婚約破棄された加護なし令嬢、前世の知識で絶品あったかご飯を作ります
婚約破棄された加護なし令嬢、前世の知識で絶品あったかご飯を作ります~無理矢理嫁がされた極寒の隣国で、皆から恐れられる【狂犬皇子】が、毎食おかわりを要求して離してくれません【連載版はじめました!】
本作は短編です。連載版は下記リンクなどから!
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シャンデリアが照らす王城の大広間。
王家主催の夜会の空気は、王太子【マナヤ】の鋭い声によって凍りついていた。
「レティシア・フォン・グランヴェル……お前との婚約を、本日をもって破棄させてもらう!」
広間の中央に立つレティシアは、自分に向けられたその言葉を、静かに受け止めていた。
マナヤの腕の中には、大国ゲータ・ニィガにおいて百年に一人の逸材と謳われる『聖女』カスミィが、怯えた小動物のように身を寄せていた。
しかし、その口の端がにやりと吊り上がっていることを、レティシアは見逃さなかった。
「この世界に生まれた者は皆、等しく女神からの祝福――『加護』を授かる。それが世界の常識だ。しかし、レティシアには何の加護も宿っていなかった。加護を持たないということは、すなわち魔力を持たない無能の証! 無能はこの僕に相応しくない!」
マナヤが婚約破棄の理由(至極個人的なものであるが)を、周囲の貴族たちにはっきりと聞こえるよう声高に告げている。
【本来】であれば、彼女はその『加護なし』という強烈なコンプレックスから性格をひどく歪ませ、聖女カスミィをいびり抜き、やがては無惨な破滅を迎える悪役令嬢となる……はずだった。
そう、ここが恋愛シミュレーションゲーム『ホーリィ・プリンセス』の世界であるという、前世の記憶を彼女が持っていなければ。
(あぁ……やっと、この時が来たのね)
レティシアは内心で、安堵の深呼吸をした。
(ここまで……長かったなぁ)
幼少期に高熱を出した際、彼女は自分が「趣味は美味しい料理と食べ歩き」という、ごく普通の日本人女性であった記憶を取り戻した。
そのおかげで、加護を持たないという事実にも絶望することなく、ただ「美味しいものを作って穏やかに生きたい」と願うようになっていたのである。
(でも、公爵令嬢だし、次期王妃になる身だからって、自由に色々できなかったのよね)
厨房に近づくことすら、「高貴な身分にふさわしくない」と禁じられ続けてきたのだ。
「聞こえなかったのか、レティシア! 加護も持たぬ無能な女など、次期王妃にはふさわしくないと言っているのだ!」
沈黙するレティシアを前に、マナヤはいら立ちを隠そうともしなかった。
泣いてすがり、許しを乞う姿を期待していたのだろう。だが、レティシアの心中に渦巻いていたのは、絶望でも悲哀でもなく――。
(これで憎き王妃教育から解放されるわっ)
歓喜。ただそれだけであった。
今すぐにでも踊り出したい衝動を、公衆の面前であることを理由にぐっと堪える。
レティシアは淑女の鑑のように美しい所作で、そっと目を伏せた。
「……承知いたしました、マナヤ殿下。殿下のお心のままに」
「な? なんだ……随分とあっさり受け入れるじゃないか」
「ここは泣いてすがりつくところじゃないの? 原作だとそうだったけど……」
マナヤも、そしてカスミィも、レティシアの予想外の反応に困惑している様子だった。
特にカスミィは、まるで今まで見ていた映画が途中から別の作品にすり替わったかのように、幾度も首を傾げている。
(原作であれば泣いてすがっていたのでしょうけれど、私は別に。どうでもいいし、この人のこと)
「ふん、まあいい。聞き分けが良いことだけは評価してやろう。だが、ただで済むと思うなよ。我が国の面目を潰した罰として、お前には極寒の隣国、エッゾ皇国へと嫁いでもらう。あの【狂犬皇子】ルークの元へな!」
ざわめきが、波のように広間を駆け巡る。
