Piece 14 「現と幻を行き交う、ホタルの光」
ホタルの光は、魂の分光。土地に根付いていた、心優しき精霊が、ヒトに追いやられて水元を辿って根源へと還るという幻想。
ホタルはしめやかに、その疲れきった魂のかけらをその小さな身に集めて、何処かへと静かに運ぶ。中空を漂う、精霊流し。
わたしがまだ幼い頃、夜の田んぼには、漁火のようにかすかな明かりが点在していて、ときに小さな妖精が一斉に演奏しているのだと思ったりもした。迷いホタル。家の中にも、まれにひとつふたつ、小さな明かりが迷い込んできた。
今は、水は枯れて、また濁り、草葉が揺れてもそこに揺らめく明かりは無い。これが山奥ならば、まだいくつか見て取れるだろうに。わたしが大人にもならないうちに、彼らは里から姿を消していった。彼らの季節が巡ってきても、いつしか姿を見せないのが当たり前となって、わたしは気落ちするでもなく、いつの間にその個体数が目減りしていったものなのか、または一斉に奥地に引っ込んでいったものなのか、そんなことすら記憶に無くなっていた。
わたしといっしょに、でも、なんだか悲しいことを言いながら、あの川岸で、どこかへ向かうホタルの群れを眺めていたシュウちゃん。彼も、いったいいつの間に居なくなったのか、わたしの幼い頃の記憶には、その当時観ていたアニメの初回のストーリーくらいに判然としない。
転校生でもない、もちろん、ほかの友達の記憶にも存在しない、ザシキワラシみたいなシュウちゃん。それでも、わたしと祖母だけは、なぜかシュウちゃんを憶えていた。いつも保育園に行くのを嫌がっていたわたし。祖母はそんなわたしに困るふうでもなく、一人っ子で遊び相手のいないわたしのわがままをきいてくれていた。
そのうち、裏の田んぼの畦道を辿って、いつしかシュウちゃんっていう、当時のわたしと同じくらいの年の男の子が遊びに来るようになった。裏庭で、一人遊びしているわたしのところに、決まって夕方からのほんの数時間ほどだろうか。わたしが外にいるときに限って、ひょっこり現れる。
わたしの思い出の中では、シュウちゃんはいつもだらんとしたランニングシャツをたるませて、短パンにサンダル履きだったような。それというのも、シュウちゃんと会っていたのは、ある夏の短い間だけだったからなのか。
共働きの両親は、いつも帰りが遅い。それまで、いつも祖母と二人。だから、シュウちゃんがたまに加わると、早めの楽しい夕食になっていた気がする。シュウちゃんとは、どんなこと、話していたんだっけ。ザシキワラシみたいなシュウちゃんは、ふざけたマネが大好きで、よく猿のマネして笑わせてくれてた。
そんな、ひょうきんな姿と相対する、いつかの夏、最後の晩の、ホタルの行列を見送る表情。確か、シュウちゃんは悲しい顔して、あの頃のわたしにはまだむずかしかったような言葉を、ぽつりとつぶやいて、それっきり訪れなくなったんだ。
川面を滑るように大挙して、いずこかへ静かに移動していったホタルの群。シュウちゃんはあの群の中に、ひっそりと紛れてくっついていってしまったのかもしれない。
そうして、祖母も、実はシュウちゃんが何者なのか、知っていたのかもしれない。でも、それをわたしに語ることなく、祖母は他界した。
それから、生活の変化を幾多も経ながら、わたしも成長していき、何気ない雑多な生活の喧噪にもまれるようになるにつれ、記憶の最下層の部分は沈殿したままとなって、時を止めていた。一人遊びが好きだったわたしも、そのへんの誰それと変わらない生活を送るようになると、都会の片隅の、いつしか小さな家庭でささやかな生活を営んでいる。人並みの悩みを抱えながら。
とある初夏の宵、わたしはダンナとふたりで、庭園が美しい近所の大学のキャンパスへと、納涼の催しに出かけた。そこには、小さなビオトープがあり、たくましい生態系が宿り、経年で育まれたホタルの生息が確認できるという。
風の静かな、初夏のほの暗いキャンパスの湖沼にちらほらと、行き先を迷うようにして、かすかに明滅する小さなランプ。間違いなく、ホタルが息づいていた。
そのことに、わたしはダンナの腕にしがみつきながら、なんだかジンと胸の内から気持ちを呼び起こされるものに、耐えるつもりで涙をこらえていた。いのちのかがやき。つぶやくと、なんだかたいそうな響きだが、思わず口をついてでたその言葉に、ダンナも優しくうなずいた。
しばらく二人で眺めていると、いつしかわたしたちの周りに輝きが集まりはじめて、ちょっと照れくさい演出になってきた。あれれ、彼らはなにかに引き寄せられているのかな。
ながらく子どもを授かることの無かったわたしの、うっすら膨らんだおなかに、いたずらにホタルが一匹止まった。祝福するように、話しかけるように、優しく、そして小さな呼吸に合わせるように、ゆったりとその明かりを瞬かせて、安らいでいる。
なんだ、きみらふたり、ホタルに好かれたね、と隣のダンナが、わたしとおなかの子に、そして小さな来客に微笑んでいる。
この瞬間、わたしは幼い頃のおぼろげな優しい記憶を、あふれるように思い出していた。わたしには、シュウちゃんがお祝いしに来てくれたんだってことが、ちゃんとわかった。
お友達になりたいって、このコが言ってるよって、ダンナに言ってみたら、優しく笑ってくれたけど、彼にもやっぱりシュウちゃんの姿は見えない。わたしにも姿は見えないけど、気持ちがつながった気がしていた。
シュウちゃんの優しさが、わたしの住むこの街にも溢れていくと、きっといいのになあ。
ぼんやりそう思ったら、池の端の草葉の陰から、これまで恥ずかしそうに身を潜めていた仲間達が、賑やかに飛び出していった。
ふわふわと、ちらほらしていた小さな揺らめきが、みるみる重なって、遠い街の明かりを打ち消していく。きらきらと天に昇る前兆の神々しさを伴って、たくさんの親子連れの歓声を受けながら、まるで楽しげに舞っていく。
ビオトープの周りでは、みんながあんぐり。
わたしのおなかにとまっていたシュウちゃんみたいなホタルも、じゃあねって、あのときとはまるで違う、にこやかな笑顔をほんのり浮かべたかと思うと、先に行くみんなを追いかけて飛び立った。
すごいいっぱいいたんだね、とダンナが感嘆している横でわたしは、いっしょだとさみしくないんだよね、とその姿を見送っていた。あのとき、哀しげな顔して別れたのとは違う気持ちで、今度はちゃんと手を振っている。でも、シュウちゃんとは、また逢える気がする。そして、あんなに、仲間もいたんだね。
よたよたしてたり、ふざけあってるみたいに宙を漂う。あはは、みんな恥ずかしがり屋さんだから。星に還る前に、たくさん遊んでいくんだよ。
<おしまい>