幼馴染を乗せるなら、結婚しません
花嫁の馬車が、花嫁抜きで出発しようとしていた。
ネリスカは玄関の石段を下りた。白い裾を侍女のケスナが抱え直す。車の扉に手をかけたフラントは、彼女を見ると気楽に笑った。
「ペトラを乗せて叔母上のところまでひと回りしてくる。君は待っていてくれ」
「これで、ですか?」
白い車輪にも扉にも花が飾られている。昨日、ネリスカ自身が選んだ花だった。
隣家の令嬢ペトラはすでに窓際へ座り、座席の白い布を指先で撫でていた。
「一度乗ってみたかったのよ。叔母様に見せて戻るだけですもの」
「お宅の馬車はどうなさいましたの」
「玄関にあるわ。でも、あれはいつもの車だし」
フラントとペトラは幼馴染だった。隣り合う家で育った二人は、成人してからも互いの家に出入りしている。
今日も彼女は花嫁を見に来たのだという。それで、こちらの花嫁が出てくる前に乗ってしまったらしい。
ネリスカはフラントを見た。
「今日はわたくしの結婚式です。この馬車で一緒に行くお約束でしたでしょう」
「帰ってくるって。叔母上の家まではすぐそこだよ」
「嫌です。今は行かないでください」
ケスナが顔を上げた。
フラントは少し困ったように笑う。その顔を見て、ネリスカはもう一度言った。
「わたくしと礼拝堂へ行ってください」
「君なら待てるだろう。ペトラを置いていく方が可哀想じゃないか」
ペトラは車内で頷いた。
「お式が始まったら、こんなお願いできないもの。今だけよ」
今だけ。
婚約をしてから、それはよく聞く言葉だった。だから今日は言っておこうと思っていた。白い服を着て、皆の祝福を受ける日ぐらいは。
きちんと言った。それでも、彼の手は車の扉にかかったままだ。
御者がフラントを見ている。乗るのか降りるのか、指示を待っていた。
「フラント様、出発させないでください」
ネリスカの言葉に、フラントは溜息をついた。
「そんなに大げさにしないでくれ。出してくれ」
最後は御者への命令だった。
扉が閉まる。車輪が動く。白い花を揺らしながら、馬車は彼女の前を通りすぎた。
ペトラが窓から手を振った。
ネリスカは振り返さなかった。歩道へはみ出した裾を拾い、門の外へ消える車を見る。
「お嬢様、お屋敷の馬車を回していただきましょう」
ケスナは裾をきつく抱えていた。
「ええ。でも、あの方を迎えには参りませんわ」
自分の声が思いのほかよく通った。
花嫁のための車は角を曲がり、見えなくなった。
父のウルバンは玄関へ出てくると、娘の姿を見て眉を寄せた。
「どうした。フラント殿は?」
ネリスカは起きたことを話した。彼女が引き止めたところも、相手がそれを聞いてから出発させたところも、省かなかった。
父はしばらく門の方を見ていた。
「すぐに戻るのだろう」
「戻られても、わたくしは結婚いたしません」
「ネリスカ」
父の声が低くなった。
「そんなことを言うものではない。先方のお父上も、もう礼拝堂においでだ。お客様も集まっている。お前も行って、二人を待ちなさい」
「結婚しないとお伝えするためでしたら参ります」
「馬車のことだけで、家同士の約束を壊すのか」
「わたくしを置いていかないでほしいと、お願いしたのです」
父は白い車輪が残した跡を見下ろした。
冬の終わりの庭には、まだ花壇を掘り返した土が見えている。そこへ新しい苗を植える手配まで、ネリスカは済ませてあった。自分が嫁いだ後も綺麗に咲くように。
「家を出れば、お前の思い通りにならないこともある」
「ええ。ですから、嫌なときはお話しするつもりでした」
「なら、後で話せばよい」
「今お話しして、聞いていただけませんでした」
同じことを言い続けるのは、思っていたより疲れる。
ケスナが一度持ち直した裾を、また持ち上げた。朝からずっと彼女に抱えさせていることに気づき、ネリスカも自分で端を取った。
「ほら、そんな持ち方では皺になります」
「もういいのよ」
「よくありません。綺麗なんですから」
ケスナはむっとして言った。父に向けたのか、自分に向けたのか分からないその怒りに、ネリスカは少し笑った。
「そうですわね。皺にはしたくありませんわ」
何度も試着した服だった。