「エッゾのルーク皇子だって……?」
「知っているぞ、恐ろしく凶暴な皇子だってな……」
「少しでも不興を買えば、首を刎ねられるって噂だぞ……」
ルーク・E・ヴォルフシュタイン。
原作では、エッゾ皇国の第三皇子でありながら、彼もまたレティシアと同じ『加護なし』の忌み子であった。
さらには、常軌を逸した凶暴さと冷酷さを持つと噂され、【狂犬】と恐れられている男である。
(確か原作のレティシアは、ルークに殺されてバッドエンド……だったかしら)
まさしく、体よく厄介払いをするための処置であった。
「あの狂犬のもとで、一生凍えながら惨めに暮らすがいい!」
勝ち誇るマナヤを見据えながら、レティシアは凛とした声を響かせた。
「わかりました。エッゾ皇国ルーク殿下の元への輿入れ、謹んでお受けいたします」
(ゲームの設定資料には『その後、レティシアはエッゾでルークに殺された』としか書かれていなかったわね。レティシアが、何を怒らせるようなことをしたというのでしょう。裏を返せば、そういった真似さえしなければ死なないはず。それに、ルークの性格も実際にはわからないもの。噂が一人歩きしているパターンだってあるわけだし)
ゆえに、これから極寒の狂犬のもとへ強制的に送られるとしても、特段レティシアの心は揺らがなかった。
むしろ、ようやく自由に自分のしたいことができると、小躍りしているくらいだ。
(エッゾって確か北国よね。原作の設定では、北海道に近い気候だったはず。北海道ならお魚も豊富だし、ジャガイモもあるはずだし……たくさん美味しい料理が作れるわっ!)
マナヤやカスミィたちが、どれほど自分を嘲笑おうとも構わない。
これから始まる自由な生活を想像し、レティシアの足取りは、王城を出るその瞬間まで、羽が生えたように軽やかであった。
◇
レティシアに婚約破棄を言い渡した王太子マナヤは、心の中で高笑いを響かせていた。
「これでやっと、カスミィと結ばれる……。あの加護なしの無能を追い出すことができたぞ!」
八歳で行われた【加護鑑定の儀】の時点で、レティシアに加護が宿っていないことは判明していた。
マナヤは、レティシアを心底見下していた。皆が当然のように持っているはずの加護を、彼女は持っていなかったのだから。当然の感情である。
マナヤはすぐさま、父である国王にレティシアとの婚約解消を願い出た。
当初、父も自分と同じ意見であったはずだ。しかし……。
「父上は【何故か】、レティシアとの婚約はそのままとすると言い出したのだ……! 彼女は王妃に相応しい人物だと……! 加護がないんだぞ!? 意味がわからん!」
その後、いくらマナヤが国王に訴えようとも、父が頷くことはなかった。
マナヤが口うるさく進言し続けたためか、時折、国王は自ら公爵家にいるレティシアのもとを訪ねるようになった。
そして……帰城する度に、なんともほくほくとした顔で言うのだ。
『婚約解消は、無しだ。レティシアはこの国に必要だ』
「この国に必要なのは、あんな加護なしの無能などではなく……カスミィのように、力も愛嬌も兼ね備えた美しい女に決まっているだろうがっ!」
そもそも、マナヤはレティシアのことが全く気に入らなかった。加護がないこともさることながら……あまりにも愛嬌というものが欠落しているのである。
「僕は婚約者だぞ。いずれ己の夫となる男に、レティシアときたら媚びの一つも売ろうとしない。向こうからすり寄ってくることも、手をつなぎたいとねだることもない。甘えてすらこない……あいつは本当に僕のことが好きなのかと、何度腹立たしく思ったことか」
……政略結婚である以上、そこに恋愛感情が存在しないのは道理なのだが。しかしマナヤの中では、「婚約者は自分を愛していて当然」という傲慢な自負があったらしい。
ゆえに、レティシアのあまりの素気ない態度《塩対応》に、常にいらだちを覚えていたのだ。
