「許してやりなさい」と言われ続けた令嬢が、許した回数を数えていた——千二百回
帳面を、閉じた。
革の表紙がぱたりと音を立てる。千二百行分の重みが、リーリエの膝の上でずしりと沈んだ。
日付。許した内容。許した理由。
三列に罫線を引いた帳面。最後の列だけが、最初の一行目から最後の一行目まで、一文字も書かれていなかった。
「お父様」
リーリエは顔を上げた。
メルツ侯爵家の書斎。壁一面の書棚に囲まれた父ハインリヒが、革張りの椅子から身を乗り出している。その隣にはオスヴァルトが立っていた。婚約者。伯爵嫡男。二十三歳にしては少し幼い笑みを浮かべた青年。オスヴァルト家は王宮に太い人脈を持ち、メルツ侯爵家の爵位維持にはその後ろ盾が欠かせなかった——父がこの婚約を何よりも重視した理由は、そこにあった。
「千二百回、許しました」
父が眉をひそめた。オスヴァルトが首を傾げた。
リーリエは帳面を胸に抱いたまま、静かに続けた。
「千二百一回目は、ございません」
最初の一行は、リーリエが十二歳の時に書かれた。
王都の夜会。初めての社交の場で、リーリエは緊張に震える手を必死に隠していた。淡い桃色のドレスは母が選んでくれたもの。髪には小さな銀の髪飾り。精一杯のおめかしだった。
けれど婚約者のオスヴァルトは、到着するなり別の令嬢と踊りに行った。
「お父様、オスヴァルト様がわたくしを置いて——」
「リーリエ」
父は穏やかな声で遮った。威厳のある低音。幼い頃は、この声に守られていると思っていた。
「許してやりなさい。オスヴァルト殿は若い。社交の場に慣れていないだけだ」
「……はい、お父様」
リーリエは頷いた。喉の奥が熱かった。泣きたかったのかもしれない。けれど初めての社交の場で泣くことは、侯爵令嬢には許されなかった。
淡い桃色のドレスの裾を踏まないように気をつけながら、リーリエは壁際の椅子に座った。誰も話しかけてこなかった。婚約者に置いていかれた令嬢に、声をかける者はいない。広間の笑い声が、遠い世界の音に聞こえた。
そしてその夜、自室に戻ると、引き出しの奥から白い帳面を取り出した。
日付。星暦一四二七年、赤花月十三日。
許した内容。婚約者が夜会で他の令嬢と踊った。
許した理由。
ペンが止まった。
——なぜ許すのだろう。
理由が、見つからなかった。父が「許してやりなさい」と言ったから? それは理由ではない。命令だ。
オスヴァルトが悪気なくやったから? それも理由ではない。悪気がなければ傷つけていいわけではない。
リーリエはしばらくペンを握ったまま、空白の欄を見つめていた。
やがて、何も書かずにページをめくった。
これが、最初の空白だった。
帳面の行数は、年を追うごとに増えていった。
十四歳の冬。メルツ侯爵家の晩餐にオスヴァルトの一家が招かれた日のことだ。リーリエは朝から厨房に入り、菓子を焼いた。婚約者の好む胡桃入りの焼き菓子。上手にできたと思った。
食後にそれを差し出すと、オスヴァルトは一口齧って首を傾げた。
「うーん、前に食べたヴィクトリアのお菓子のほうが美味しかったかな」
悪意はなかった。ただ正直に感想を述べただけだろう。隣に座っていたオスヴァルトのお母上が、意味ありげに微笑んだのが視界の端に映った。
リーリエは黙って菓子を下げた。自室に戻り、帳面を開いた。
日付。許した内容。許した理由——空白。
十五歳。オスヴァルトがリーリエの誕生祝いを忘れた。
「許してやりなさい。男というのは、そういうものだ」
日付。許した内容。許した理由——空白。
十六歳。オスヴァルトのお母上がリーリエを「出来損ないの婚約者」と呼んだ。
父に訴えると、目を逸らされた。
「お前さえ我慢すれば丸く収まる。波風を立てるな」
日付。許した内容。許した理由——空白。
十七歳。オスヴァルトが別の令嬢に花束を贈っているのを見た。
「リーリエは優しいから、わかってくれるよね」
オスヴァルトは無邪気に笑った。悪意がないことが、一番たちが悪かった。