袖の刺繍は小さな花。胸元に真珠を縫い、腰から裾へ白い布がゆるく流れる。着替えを終えて鏡の前に立ったときは、自分でも見惚れた。
綺麗だと思ったものを、腹が立ったからといって嫌いになる必要はない。
「お前の婚礼なんだぞ」
父が困った声で言った。
「皆が楽しみにしている。今ならまだ、行って頭を下げれば済む」
「どなたに、何を謝るのですか」
「揉め事にしたことだ。客を待たせていることも。花嫁がお前の方から迎えに行けば、先方もこちらの誠意を——」
「お父様」
ネリスカは白い裾を持ったまま父を見た。
「わたくしは、まだ誓っておりません」
礼拝堂で互いの意思を告げて、夫婦になる。父も母も、そうして結婚した。
まだ夫婦ではない。フラントの妻として我慢しなさいと言われる前だった。
「嫌だと思ったまま誓うことはできません。司祭様に中止をお願いいたします」
父の口が一度開き、閉じた。
「……本当にやるのか」
「ええ。お客様にはわたくしからお詫びいたします」
誰かが代わりに説明してくれるのを待つと、いつの間にか自分が待つと決めたことになる。ここでさえ、父はそんな顔をしている。
今日はもう、待たないと自分の口で伝えなくてはいけない。
家族用の車を待つ間、ネリスカは玄関の長椅子に座った。
ケスナが膝へかけた布を広げてくれる。窓の向こうでは、披露宴用の椅子が運び込まれていた。
あれは婚約記念の園遊会のときだった。
ネリスカは会のために焼いた菓子を、庭の卓へ運んだ。料理人に教わりながら焼いたものだったから、形は少し不揃いだった。
「焼けましたわ。フラント様、よろしければ——」
「よかった。これを皆に配ってくれるか」
彼の隣にはペトラが座っていた。ネリスカの席へ、いつの間にか。
「ペトラが靴擦れをしてしまってね。しばらく座らせてやりたいんだ」
「では、椅子をもう一つ」
「君は立っているだろう。ちょうどいいじゃないか」
ペトラは菓子を一つ取り、かじった。
「美味しい。残りも焼いてきてくれる?」
足元には歩きやすい靴があった。それに履き替えて座ることもできるはずだったが、二人ともこちらを見ている。
ネリスカは空いた席を探す代わりに、菓子の皿を持ち直した。
「では、皆様のお席を回ってまいります」
戻ったときにも、席は空かなかった。
婚約を祝う言葉に立ったまま礼を返し、皿が空くと次を持ちに行った。食べてみたいと言ってくれた客は皆親切だった。けれど自分の菓子を、自分は一つも食べられなかった。
誰も意地悪をしている顔ではなかった。それで、怒るほどのことではないと思おうとした。
最初は違っていたのだ。
婚約が決まって初めて家へ来た日、フラントは約束より早く着いた。ネリスカが庭にいると聞いて、そのまま土の道を歩いてきた。
「種を蒔くのか。手伝おうか」
「お召し物が汚れてしまいますわよ」
「構わないよ。何を蒔いているんだ?」
隣へしゃがんでくれたことが嬉しかった。花の名前を教え、芽が出たら見に来てほしいと頼んだ。
あの日に彼が踏んだ土の色まで覚えている。
「お嬢様、車が参りました」
ケスナの声で顔を上げた。
窓の外にいるのは家の御者で、フラントではない。ネリスカは立った。
「お父様もご一緒されますか」
父は黙って帽子を取った。
礼拝堂に到着すると、司祭のオズモが戸口まで出てきた。
「花婿様は先にいらしたのでは?」
「いいえ。わたくしからお話がございます」
集まった客がこちらを見る。
ネリスカは父の腕を取らずに階段を上がった。中へ通されると、司祭へ事情を伝えた。
「本日の結婚式を取りやめたいのです」
オズモは父を見ずにネリスカへ尋ねた。
「お二人でお話をされるお時間は、必要ありませんか」
「今朝、お願いをいたしました。それでも出発されましたので、わたくしはもう結婚を望んでおりません」
「お気持ちは決まっていらっしゃるのですね」
「はい」
司祭は静かに頷いた。
「承りました。まだ誓約は行われておりません。本日の式は取りやめます」
父が息を吐いた。何か言いたげだったが、ネリスカは客の方へ向いた。
親しい友人も、遠方から来てくれた親戚もいた。皆、自分たちを祝うために着飾ってくれている。
これからその人たちへ、帰ってほしいと言う。