「その点、カスミィは実に良い女だ。僕の言うことを全て肯定し、いつだって甘えてくる。……まあ、こちらの都合を考えず、やたらと僕の元へ押しかけてきては束縛したがるのが、少々鬱陶し――いや、それも可愛らしいがな」
カスミィとの出会いは、貴族たちが通う学園でのことであった。元々は平民出身である彼女。しかし、その身には類稀なる聖女の力が眠っていたのだ。
それだけではない。
「カスミィは、よく気遣いの出来る女だ。こちらが落ち込んでいる時は優しく声をかけて慰めてくれる。僕の抱える悩みだって、全てぴたりと言い当てるのだ……。まるで、こちらの心を見透かしているかのように」
……カスミィが、原作知識を用いて攻略対象を落としにかかっていることなど、彼が知る由もなかったのだが……。
すっかりカスミィの虜となったマナヤは、国王不在のタイミングを見計らい、夜会を開いて独断で婚約破棄を宣言したのである。
「レティシアはきっと、泣いてすがるはずだ……今まで愛想を振りまかずにごめんなさい、と!」
……しかし、彼女はそんな振る舞いは微塵も見せなかった。
レティシアはあっさりと婚約破棄を受け入れ、エッゾ皇国ルーク皇子のもとへと旅立ってしまったのだった。
……無論、この婚約破棄ならびに他国との婚約も、全てマナヤの一存で進めたことである。
闇ギルドから、「エッゾの第三皇子が嫁を探している」という情報を得た彼は、ならば好機とばかりに打診をし……まんまと了承の手紙を引き出したのだ。
あとは、レティシアを疎ましく思っている公爵家と結託し、計画を実行に移すのみであった。
公爵家からの入れ知恵もあったとはいえ、全てはマナヤの独断であった。
「邪魔者は消え去り、愛する女と結ばれる……! 僕は今、、人生の絶頂にいる……! はっはっは!」
……しかし、その絶頂とやらも、長くは保たなかった。
数ヶ月後。マナヤは悲鳴のような声を上げることになる。
「まずい……実にまずいぞ……!」
……勝手に行った所業が、父である国王に露見したことに対する「まずい」。
そして……。
彼はようやく気づくのである。
自分が今食べている料理が……口に含むのも苦痛なほど、とてつもなく不味いということに。
◇
エッゾ皇国は、ゲータ・ニィガ王国の北方に位置する国である。
かつて、この地はゲータ・ニィガの一部であった。しかし、一部の有力者たちが反乱を起こし、独立国家を樹立したという歴史を持つ。
エッゾは魔道具の技術こそさほど発達していないが、国民たちは皆、強靭な力を持っていた。
加護には明確なランクが存在するが、この国の民は総じて上位ランクの加護を保有しているのである。
ゆえに、大国であるゲータ・ニィガであっても、おいそれとエッゾに攻め込むことはできずにいた。
両国間には過去の遺恨が深く根付いている。だが、エッゾの側にも、ゲータ・ニィガなどにかまけている余裕はなかった。
ここは通称『試される地、エッゾ』。
気温は極低温にまで下がり、猛烈な吹雪が舞うことも日常茶飯事である。その過酷な寒さゆえに、収穫できる作物も限られていた。
さらに、エッゾにはこの厳しい環境に適応し、独自の進化を遂げた強力な魔物たちが生息している。
エッゾの軍は、そうした魔物の討伐に常に追われているのだ。だからこそ、ゲータ・ニィガというポンコツ集団を放置しているに過ぎない。
……そんな過酷極まる『試される地』に、レティシアはたった一人で放り出されたのである。
膝上まで積もった雪を掻き分けながら、一人歩を進めていく。背負った背嚢に入っているのは、わずかな食料と調理道具一式、そして簡単な着替え。それだけである。
どうやら、実家である公爵家もレティシアをひどく疎ましく思っていたらしく、婚約破棄の報告をしたその日のうちに「荷物をまとめて出て行け」と言い放ったのだ。
かくしてレティシアは必要最低限の荷物だけを持ち、エッゾへと出発した。そして、現在に至るわけである。
「エッゾって、遠いわねぇ……」