日付。許した内容。許した理由——空白。
十七歳の秋。社交の席で、お母上がリーリエの刺繍を手に取り、隣席の夫人に見せながら言った。
「うちの息子にはもっと器用な方が相応しいのですけれど」
夫人たちの笑い声が広間に響いた。リーリエは膝の上で拳を握りしめた。爪が掌に食い込む痛みで、目元に滲みかけた熱をやり過ごした。
帰館して帳面を開く。インクを壺に浸し、余分な液を瓶の縁で丁寧に落とす。文字は常に同じ大きさ、同じ間隔で。感情を滲ませない。記録は正確でなければならない。
日付。許した内容。許した理由。
理由の欄にペン先を置いた。一秒。二秒。三秒。何も浮かばなかった。ペンを上げた。今日も空白。
十八歳。夜会でオスヴァルトがリーリエの名前を呼び間違えた。別の令嬢の名前で。
「そんなに怒ること? ただ言い間違えただけじゃないか」
許してやりなさい、と父は言った。言い間違いくらい誰にでもある、と。
日付。許した内容。許した理由——空白。
十八歳の春。リーリエが三日かけて仕上げた刺繍の壁掛けを、お母上の祝いにと贈った。翌月の茶会で、その壁掛けが客間に飾られているのを見た。ただし添えられた札には「ヴィクトリア嬢より」と書かれていた。
リーリエの目の前で、お母上は満足そうに客人に説明した。
「ヴィクトリアさんはこういうところが気が利くのよ」
リーリエは何も言わなかった。自分の刺繍だと主張すれば、確かめようもない。針の運び方、糸の選び方——リーリエの癖を知る者は、この場にいなかった。
帰りの馬車の中で、リーリエは膝の上で拳を握った。爪が掌に食い込んだが、もう痛みは感じなかった。
日付。許した内容。許した理由——空白。
十九歳。春の宮廷晩餐会。リーリエはオスヴァルトの隣に着席するはずだった。けれど席に着こうとしたとき、オスヴァルトが手を上げて言った。
「あ、ごめん。ヴィクトリアが隣がいいって言うから、リーリエはひとつ向こうに座ってくれる?」
リーリエは微笑んで、席を移った。ひとつ向こうの席は、端の柱の陰だった。給仕の者すら気づかず、リーリエの杯は晩餐の間ずっと空のままだった。
帰りの馬車の中で、リーリエは膝の上で指を組んだ。帳面のことを考えていた。今夜書く内容は決まっている。理由の欄も、当然——空白だ。
十九歳の夏。メルツ侯爵家に届いた招待状の宛名が「オスヴァルト様と御令嬢様」だった。リーリエの名前はなかった。社交界では、リーリエはすでに「オスヴァルトの付属品」として認識されているのだと、その招待状一枚で悟った。
父に見せると、ハインリヒは一瞥して言った。
「気にするな。先方の手違いだろう。許してやりなさい」
リーリエは頷き、自室に戻った。帳面を開き、記録した。手違いではないことは、リーリエも父もわかっていた。けれど「わかっている」と「認める」は違う。父はいつも、認めないことを選んだ。
日付。許した内容。許した理由——空白。
十九歳の秋。リーリエが風邪で寝込んでいたとき、オスヴァルトは見舞いにすら来なかった。代わりに使者が手紙を一通持ってきた。「早く良くなってね。次の夜会で一緒に踊りたいから」。リーリエは熱で朦朧とする頭でその手紙を読んだ。一緒に踊りたい、と書いてある。けれど実際の夜会で、オスヴァルトがリーリエの手を取ったことは、八年間で一度もなかった。
熱が引いてから帳面を開いた。日付。許した内容。許した理由——空白。手紙は引き出しにしまった。
百回目を超えた日、リーリエは帳面を二冊目に替えた。
三百回を超えた頃、ペンを持つ手が震えなくなった。記録することが、呼吸と同じくらい自然な動作になっていた。
五百回を超えた頃、リーリエは帳面を開くたびに理由の欄を見つめる癖がなくなった。見つめても無駄だと知っていたから。ペン先は許した内容の最後の文字を書き終えると、自然に次の行へ移った。理由の欄は通過するだけの場所になった。そこに何かを書こうとする意志すら、もう湧かなかった。