「お忙しいところお越しくださった皆様に、申し訳ないお知らせがございます」
膝の辺りが少し震えた。スカートの下で誰にも見えなくても、自分には分かった。
「本日の結婚式は中止いたします。わたくしはフラント様と結婚いたしません」
ざわめきが広がった。
「喧嘩をしたの? ご本人は?」
「お加減が悪いわけではないのですね」
「もう少し待ってみたらどうか」
一つずつ、ネリスカは答えた。具合は悪くないこと。自分の意思で中止すること。相手が戻るのを待ってから決めるつもりはないこと。
自分から朝の出来事を大声で広めたいわけではなかった。けれど聞かれれば、なぜ結婚しないのかは話した。
フラントの父親が近づいてきた。花婿がまだ来ていない事情を知ると、口元を険しくした。
「息子が戻り次第、私も話を聞きます。お嬢様、今はこちらでお待ちになってください」
彼はネリスカの父へ向かい、後ほど改めて話すと言った。ネリスカに中止の撤回は求めなかった。
列の後方で杖が床を擦った。足の悪い親戚の老婦人が立ったまま、戸口へ向かう人を避けていた。
ネリスカは近くへ歩み寄る。
「こちらへお掛けになってくださいまし。帰りの車を呼んでまいります」
「いいのよ、あなたの大変なときに」
「座って待っていただく方が、わたくしも安心ですわ」
置いてあった椅子をケスナと一緒に寄せる。老婦人が腰を下ろしてから、ネリスカは家の従者へ車の待機場所を尋ねた。
帰る車が分からずにいた客にも、従者を呼んだ。家族の馬車は自分たちを降ろした後、近くの車寄せに並んでいるという。
「ケスナ、あのお席の花を外していただける?」
礼拝堂の前方には、花嫁の座る席が用意されていた。
「お家に持ち帰りましょう。せっかく綺麗にしてくださったのですもの」
椅子を空けておくと、戻ったら座るよう言われそうだった。自分の席の花を片づけてもらうと、やっと中止が形になった気がした。
「御者が勝手に車を出したわけではございません」
ネリスカは客とのやりとりを終えた後、フラントの父へ伝えた。
「わたくしは止めておりましたが、フラント様が出発をお命じになりました」
「分かりました。まず息子から聞きましょう」
それ以上、彼女は重ねなかった。
誰かの仕事を失わせるために、ここまで来たのではない。結婚しないことを伝えに来た。その用はもう、済んでいる。
礼拝堂隣の控室で、ネリスカのお腹が鳴った。
扉の近くにいた青年がこちらを見た。黒い髪を短く整えた、見知った顔だった。
「ネリスカ。腹が減っているのか」
「そのようですわ」
認めると、ロデリクは少しだけ笑った。
子爵家の次男で、学園の同級生。婚礼にも招待していた。久しぶりに会った旧友に聞かせる音がこれかと思うと、自分でも可笑しい。
控室には式の前に家族がつまめる軽食が運ばれていた。伯爵家の使用人が父へ尋ね、残っている同窓の友人たちにも分けてよいことになった。
ネリスカは椅子に座り、空の皿を手に取った。
「鶏肉は食べないのか」
「食べますわ。大好きですもの」
「では、なぜ皿が空なんだ」
彼女は自分の袖を持ち上げた。
「肉汁が飛んだら困りますでしょう。せめてこの服は綺麗なまま持ち帰りたいのです」
ロデリクは鶏肉と袖を交互に見た。
「上着を貸そうか」
「着替えではなく、お皿の上で小さくしていただけると助かります」
「ああ、そっちか」
彼は自分の皿に肉を取り、骨から外し始めた。ネリスカはパン籠を寄せる。彼がさっきから探していた小さな丸パンを見つけ、その皿へ置いた。
「そちらがお好きでしょう」
「どうして覚えている」
「学園でいつも他のパンと交換していらしたもの」
「まだ交換相手をしてくれるのか」
「お肉の量によりますわね」
彼が真剣に皿を見たので、ネリスカは笑い出した。
その笑いが収まらないうちに、外から馬車の車輪の音がした。
礼拝堂の階段を、フラントが駆け上がってきた。
父が呼びに来たので、ネリスカも控室を出た。
「ネリスカ! どうして客が帰っているんだ。馬車を待っていろと言っただろう」
彼の後ろには白い馬車があった。ペトラが窓から顔を出す。
ネリスカのために選んだ花飾りが、その窓の上で揺れていた。
「結婚式を取りやめました」
