Piece 5 「潮騒、季節の巡り、大海へ漕ぎだす手前」
海が見たいと、ふと思った。
オフィスの窓から、からりと晴れ渡る午前の空。
空気が乾いているんだろうな、髪の毛が今日はいうことをきいてくれて、意のままにスタイリング自在。
今朝、少しひんやり感じた5月の薫風は、鮮やかになり始めた街路樹の新緑を揺らして心地よい。きらきらしている、新鮮さ。
通りを闊歩して出勤を急ぐ誰しもが、一瞬だけでも感じているんだろうか。僕は、そのとき通り抜けていった風のなかに、潮の香りが乗せられていなかったかを思い出してみる。
ショウコが結婚する。僕の幼馴染でもあり、小さな港町である田舎から互いに大都会の東京に出てきて、長い間戦場を共にしたような同志。おおげさながら。
彼女は編集者としておしゃれな雑誌を世に送り出して、僕はそれを羨ましく眺めているだけの、ほんの一介の商社マン、いやボーイといった感じ。出来の違いは、大きかった。ショウコは都会派として見事に夢を叶え、僕は挫折しつつも妥協の上、なんとか都会の隅で生活している。もう、仕事にも生活にも、いっそ人生においても華々しさなんて求めない覚悟はできた。それが僕のシティライフなんだ。
たまには、つながりのあるショウコと、洒落たバーのカウンターで並んで酒を酌み交わす。かつて、潮臭い港の堤防で釣竿を並んで垂れていた仲とは思えない二人。仕事が大変なこと、いろんな世界があることを語り合って、ときには思い出話に及んで懐かしがったり。互いに鼓舞するときも、傷を嘗めあうときもあった。でも、ショウコは持ち前の勝気さで、オトコモード全開で困難に立ち向かっていく。それもあって、あの位置に立てたんだなと、僕はある種男女の枠を超えて尊敬している。
しかし、あるとき、彼女の前に立ちはだかった壁は、彼女一人ではどかしきれなかった。携わっていた雑誌の閉刊。人員も削減され、ほどなく彼女は退職した。
しかし、ショウコは地元の港町に程近い地方中核都市で、タウン誌をつくるという新たな仕事に、あっという間に転身していた。実に鮮やか。
冬枯れた寒々とした港町へ。まだ東京でも鈍色の空から雪がちらほらしそうな気配を引きずっている季節。ショウコと僕は、よく会うときのように、東京タワーが見える窓を前に並んで、何に対してかよくわからない乾杯をした。
あのとき、目の前の夜景を焼き付けるように、しばらく感慨深げに眺めている瞳の奥には、すでに新たな決意と野望があったなんて。次に彼女が口を開くまで、僕はどのように慰めの言葉をかけたらいいか、ずっと悩んでいたのに。
「また、あの海をずっと見ていたくなったんだ」
前向きに進む彼女の言葉らしいな、と思いながら、その口から滑らかに出てくる新プランに目を丸くしつつ、同時に安堵して、なおかつ喜んでいた。
「おまえは、ほんとに、、、」
僕は苦笑いしながらも、祝杯だと、まるで彼女の親のように、その晩、当の彼女よりも浴びるほど酒を飲んだものだった。
「そして、結婚か……」
手元の招待状をくるくるしながら、それが届くよりはるか以前にメールで素っ気無くも伝えられたときのことを思い出していた。
スタートはいっしょでも、今や先を歩んでいるショウコ。僕も今、岐路に立っている。海を越えて、大陸に渡るか。新たなる、人生最大であろう局面。
僕にはショウコほどの決断力も実行力もないけれど、勝手にも見返してやりたい気持ちが高ぶってきている。そのためにも、このチャンスは逃せない。
午後は出先から少し足を伸ばして、東京湾へ。きらきらしているに水面には、何が映されるのか。いや、そんなことよりも、「あの海は、もうしばらくは見ない」と最後のサヨナラを東京湾に捨てる。
海は、つながっているわけだし。今、潮風は、ショウコが向かった先とは違う方向に流れていく。僕は、その潮流に乗るだけなんだ。
<おしまい>