視界を埋め尽くすのは、果てしなく続く白銀の雪景色。普通の人間であれば、四方八方が真っ白なこの空間で、あっという間に方向感覚を失い迷子になってしまうだろう。
だが……レティシアには、【視えていた】。
青くキラキラと輝きながら、宙にふわりと浮かぶ……小さな存在たちが。
それは、二頭身の愛らしい姿をしていた。背中からは、きらきらと光の粉をこぼす薄羽が生えている。
彼らこそが――精霊。
確かな意志を持つ、純粋な魔力の塊である。
強大な力を秘め、人間たちに魔法の力を授け、時に絶大な力を与えて英雄へと導く存在……。
精霊は、人知を超えた奇跡の力を有している。
精霊に気に入られさえすれば、人生は勝ち組。そう断言する者がいるほどに……人間にとって精霊とは、至上の価値を持つ存在なのだ。
しかし、精霊が決して人と交わることはない。
そもそも人間の言葉を話さないうえに、精霊の姿を視認できる者など、極めて稀だからだ。
当然である。
精霊とは、意志を持つ魔力の塊なのだ。
通常、人間は視覚で魔力を捉えることなどできない。血の滲むような鍛錬を積んだ高位の魔法使いが、ようやくぼんやりと知覚できる……その程度の代物なのだ。
しかし、例外が存在する。
レティシアである。
彼女は魔力を全く持たない、正真正銘の「魔力ゼロ」の人間だ。
魔力がゼロということは、魔法も使えなければ、スキルを行使することもできない。
この剣と魔法の世界において、加護なしの魔力ゼロの人間など、到底生きてはいけない……誰もがそう信じて疑わなかった。
だが、魔力を持っていないがゆえに、彼女は特別な『体質』を宿していた。
天からの贈り物とでも呼ぶべき、特異体質を。
「ここまでの道案内、ありがとうね、みんな」
レティシアは、周囲を飛ぶ精霊たちに向かってはっきりとそう告げた。
魔力を持たずに生まれた者は、その代償として魔力に対する特別な感受性を獲得することがある。
自身の内に魔力を持たない代わりに、他者の魔力を視覚として捉えることができるという、特殊な『眼』を持つのである。
ゆえに、純粋な魔力の塊である精霊の姿を、レティシアは生まれつき視ることができたのだ。
精霊たちは人間と異なり、様々な自然の力や、独自の知識を有している。
方向すらわからなくなるこの真っ白な世界の中で、精霊たちだけが正しい道筋を見極め、レティシアをここまで案内してきてくれたのだ。
しかし、無論それは無償の奉仕ではない。
「はいはい。ご飯の時間ね」
レティシアが背嚢を下ろし、中に入っているお弁当を取り出そうとした……その時であった。
『——————!!!!!』
精霊の一匹が、鋭い警戒の声を上げてレティシアに危機を知らせた。
「魔物……?」
レティシアは瞬時に身構えた。ここは街の外、荒野の只中である。
魔物が徘徊していても何ら不思議ではない。
精霊はレティシアに対し、魔物が猛烈なスピードで接近していることを伝えていた。
「角兎ね……」
レティシアにも知識はある。角兎とは、おおよそ小型犬ほどの大きさをした、鋭い角を持つ兎の魔物である。
……それくらいであれば、精霊に愛護されている小娘一人でも、なんとか対処できるだろう。
……それが、通常の角兎であれば、の話だが。
「お、大きすぎるわ……」
眼前に姿を現した角兎は、なんと見事な二足歩行をしており、身長は優に二メートル近くに達していたのだ。
「さすがは……『試される地エッゾ』ね……。極寒の環境を耐え抜いたことで、あそこまで独自に巨大化したというわけ……」
『——————————!!!!』
精霊たちが、必死の形相でぐいぐいとレティシアの髪の毛を引っ張る。悠長に感心している場合ではない、一刻も早く逃げろと警告しているのだ。
レティシアは、背嚢の中から布に包まれた「ある物」を取り出した。
「逃げないわ……背を向ければ、そのまま襲われて殺されるだけだし……」
意を決して立ち向かおうとした、まさにその瞬間だった。
ドサッ!