七百回を超えた頃、「はい、お父様。許します」と言う声から、感情が消えた。リーリエ自身は気づいていなかった。ただ、侍女が一度だけ、怯えたような目でリーリエを見たことがあった。「お嬢様、お加減でも……」と声をかけられて、リーリエは不思議に思った。いつも通り微笑んでいるはずなのに。
——侍女たちは、リーリエが毎晩帳面を開いていることには気づいていた。
けれど彼女たちは、それを日記だと思っていたのだ。錠のかかる引き出しに保管され、誰にも見せない帳面。令嬢が日々の想いを綴っているのだろうと。リーリエが穏やかに微笑んでいたから。従順に頷いていたから。その帳面が「許し」の記録だとは、誰も想像しなかった。
オスヴァルトも、一度だけ「最近疲れてる?」と訊いたことがあった。リーリエが「いいえ」と微笑むと、それ以上何も訊かなかった。彼にとって、リーリエが「大丈夫」と答えれば、それで十分だったのだ。
理由の欄は、千二百行すべてが空白のままだった。
千回を超えた日のことを、リーリエはよく覚えている。
季節は秋だった。王都の社交シーズン。オスヴァルトはまた別の令嬢の手を取って踊っていた。もう何度目かも数えていない——いや、数えていた。帳面に書いてある。正確に。
「リーリエ、そう怒った顔をするな」
父は隣で苦笑していた。
「オスヴァルト殿は社交的な青年だ。令嬢と踊るのは礼儀というものだろう」
「はい、お父様。許します」
リーリエはいつものように答えた。
帰館してから帳面を開き、千と七回目の記録を書いた。日付。許した内容。許した理由。
空白。
ペンを置いて、リーリエは帳面を最初のページから捲り直した。
八年分の記録。千行を超える「許した内容」。そしてその隣に、一行の例外もなく並ぶ白い空白。
——理由がないのに許し続けるのは、許しではない。
指が帳面の角を掴んだ。ぎゅっと力が入った。紙が軋む音がした。破ってしまおうか、と思った。千ページを超える記録を、今ここで全部引き裂いてしまえば——。
けれど手は止まった。破いたところで、空白は消えない。空白は、紙の上ではなくリーリエの中にあるのだから。
その夜、リーリエは初めて、帳面を抱いて泣いた。
声を殺して、誰にも聞こえないように。枕に顔を押しつけて、肩を震わせた。八年分の涙は、想像よりもずっと長く続いた。
千二百回目の「許してやりなさい」は、星暦一四三五年の蒼月二日だった。
オスヴァルトが、別の令嬢ヴィクトリアとの婚約を検討していることが、茶会の席で他家の令嬢から漏れ聞こえた。本人は否定も肯定もしなかった。ただ、いつものように笑って言った。
「リーリエは優しいから、わかってくれるよね」
リーリエは微笑んだ。
家に戻ると、父に呼ばれた。
「リーリエ。波風を立てるな。オスヴァルト殿はああいう性格だが、悪い人間ではない。許してやりなさい」
「はい、お父様」
リーリエは自室に戻り、帳面を開いた。千二百行目を書いた。日付。許した内容。許した理由——空白。
そして、帳面を閉じた。
閉じた帳面を両手で持ち上げ、しばらく胸の前で抱えた。重い。千二百行分の重さではなく、千二百回分の空白の重さだった。
蝋燭の灯を点け直し、リーリエはゆっくりと帳面を机に置いた。引き出しから便箋を取り出し、婚約解消に必要な書類の書式を、記憶を頼りに書き起こし始めた。侯爵家の令嬢として、この程度の法務知識は叩き込まれている。
書類を書きながら、ペンの動きが妙に滑らかなことに気づいた。毎晩帳面に書いてきた八年間が、こんなところで役に立つとは思わなかった。日付を書く欄に、今日の日付を入れた。千二百回記録してきた日付の、最後の一つ。
書類を整え終えたとき、窓の外は白み始めていた。夜通し起きていたのに、不思議と疲れはなかった。
その日から三日後、リーリエはメルツ侯爵家の書斎に立ち、婚約解消を申し出た。
「何を言っている、リーリエ」
父ハインリヒの声が、書斎に低く響いた。
「許すも何も、お前はいつも……」
「千二百回です、お父様」
