Piece24 「ブルースカイ、残雪が溶けて、やがて花咲く頃」
公園を、いつもより気持ちよく抜けた。
時折、吐息が白い朝もあるけど、着実に温かくなってきてる。
桜の花は、未だ咲かない。いつから、桜の花が咲くことで、春を感じるようになったのかな。
山に囲まれたこの町では、ほかの植生が強すぎるんだ。
まだ、残雪をかき集めた塊が校舎の影にどしりと固まっている、北国の春。女子校、最後の卒業生をあの日、送り出した。記念すべき時にあって、空は清々しく澄み渡ってブルー。
ラスト・ナデシコ、ミハルさん、卒業おめでとう。
一年先に、この町を出て行くミハルさんは、あのときの僕にはとても眩しすぎた。女々しくも、ただそうやって遠く高嶺の花を眺めて過ごした二年間。たった数ヶ月しか違わない、生まれおちるタイミングの差が、この多感な時期にあって、おそろしく次元の隔たりを感じさせる「学年」という敷居。今思うと、そんなの越えられない「距離」じゃなかった。
僕は、パーカーのフードにまとわりつく汗を拭いながら、ふと、思い出し笑い。
あの夏の駅舎での、思い出。
ホームに、ラケットを入れたバッグだけ持って、一人立ち尽くす高校生だった。
「また、会ったね」
真夏のキセキ。風鈴が、幻想的にスローに共鳴する瞬間。心にも涼風が吹き抜ける。
ミハルさんが、僕の隣にたたずんで、あのおそろしく間隔の空いた列車の待ち時間のなか、さらに所在ない状態へと陥れた。動転。心の準備が、整っていない。
「キミ、朝もここに立ってたよね。……ずっとここに居るわけじゃないよね?」
確かに、その朝も、僕は同じシチュエーションでミハルさんと出会った。デジャヴみたいに、またこうして偶然おちあって。そんな奇妙さに、お互い軽く笑った。ん? まるで、ストーカー?
「いちおう、部活やってきて、帰るとこなんですけど。そう、思われても、仕方ないっすよね」
「男子、県大出るんだって? まだ二年目なのに、やったじゃん」
「キセキですよ。おれら男子部も組長にシゴかれただけは、あるんですかね」
「あのひと、キツいよね。あ、この前、キミら、コート入る前に怒鳴られてたでしょ」
あははと笑う、その笑顔に見とれてしまう。そんな心の余裕も無いままに必死に会話をつなぐ。つもりが、ぽつりぽつりの途切れ途切れ。止まない心の動悸を偽りきれず、これが恋だとようやく気がつく17の夏。ミハルさんは、大人びてた。
「東京、ですか」
「うん。教師になりたい、とか思ったけど、今はそれも目標のひとつで、いろいろ可能性探してみるの。夢見がちだから。わたし、大学いけるほど、アタマ、あんまり良くないんだけどね」
「またまた、何を言ってんですか」
先にミハルさんの方面の電車がきたので、その姿を見送って、なんだかそれが最後のシーンみたいに印象に残っている。正直、交わした会話の内容は定かではない。蜃気楼だったかもしれない。
それから幾度か集団の中で視線を交わして、言葉は交わさず、人づてにいろんな噂を聞きながらも真偽は確かめられず、いつの間にやらハレの日のミハルさんを遠く見つめていたっけ。
ドラマなんて無い。月日の経つのは、そんな残酷なスピード。
校門で卒業生を見送る一団に紛れて、柄にもなく花束を仕込み、ミハルさんに渡すべく待ち伏せ。が、しかし女子部のキャプテンだったゴリに渡してしまうハプニング。不本意なことにもかかわらず、思わずミハルさんの笑顔が拝めた。
圧倒的な女子の群れに押し流されるように、ミハルさんがフェードアウトしていった。
なんとなく持て余した時間、男子は小学生みたいに残雪に飛び込んでは、ふざけて祝宴のつもりでバックドロップをお見舞いし合って祝ってみた。
溶け損ねた名残雪を砕き散らしてはしゃぎながら、あの頃は桜が咲いてはすぐに散るひとときの儚さを大事に思うことなんてなかった。微塵も。
思い出の中に浸っていても、照れくさい情景。振り切るようにして再び、風を切って走り出す。
振り払えないまま、ついてまわる清いままにしておきたい美しき情景。どれだけ走っても、置いていくことはできなかった。
今、蕾が膨らみ始めた花の匂いに心躍らされている。そう、花が咲く時期を告げる温かさと、春が運ぶ風と大陸の匂いと、そうやって入れ替わる何もかもへの期待と不安が混在した、大人の時間のあわいに。
これまで幾度となく繰り返してきた通過儀礼、同じ場面。なのに、気がつかなかった。桜は、春になると、心待ちにしている人々の願いを叶えるために、必ず目につくところで咲いていて、瞬く間に惜しまれつつも散っていく。一斉に。
そんな、イベント。気にも留めなかった、きっと。
夢中になるものが多すぎて、それしか見えていなくって、それ以外には関心がなかった。駆け抜けた青春を惜しむ気持ち。狭い了見だな。見落としていたものが、たくさんあったのかも。
それは、ひとつひとつ空に舞う、散華みたいに、やがては雲となって漂い消えるのに。儚いもの。でも、失われたわけではなくって。
だって、こうして季節は巡って来て、期待通りのシーンを演出してくれるんだもの。
花霞みの遠い空には、残雪が淡いホワイトを遺したアスピーテライン。
飛び石みたいに雲を渡り歩いて、青い青い空の端までステップ。おそるおそる稜線を越えてはるか都会を望んでも、決してミハルさんの姿は見つからない。ただ、あきらかに北上してくる花の香りに期待ばかりして、これまで何度も騙されてきた。
こうしてひとつのことを続けながら、ひたむきになりながら、時折思い出す感情の塊は、あの時の残雪の如くにいずれ溶けて跡形も無くなるだろうか。ただ確かなのは、年をとるごとに心の残雪の塊が徐々に溶けて、かわりに開花を間近に感じられるほど嗅覚が研ぎ澄まされてきているってこと。
そんなこと、おかまいなしに、花は明日には気まぐれに咲き出すかも。
「また、逢ったね」って。
<おしまい>