「……あれ?」
あろうことか、巨大な角兎がレティシアの目の前で、うつ伏せに倒れ伏したのである。
「……貴様、誰だ?」
……倒れた魔物の向こう側、レティシアの眼前には、赤髪の巨漢が立っていた。
射抜くような鋭い目つき。燃え盛る炎のような、長い真紅の髪。
その手には、血濡れた長剣が握られている。
どうやら、この赤髪の青年が、あの巨大な角兎を一撃の元に切り伏せたようであった。
そして……。
「危ないところ助けていただき、誠に感謝いたします。私はレティシアと申します。お会いできて光栄ですわ、ルーク第三皇子殿下」
◇
……その時、ルークは二つの事実に対して、深い驚愕を抱いていた。
まず、一つ。
この極寒の地を訪れた得体の知れないよそ者が、自分の名前を知りながらも、一切逃げようとしなかったことだ。
ルークは、己につけられた不名誉なあだ名を熟知している。『狂犬皇子』。
一度暴れ出せば手のつけようがない狂犬であり、出会ったが最後、無惨に噛み殺される。
……世間からは、そのように思われているらしい。だからこそ、ルークに出くわした連中は皆、たとえ彼に命を救われたとしても、感謝の言葉一つ残さずに逃げ出していくのが常だった。
だが、目の前にいる女――レティシアは違った。
「危ないところをお助けくださり、ありがとうございます。ルーク殿下」
「…………」
(なんだ、こいつは……。逃げないどころか、俺に感謝までしてきやがった、だと……。こんなことは初めてだ。だが……)
そして、彼を驚かせたことの二つ目。
それは……。
(こいつ【も】、魔力を持っていやがらない……。まさか、俺と同じ境遇の人間が、他にもいるなんて……)
そう、ルークもまた、レティシアと同じく『加護なし』の人間なのである。
彼自身も魔力を持たないがゆえに、レティシアと同じように他者の魔力を視認することができるのだ。
だが、目の前に立つレティシアからは、魔力の波動が一切感じられなかった。
「…………」
(俺の妻になるという女が、今日あたり到着すると聞いてはいたが……。確か、レティシアという名だったか。そうか、こいつが……こいつ【も】……)
ルークは無言のまま、ゆっくりと長剣を鞘に収めた。
「……ああ。城まで案内してやる」
「あら、お優しいのですね」
「……ふん。勘違いするな。兄上から、お前を城まで送り届けるよう【命令】されているだけだ」
そう、これは命令なのだ。お願いではない。次期皇帝からの至上命令であり、いかに狂犬とて無視するわけにはいかない。
だが、命令はあくまで「送り届けること」であった。つまり、途中で見つからなかったと報告してしまえば、送り届けるという任務は完了しなかったことにできる。
いつもであれば、ルークは他人に微塵も興味を示さなかった。たとえ命令されたとしても、素直に従うことなど百パーセントあり得なかったのだ。だが……。
(こいつは……同じだからな。俺【たち】と)
「もし、殿下」
「なんだ?」
「その角兎は、どうなさるおつもりですか?」
「どう……だと? 放っておけば、すぐに他の魔物が群がって食い尽くすだろうが」
すると、レティシアは「そんな……! もったいないですわ!」と、信じられないものを見るように声を張り上げた。
「もったいない……だと?」
「ええっ。こんなに素晴らしい食材を、そのまま放置して帰るだなんて! もったいないにも程がありますわ!」
「……馬鹿か、お前は」
はぁ、とルークは心底呆れたように深いため息をついた。
「貴様は知らないようだがな、角兎の肉など不味くて食えた代物じゃない。酷く筋張っているし、牛や豚と比べても脂肪が全くついていない。焼こうが煮ようが、どう足掻いても美味くなどならないぞ」
だからこそ、わざわざ角兎を倒したところで、誰もその肉を持ち帰ろうなどとはしないのである。
「それは、単にきちんと調理をなさっていないからではありませんか?」
「調理……だと?」