リーリエは帳面を差し出した。革の表紙はすり切れ、角が丸くなっている。十二歳から二十歳までの八年間、毎晩開いてきた帳面。
「日付と、許した内容を記録してございます。千二百回分」
ハインリヒが帳面を受け取り、開いた。最初のページを見て、眉をひそめた。二ページ目で、顔色が変わった。三ページ目で、言葉を失った。
「この、三列目は……」
「許した理由です」
リーリエは穏やかに答えた。
「空白でございますわ。一行目から千二百行目まで、すべて」
オスヴァルトが横から帳面を覗き込んだ。
「え……なにこれ。リーリエ、こんなの書いてたの?」
「はい、オスヴァルト様」
「僕のことも書いてあるの?」
「もちろんです。百二十三回ほど」
オスヴァルトの顔から笑みが消えた。百二十三回という数字の具体性が、冗談ではないことを突きつけていた。
「リーリエ、待ちなさい。こんなことで婚約を——」
「こんなこと、ではございません、お父様」
リーリエは初めて、父の言葉を遮った。
「千二百回分の『こんなこと』でございます。そしてお父様——」
リーリエは真っ直ぐに父を見つめた。
「お父様が『許してやりなさい』と仰った回数は、八百四十七回です。帳面に全て記録してございますわ」
ハインリヒの顔が強張った。開いた帳面を持つ手が、微かに震えていた。
「婚約解消の書類は、すでに用意してございます。お父様のご署名をいただければ」
「リーリエ……わしは、お前のために……」
「はい。お父様はいつも、わたくしに許すことを教えてくださいました」
リーリエは微笑んだ。いつもの穏やかな笑み。けれどその目には、もう従順さはなかった。
「ですから、千二百回許しました。それが限界でした。千二百一回目は、ございません」
帳面はその場で父に預けた。署名と引き換えに、とは言わなかった。言わなくても、ハインリヒにはわかったはずだ。八年分の記録の重さが、署名を拒む余地を奪っていた。
オスヴァルトは最後まで立ち尽くしていた。リーリエが書斎を出る間際、背後から声が聞こえた。
「リーリエ、僕は——」
リーリエは振り返らなかった。何を言われても、もう理由の欄に書くことはない。そう思ったら、足が驚くほど軽かった。
ハインリヒは三日後に署名した書類と共に帳面を返してきた。使者が持ってきた帳面の表紙には、指の跡がいくつも残っていた。何度も開き、何度も閉じたのだろう。父が帳面のどのページで一番長く手を止めたのか——リーリエには、なんとなくわかる気がした。八百四十七回のうち、最初の一回。あの夜会の日。リーリエがまだ十二歳で、父の声に守られていると信じていた、最初の一回だ。
書類と一緒に、父からの手紙が一通添えられていた。
リーリエ。わしは、お前を守っているつもりだった。
一行だけだった。続きはなかった。「許してくれ」とも「すまなかった」とも書かれていなかった。ただ、つもりだった、という過去形が、すべてを語っていた。
リーリエはその手紙を帳面と一緒に引き出しにしまった。返事は書かなかった。許す必要も、許さないと宣言する必要もなかった。もう、そういう段階は過ぎたのだ。
婚約解消から二月後、リーリエは辺境の領地で暮らし始めた。
小さな屋敷。手入れの行き届いた庭。王都の喧騒とは別の世界だった。ここには夜会もなく、茶会もなく、「許してやりなさい」と言う人もいなかった。
朝起きて、窓を開ける。風の匂いが違う。王都の風は石畳と馬車の音を含んでいたが、辺境の風は草と土の匂いしかしない。それだけのことなのに、最初の朝、リーリエは窓辺で長い間立ち尽くした。
最初の数日は、落ち着かなかった。夕食のあと、つい帳面を開こうとして——今日は何も許していないことに気づく。書くことがない。ペンを持ったまま、白い紙を見つめる。空白が怖いのではない。空白しかない生活に、どう向き合えばいいのかがわからなかった。
——「許す」以外のわたくしを、わたくしは知らない。
隣領の辺境伯ニコラス・フォン・ベルクが、領境の挨拶にやってきたのは、リーリエが引っ越してきて一週間目のことだった。