「少し遅れただけだろう。今から始めればいい」
胸が嫌な音を立てた。父が何か言う前に、ネリスカは手袋を外した。
「今朝、行かないでくださいと申し上げました。聞いてくださらなかったでしょう」
「だから帰ってきたじゃないか」
「ええ。ですが、もうあなたとは結婚いたしません」
フラントの口が半開きになった。
「……それは、僕が帰ってこないと思ったからだろう」
「帰ってこられることは伺っておりました」
「だったらどうして」
「行かないでと申し上げても、行ってしまわれたからです」
ネリスカは汗で湿った指を白い手袋に押しつけた。
こんなふうに説明するために、今朝着飾ったのではない。
「ペトラが叔母上に見せたいと言ったんだよ。立ち話が長くなったのは悪かった。でも、今日ぐらい彼女に良い思いをさせてやりたかっただけだ」
「わたくしの結婚式は、今日なのです」
花が揺れる。冬の終わりにも手に入る白い花を、店と相談して揃えた。車を止めたときに自分の顔の近くへ来るものを、一つずつ選んだ。
あの窓を自分が開け、祝ってくれる客へ手を振るつもりだった。
「それなら後で、好きなところへ連れていくよ」
ネリスカは首を振った。
「どこかへ連れていってほしいのではありません。今朝、一緒に行きたかったのです」
父が顔を覆った。その父へ、ネリスカは向き直った。
「家へ帰ります。お父様の馬車に乗せていただけますか」
父は手を下ろした。娘の白い袖を見てから頷く。
「迎えに回させよう」
従者が車寄せへ走っていった。
ペトラが慌てて馬車を降りた。白い車に似合うと思ったのか、彼女も明るい色の服を着ていた。
「わたくし、少し乗ってみたかっただけなのよ。そんなに嫌なら最初から言ってくれれば」
「聞いていらしたでしょう。今朝、玄関で」
ペトラの口が閉じた。
御者が帽子を胸へ下ろした。彼も玄関にいた。ネリスカを見て、短く頭を下げる。
返事は要らなかった。聞いた人がいたことを知っている。
「こんなことをなさったら、あなたも困るでしょう」
ペトラが声を落とした。
「一人だけ怒って式をやめたなんて、皆様にどう思われるか」
「皆様には、わたくしからお伝えしました」
「でも、そのお服だって」
「気に入っていますわ。帰ったら綺麗にして、しまっておきます」
ペトラはネリスカの袖を見た。
フラントが何か言いかけたが、ネリスカは自分の握った手袋へ視線を落とした。
指が汗で濡れていた。今日ぐらいは大事にしてほしかったのだ。それをもう一度頼む気にはなれなかった。
「僕の妻になるんだろう。これぐらいのことで」
ネリスカは彼を見て、首を振った。
「なりません」
礼拝堂の戸口で、司祭が結婚の誓いに使う本を閉じた。
「花嫁が望まれない以上、式はできません」
「話し合えば分かる。二人で話をさせてください」
フラントは司祭へ向かって言った。
ネリスカはその横顔へ答えた。
「今、お話ししております。わたくしは結婚いたしません」
彼がこちらへ顔を戻した。
オズモは本を脇に抱え、戸口から退いた。中へ急いで入る理由は、もうなかった。
ネリスカは握っていた指をほどいた。
もう返事を待たなくていい。そのことに気づくと、こわばっていた肩が少し下がった。
迎えの馬車が着いた。
白い車は少し先に止まっている。家の御者が開けてくれたのは、昔から乗っている茶色い扉だった。
ネリスカは自分から石段を下りた。
フラントが名前を呼んだ。
立ち止まって振り返ったが、もう一度同じことを尋ねられそうな顔だった。
「お話の続きは、家でいたします」
彼女は茶色い車に乗った。ケスナが裾を中へ収め、扉が閉まる。
今度は、ネリスカが座ってから車輪が動いた。
帰宅してから、伯爵家の応接室で両家が顔を揃えた。
「結婚式を取りやめた上で、婚約も解消いたします」
ネリスカはフラントへ告げた。
彼は膝の上で手を組んでいた。礼拝堂では何度も言葉を重ねてきたが、今は顔を上げるだけだった。
「……分かった。婚約は解消する」
「ええ」
ネリスカが答えると、先方の父が二人の返事を確かめた。
「では、婚約の解消として両家で整理を進めましょう」
父も頷いた。
「費用は家令に確認させます。当家で用意した分をまとめてお送りしましょう」