「ええ。もし殿下がご不要とおっしゃるのでしたら、私にこの角兎を譲ってはいただけないでしょうかっ」
ぐぅうう……と、ちょうどその時、間の抜けた音がルークの腹から鳴り響いた。
「ちょうど良いタイミングですわ。では、今この角兎のお肉を使って、とびきり美味しいお料理を作ってごらんにいれます! それを召し上がっていただいて、もし『美味しい』と思っていただけましたら、この食材、私に譲ってはいただけませんか?」
ルークは少しの間考え込み……やがて「……まあ、やってみるがいい」とだけ答えた。
彼の中にも、純粋な興味が湧いていたのだ。
【あの人】と同じ、加護を持たない人間が、一体どんな料理を作ってみせるというのか……と。
◇
「では、まず角兎を解体いたしましょう。手伝ってくださいますか?」
「……は?」
ルーク皇子は、その緋色の瞳を丸くしていた。
「ですから、調理のお手伝いをしていただけないでしょうか」
「あ、ああ……まあ、いいだろう……。して、何をすればいい?」
「角兎の首を落としてくださいな」
「こうか」
ルークは長剣を抜き放つと、凄まじい勢いで振り下ろした。それは、常人の腕力では到底あり得ないほどの一撃であった。なにせ、剣を振るった後から、ごぉお! と風を裂く音が遅れて響いてきたのである。
「素晴らしいです! 一刀で首を落としてしまうなんて! すごい腕力ですことっ」
「…………」
なぜだか、ルークはひどく困惑しているようだった。返り血を浴びて、彼の端正な頬が少し汚れている。
「あら、お顔に血が……」
「さ、触るな!」
ばしっ、とルークが強めにレティシアの手を払いのけた。彼女は「あ、ごめんなさい。失礼いたしましたわね」と素直に謝罪するのみである。
その飄々とした態度が……ルークをさらに困惑させているようだった。
「では、解体に入りますね」
レティシアが背嚢から取り出したのは、大ぶりのナイフであった。少女が手にするにはあまりにごつすぎるそれを用いて、まず角兎の背中に刃を突き刺す。
そこから、胴を一周するように滑らかにナイフを滑らせていく。
そして、べりべり、と皮を剥いでいく。
「……信じられん。魔獣の皮は、熟練の大人であっても剥ぐのに苦労すると聞くぞ……」
「このナイフのおかげですわ」
「ナイフ……? ただのナイフではないか」
「いいえ、これは精霊の加護を受けた特別なナイフなのです」
「……………………は?」
ルークは言葉の意味を理解しきれないのか、完全に固まってしまった。
ナイフのグリップ部分には、銀色の精霊がちょこんとぶら下がっていた。
レティシアと目が合うと、「ハーイ」と気さくに小さな手を上げる。
「貴様……精霊の加護と言ったな。精霊を物体に付与するなど、聞いたこともないぞ」
「付与はしておりませんわ。ただ、お願いしているだけです。『ご飯を作るから手伝って』と」
「…………」
黙りこくってしまったルークをよそに、レティシアはサクサクと解体を進めていく。皮を剥いだ後は、喉元から肛門にかけて一本の線を入れ、内臓を丁寧に取り出す。
そして、傍らに積もっている清らかな雪を両手ですくい、それを空になった腹の中に詰めていく。
「雪なんぞ食っても美味くないぞ」
「わかっております。これは、単純に洗浄しているだけですの」
「洗浄……?」
「血やばい菌を洗い流しているのです」
「…………?」
(こちらの世界の方々って、衛生観念があまり浸透していませんのよね……)
魔法という、あまりに便利な代物がこの世界には存在する。念じさえすれば火が点き、水が湧き出てくるのだから。
『なぜ』と頭を巡らせる探求の機会が、異世界の人々からは失われてしまっているのだ。
故に、科学も学問も、地球のそれと比べるとひどく遅れをとっている。微生物学や医学の発展が阻害されているのも、全ては奇跡の産物たる魔法や加護が原因であった。
しかし、レティシアは違う。前世の現代知識を有している。だからこそ……。
「こらっ!」
