呼ばれる、分子と原子が電離する領域にて。
「グオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオーーーーッ!!」
蒼銀の流星が、地に墜ちた――。