「承知しました。こちらも手配した分を揃えます」
その話は父たちへ任せた。ネリスカは白い袖を膝から持ち上げ、席を立った。
フラントが去ってから、ネリスカは父と二人で残った。
「後悔しないのか」
「今日のことを思い出して嫌になる日は、あるかもしれません」
白い服を見る。長く座っていたので、少し皺になっていた。
「でも、結婚すればよかったとは思わないでしょう」
父は何も言わなかった。
「お相手に頭を下げて迎えに行くよう言われたことも、わたくしは嫌でした」
口にすると、父が顔を上げた。
「お客様のことは、わたくしも申し訳なく思っております。けれど、そのために結婚はできません」
「……今日は疲れただろう。休みなさい」
「ええ。このお話は、また今度お願いいたします」
謝罪はなかった。だから仲直りをした顔はしなかった。
父が娘を帰してくれたことと、父が彼女に求めたことは、同じ一日のできごとだった。片方だけになったわけではない。
部屋に戻るとケスナが待っていた。
ほどいてもらった衣装を、ネリスカは自分の膝から持ち上げる。袖の刺繍へ顔を寄せると、朝と同じ小さな花が並んでいた。
「どこも染みになっておりませんわね」
「ええ。綺麗です」
「よかった」
それだけは素直に嬉しかった。
ケスナは白い服を両腕に受け取り、寝台の上へ丁寧に広げた。
「お食事はいかがなさいますか」
「いただきます。お腹が空きましたもの」
「お昼にも召し上がったのでしょう?」
「途中でフラント様が戻ってこられたのよ」
ケスナが唇を結んだ。笑いをこらえた顔だと分かって、ネリスカも口元を緩めた。
「それで、夕食は何かしら」
「鶏肉の煮込みがございます」
「でしたら、骨から外さなくて結構よ」
楽な普段着に袖を通して、ネリスカは椅子へ座った。
婚約解消の知らせを出すと、家には慰めの手紙が届いた。
その中に、同窓の友人から昼食の誘いがあった。気兼ねなく来てほしいと書かれている。ネリスカは一度文面を読み、返事を書いた。
行きたいと思った。だから、行くことにした。
当日、席に着いたところでロデリクと目が合った。
「肉は食べられたか」
「おかげさまで。今度はちゃんと最後まで」
「それはよかった」
それきり彼は婚礼の話をしなかった。皆も、無理に明るい話を探すようなことはしない。
学園の教師が相変わらず生徒の名前を間違える話や、友人が初めて馬に乗って足を痛めた話になった。
やがて誰かが学園の記念祭の歌を口ずさんだ。
「懐かしい。何の祭りでしたっけ」
「君が歌詞を間違えたときのだろう」
ロデリクが言ったので、ネリスカは杯を置いた。
「歌詞を間違えたのは、わたくしではなくてあなたです」
「まさか。俺はちゃんと覚えている」
「では、歌ってくださいまし」
ロデリクは咳払いをしてから、小さな声で歌い始めた。
途中までは懐かしい歌だった。けれどそこから別の歌になった。
「その次は橋を渡るのでしょう?」
「いや、森に入る」
「橋はどこへ消えましたの」
「君の方こそ森に来てくれ。ずっと迎えに行けない」
ネリスカは卓に手をついて笑った。給仕が菓子を運んできても、しばらく返事ができなかった。
「では橋を架けますわ。森から出てきてくださいまし」
「先に歌を思い出した方が早いと思う」
近くの席にいた同窓の女性へ確かめると、二人とも間違っていた。
正しい歌の中では、橋の上から森を眺めていた。渡りもしないし、森にも入らなかった。
「お二人とも、あれほど練習をしたのに」
友人が呆れた声で言った。
「わたくしは間違えたのではなくて、少し先を歌っていたのですわ」
「では俺は、慎重だったということだな」
二人で言い訳をすると、周囲から余計に笑われた。
帰り際、ロデリクが戸口で外套を着ていた。
「今度、歌詞を調べておく」
「ええ。もう一度お確かめになって」
「君もな」
ネリスカは笑って頷いた。
さっきの肉の話からずっと、くだらないことで言い合っている。自分の機嫌を取り繕わなくていいし、彼の機嫌も悪くならない。
「今度はあなたのお好きなパンを、わたくしが覚えているかどうかもお確かめになったら?」
「そこは信用している」