ぴしゃり、とレティシアはルークを鋭く叱りつけた。彼は自身の長剣を使い、枝肉となった角兎の肉を切り取って、そのまま口に運ぼうとしていたのだ。
「生肉をそのまま召し上がるなんて! 食中毒を引き起こしたらどうなさるおつもりですかっ!」
生肉の表面には種々の微生物が付着している。焼く、煮る等の加熱工程を経ずに食せば、食中毒を引き起こす危険があるなど、現代人からすれば常識中の常識だ。
しかし、異世界人にとってはそうではないらしい。
「…………」
ルークはピタリと手を止めた。そして……口を開く。
「ショクチュウドク……今、お前、食中毒と言ったか」
「ええ。ご存じないのですか? 食べ物を……」
「いや、意味はわかる。食って腹を下す、あれのことだろう」
「あら、ご存じじゃないですか。でしたら生肉を召し上がっては駄目です。ちゃんとお待ちになっていてくださいね」
……恐れられる狂犬皇子を相手に、ズバズバと物申すレティシア。だが……ルークが怒りを露わにすることは一切なかった。
むしろ、どこか懐かしいものを見るような、穏やかな眼差しをレティシアに向けていた。
一方で、レティシアは粛々と調理を続けた。
背嚢に入っていたまな板代わりの木の板に、切り分けた赤身肉を乗せる。
そして、出刃包丁を二丁構えると、深く息を吸い込んだ。
静寂の雪原に、小気味良い音が響き渡った。
「何をしているのだ……?」
「お肉をミンチにしているのです」
「みん……ち? なんだ、それは……」
「見ての通り、刃で細かく叩き潰すことですわ。こうすることで筋繊維が断ち切られ、驚くほど滑らかで柔らかい食感へと変化するのです」
肉が粘り気を帯びてきたところで、レティシアは背嚢から数種類の野菜を取り出した。実家を去る際、厨房からしっかりと拝借してきた長葱、細かく刻んだ生姜、そして香りの強い根菜類である。
これらを肉の山に加えると、再び包丁でリズミカルに叩きながら、肉と野菜を一体化させていく。野菜の水分と香味が肉に練り込まれることで、特有の獣臭さは見事に消え去り、豊かな風味が加わっていくのだ。
「ふぅ……このくらいで良いでしょう。見事な『つみれ』の種の完成ですわ」
「……こんなぐちゃぐちゃしたもの、本当に食えるのか?」
「これで終わりではありませんよ。あ、ちょうどお鍋のお湯が沸いたようですね」
「!? い、いつの間に……」
「お腹をすかせた精霊さんたちが、手伝ってくれたようですね」
気づけば、いつの間にか傍らに焚き火が設えられていた。
鍋が掛けられ、中には水がたっぷりと張られている。
「……お前、こんな鍋を持っていたか?」
「はい。実家から持参したものですわ。あとは水と火の精霊さんが、お湯を沸かしておいてくださったのです」
精霊たちの力添えによって雪を溶かした鍋の湯が、コトコトと沸き立っていた。
彼女は手のひらで肉種を素早く丸めると、沸騰した湯の中へ次々と落としていく。
やがて、鍋の表面に灰色の泡――灰汁がふつふつと浮かび上がってきた。
「さあ、ここからが一番大切な工程ですわ」
浮き上がった灰汁を、レティシアが手際よくすくって捨てていく。
「おい……何をやっている? 肉を煮るとそれが出るのは知っているが……なぜ捨てるのだ?」
「これはお料理に苦みをもたらします。灰汁は悪! ですので捨てるのです」
レティシアは何度も何度も、根気よく灰汁をすくい捨てていく。
「……腹が減った。まだか? まだできないのか? そんなもの捨てずに放っておけばいいだろう」
「灰汁だけを丁寧に取り除けば、この上なく透き通った至高の出汁が引けるというのに……」
レティシアは木杓子を手に取り、鍋につきっきりになった。
スープをかき回さぬよう、表面に浮かび上がる灰色の泡だけを、すくい取るようにして丁寧に、何度も何度も取り除いていく。
根気強い作業の果てに、鍋の様子は劇的な変化を遂げた。
濁っていた湯は、黄金色に澄み渡った極上のスープへと変わり、丸められたつみれが、その中でふっくらと踊るように煮込まれている。