「隣に越してきたメルツ家の——」
「リーリエと申します。ニコラス様」
ニコラスは三十歳。日に焼けた肌に、武骨な手。寡黙な男だった。必要なこと以外は口にしない。社交辞令もほとんど言わない。
リーリエにとって、それは不思議と心地よかった。「お気の毒に」とも「大変でしたね」とも言わない。ただ、領境の水路の話と、冬までに屋根を直したほうがいいという実務的な助言だけを述べて帰っていった。
二度目の訪問は十日後だった。屋根の修繕の職人を紹介するためだと言った。三度目は半月後。庭の果樹に虫がついているのを通りすがりに見かけたから、と。
どの訪問も短く、用件だけ済ませて帰った。リーリエは少しずつ、この寡黙な隣人に安心を覚えるようになっていた。何も求めてこない。何も期待してこない。「優しいから、わかってくれるよね」と笑いかけてくることもない。
ある日——四度目の訪問だった——ニコラスが屋敷を訪ねた際、書斎の机の上に帳面が置かれているのが目に入ったらしい。
「それは?」
「……記録です」
「記録?」
リーリエは少し迷ってから、帳面を差し出した。なぜそうしたのか、自分でもわからなかった。ただ、この人になら見せてもいいと思った。余計なことを言わない人だから。「大げさだ」とも「お前にも悪いところがある」とも言わないだろうと、どこかで感じていた。
ニコラスは黙って帳面を開いた。最初のページ。日付。許した内容。許した理由。
午後の陽が窓から差し込んでいた。リーリエは向かいの椅子に座り、冷めていく茶を手の中で温めながら待った。
二ページ目。三ページ目。十ページ目。
彼は一行一行、目を通していった。途中で表情が変わることはなかった。ただ、ページをめくる手が、少しずつゆっくりになっていった。
時折、数ページ前に戻って日付を確かめている様子があった。照らし合わせるように、指で行をなぞっていた。
五十ページほど読んだところで、ニコラスの眉間に深い皺が刻まれた。ページをめくる手が止まった。あるページを長く見つめている。そのページには「婚約者が夜会で、わたくしの隣の席を別の方に譲った」と書かれている。理由——空白。
ニコラスはもう数ページを捲り、ある行で指を止めた。また別の行で止めた。不規則に、けれど確実にページを繰っていく。全てを読んでいるのではない——構造を確認しているのだ。日付の間隔、内容の重複、そして千二百行すべてに共通する空白を。
茶が冷めた。リーリエは二杯目を淹れた。窓から差していた午後の陽が橙に傾き始めた頃、ニコラスは最後のページまで辿り着いた。
最後のページを閉じたとき、ニコラスはしばらく黙っていた。
革の表紙に手を置いたまま、目を閉じた。指先だけが、微かに動いていた。
リーリエは身構えた。「大げさだ」と言われるかもしれない。「そんなものを書いて何になる」と笑われるかもしれない。
「——よく耐えた」
ニコラスの声は低く、短かった。
それだけだった。慰めも、同情も、分析も、助言もなかった。ただ三つの言葉。よく、耐えた。
リーリエの視界が滲んだ。
八年間、誰にも見せなかった帳面を見て、最初にかけられた言葉が——それだった。「許してやりなさい」でも「大したことじゃない」でも「お前にも悪いところがある」でもなく。
「申し訳ございません、急に……」
声が震えた。いつもの丁寧な言葉遣いを保とうとして、けれど語尾がかすれた。
「謝るな」
ニコラスは窓の外に目を向けたまま、ぶっきらぼうに言った。
「もう許さなくていい」
帳面の写しが社交界に広まったのは、リーリエが辺境に移って半年後のことだった。
流出、と人々は呼んだ。けれどリーリエは知っている。あれは流出ではない。
リーリエが、自分の手で社交界の知人に渡したのだ。
きっかけは、王都の父から届いた手紙だった。オスヴァルトの一家が、メルツ侯爵家に「復縁」の申し入れをしてきたという。ヴィクトリアとの婚約話が破談になったため、リーリエとの婚約を再開したいと。父の手紙には、暗に「戻ってきてほしい」という意図が滲んでいた。