「歌よりも?」
「歌よりも、ずっと」
彼は真面目な顔だった。
その顔が可笑しくて、ネリスカはまた笑った。
それからも、ネリスカは友人たちとの食事に出かけた。
ロデリクと隣の席になることもあれば、離れて座ることもあった。彼が帰る前には、つい話し足りない気がして呼び止めた。
春になり、集まりの後で庭を歩く日が増えた。
あるとき彼は、待合せに遅れるかもしれないと使いを寄越した。家の来客がまだ帰らないのだという。
ネリスカは友人の部屋で茶を飲み、彼が来るとすぐに時刻を尋ねた。
「次にご用事がおありでしたら、先におっしゃってくださいまし」
「今日はない。あとは君たちと過ごすつもりだ」
彼の言葉を、全部疑いたくはなかった。待つこと自体が嫌いになったわけでもない。
それでも先に確かめてしまう自分に気づき、ネリスカは少し口を結んだ。
ロデリクは腰を下ろす前にこちらを見た。
「連絡が遅かったか」
「いいえ。知らせてくださって助かりましたわ」
「間に合ってよかった。君に渡すものもあって」
彼が出したのは学園の祭りの歌詞だった。
昔の冊子を探し出したらしい。ネリスカが受け取って一節読んだところで、橋の上から動かない歌だったことを思い出した。
「……森へ入る必要はございませんでしたわね」
「助かった。ずっと森にいるところだった」
笑って読み直すと、彼が自分の隣へ座った。
こんな話なら、いつまでもしていたかった。
庭の木に新しい葉が揃った頃、ロデリクが会いに来た。
以前と同じように茶を飲み、話をしていたのに、今日はやけに姿勢がいい。ネリスカが空いた皿を下げてもらっている間、彼は杯を置いたり持ったりしていた。
「お茶がお口に合いませんの?」
「いや。美味しい」
「でしたら、どうぞ冷めないうちに」
彼は一口飲んだ。そして杯を置いた。
「今度の日曜に出かけないか」
「お誘いですの?」
「そうだ。友達と皆で、ではなくて」
ネリスカは彼の顔を見た。
彼が使用人の遠ざかる方を見てから、こちらへ向き直った。
耳の辺りが熱くなった。冗談にして逃がさないよう、姿勢を正す。
「でしたら、わたくしもそのつもりで参ります」
返事が早すぎたのか、彼が息を詰めた。
「少し考えてくれてもいいんだぞ」
「もう考えましたわ。何度もお会いしているのですもの」
並んで歩く日には、帰りの門が見えると残念に思った。話をする相手がたくさんいても、彼の声が聞こえるとついそちらを見た。
次も隣で食べられるだろうかと、席順まで気にしていた。
自分が好きな相手のことぐらい、自分で決めたい。
「わたくしは、あなたとお話ししているのが好きです」
伝えると、彼はしばらくこちらを見ていた。
「……俺もだ。学園の頃から、ずっと」
ネリスカは膝の上の指を止めた。
「あの頃から?」
「でも、君には婚約者ができたから」
ロデリクはそこで口を閉じた。
「今もすぐ誘うつもりではなかった。ただまた皆でと言っていると、いつまでも言えない気がして」
「ええ。ちゃんと伺えて、よかったです」
婚礼のことを忘れたかと聞かれたら、まだ忘れられない。白い服も、窓から振られた手も覚えている。
けれどその思い出のために、今の返事まで取りやめたくはなかった。
「では行き先を決めましょう。わたくしは動物市に行きたいのです。春の仔馬が来ていますでしょう」
「分かった。昼前には着こう」
「ゆっくり歩ける靴にいたしますわ」
ロデリクが頷いた。
その横顔を見ていると、彼と二人で歩ける日曜が急に楽しみになった。
「お昼もご一緒してよろしいの?」
「もちろん。そのつもりだ」
「鶏肉の美味しいお店でしたら存じております」
彼が笑った。
「また切り分けようか」
「いいえ。今度は自分で。普段のお服で参りますもの」
「では、パンは君に任せる」
ネリスカも笑って頷いた。
見送りに玄関まで出ると、彼は石段の下で足を止めた。まだ話し足りないのは、彼も同じらしかった。
ネリスカは隣まで下りて、その腕へ自分の手を添えた。
「門まで、ご一緒しても?」
ロデリクは嬉しそうにこちらを向いた。
「どうぞ」
二人は少し寄り添って歩き出した。
日曜に二人で出かける約束を、今、交わしたところだった。