出汁の香りに、生姜と長葱の爽やかな風味が溶け合い、辺り一面に暴力的なほど食欲をそそる匂いが漂い始めた。
「さあ、仕上げにお塩で味を調えて……」
持参した岩塩をひとつまみ加え、味を見る。
レティシアの顔に、ふわりと会心の笑みが浮かんだ。
「完成ですわ。冷えた体を芯から温める、角兎特製の『つみれ汁』でございます!」
もうもうと湯気を立てる熱々のつみれ汁を木の器にたっぷりとよそい、彼女は振り返った。
ルークは度重なる理解不能な工程に若干げんなりしていたが、スープの匂いを嗅いだ瞬間、表情が一転する。
ごくり……と彼は生唾を飲むと、器を受け取り、たまらず一口啜った。
「!?」
続いて、彼はつみれを口に放り込む。
ほふほふ、と熱い息を漏らしながら咀嚼し……言う。
「……美味い。なんだ、なんだこれは……!?」
レティシアに注意された時は決してそうしなかったのだが、この時ばかりは初めて声を荒らげた。
「つみれ汁でございます」
「だから、なんだと言っている!? こんなふわふわの肉など食ったことがない! そもそも角兎の肉は筋張っていて食えた代物ではないはずだ!」
「ええ。ですので、お肉を細かく叩き刻んだのでございます」
「それに、あの酷い肉の臭みがまるでないぞ!」
「生姜などをすりつぶしたものを、お肉に混ぜ込んでおりますの。そうしますと臭みが消えるのですよ。あ、それとお体もぽかぽかしてきませんこと?」
レティシアは、待ちかねていた精霊たちにも小皿でつみれ汁をよそう。彼らは大喜びで料理を食べ、ずんどこと妙な踊りを踊り始めた。
すると……。
「あら、吹雪がやみましたわね」
「!?!?!?!?!??!!?」
ルークは器を持ったまま天を見上げ、本日何度目になるかわからない驚愕の表情を浮かべた。
「吹雪が……やむ? この過酷な時期に、そんなことあり得ないはずだ……」
「どうやら天気の精霊さんが、美味しいお料理の代金を払ってくださったようですね」
レティシアが事もなげにそう言うと、ルークは完全に黙り込んでしまった。そして……ただひたすらに、つみれ汁を啜る。
「……美味い」
「良かったですわ」
「……お前、どうやった? こんなに美味しいものを、一体どうやって? 加護もなく、そんなことができるわけないだろう」
すると、レティシアはふんわりと笑って言った。
「愛情を注げば、誰だって美味しいお料理が作れますのよ」
「……愛情……」
「ええ。まあ、出会ったばかりの女からそのようなことを言われても、ルーク殿下はお困りでしょうけれど」
するとルークは、レティシアの顔をじっと見つめて言った。
「ルークで良い。呼び捨てにしろ。俺もそうする」
「え? いや、お相手は皇族……」
「良いと言っている。二度言わせるな」
「はあ……」
ルークは精霊と一緒に、無言で鍋をつつく。最後の一滴まで平らげた彼は、ぽつりと言った。
「ごちそうさま」
と。レティシアが今度は驚く番だった。あの粗野な態度から、まさか食後にそんな律儀な言葉を口にするタイプだとは思ってもみなかったからだ。
「なんだ? 作って貰った相手への感謝を伝える言葉なのだろう?」
「え、ええ……そうですわ。よくご存じでしたね」
「ああ……。母から、教わった」
「まあ、とても素敵な御母様ですこと。いずれご挨拶せねばなりませんわね」
「……今度、墓に連れて行ってやる」
「ああ……失礼いたしました」
どうやらルークを産んだ母は、すでに他界してしまっているらしい。地雷を踏んでしまっただろうかとレティシアは焦ったが、意外にもルークの態度は落ち着いていた。
「片付けたら、出発だ。レティシア」
「はい、ルーク」
かくして、狂犬皇子と加護なし悪役令嬢は出会った。この出会いが、この極寒の国を、そしてそこに住む人々を、大きく変えていくことになるのだが……。
それはまた、別の話である。
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