リーリエは手紙を膝の上に置き、窓の外を見つめた。
沈黙していれば、また「許してやりなさい」と言われる。八年間そうだったように。
けれど——ニコラスの言葉を思い出した。「よく耐えた」。この帳面には意味がある。空白の理由欄が、どんな言葉よりも雄弁に全てを語っている。ならば、それを見せるべきではないか。事実を示すべきではないか。
「読んでくださいませ」
そう決意して、帳面の写しを託した。一字一句、同じ内容を清書した写し。日付。許した内容。許した理由。千二百行。
その写しがどうなったか、リーリエは辺境の屋敷にいながら、王都の知人たちからの手紙で少しずつ知った。
写しは、一人の手から次の手へと渡っていったのだという。
最初に受け取った令嬢が、次の茶会で隣の席の友人に見せた。友人は自分の姉に渡し、姉は夫に見せた。そうして帳面の写しは、数日のうちに王都の貴族たちの間で回覧された。
ある夜会で、出席者の多くがすでに写しを読み終えていた。
星暦一四二七年、赤花月十三日。婚約者が夜会で他の令嬢と踊った。理由——空白。
星暦一四二八年、白花月二十日。オスヴァルトのお母上が「出来損ない」と呼んだ。理由——空白。
星暦一四二九年、翠葉月八日。婚約者が誕生祝いを忘れた。理由——空白。
手紙には、こう書かれていた。
五十行を読んだあたりから、胸が苦しくなった、と。百行を超えると、ページをめくる手が震えた、と。三百行を超える頃には、誰も言葉を発せなくなったのだ、と。
そしてある夫人が気づいたのだという。
——理由の欄が、全部空白ですわ。
千二百行の記録。一行一行に日付があり、具体的な内容があり——そして理由だけが、どこまでめくっても白いままだった。
許した理由がなかった。一度も。
それは告発の言葉よりも、涙の訴えよりも、ずっと雄弁だった。感情を削ぎ落とした記録だからこそ、事実の重みが際立ったのだろう。日付があるから否定できない。内容が具体的だから言い逃れできない。そして理由が空白だから——千二百回の「許し」が、すべて強制されたものだったと、誰の目にも明らかだった。
知人の手紙には最後にこう添えられていた。
あの夜会に、お父上もオスヴァルト様もいらしたそうです。けれどお二人とも、帳面の話が始まった途端、一言も発せなくなったと聞きました。オスヴァルト様は途中で退席なさろうとしたそうですが、出口の前に立っていた男爵夫人が一言、「百二十三回ですって?」と仰って、オスヴァルト様はそのまま足を止めたと。
帳面をお読みになった方の多くは、リーリエ様を支持なさいました。けれど一部の保守的な方々は眉をひそめたそうです——「婚約者の非を記録するなど」と。ただ、帳面を実際に読んだ方は、誰も批判の声を上げられなかったと聞きました。空白の理由欄が、すべての反論を封じたのだそうです。
別の手紙が届いたのは、その三日後のことだった。
差出人はリーリエの幼馴染で、王都の社交にも顔が広い令嬢だった。いつもは軽い調子の文面が、その日は違っていた。
リーリエ様。続きをお知らせします。
オスヴァルト様は先日の夜会のあと、数名の知人を訪ねて回ったそうです。帳面の内容について「誤解だ」「悪気はなかった」と説明しようとしたとか。けれどどの家でも、応接間に通されることすらなかったと聞きました。「お引き取りください」の一言で、玄関先で帰されたと。
リーリエは手紙を膝の上に置き、窓の外を見た。辺境の秋空は高く、雲が薄く流れていた。
手紙の続きにはこうあった。
ヴィクトリア様——オスヴァルト様が新しい婚約をお考えだったお相手です——も、お立場が難しくなったようです。あの帳面を読んだ方々の間で「次のリーリエ様になりたい人がいるとは」と囁かれているそうで、ヴィクトリア様は社交の場から姿を消しております。
そしてお父上——ハインリヒ様のことですが。八百四十七回という数字が広まってからは、どの夜会でも侯爵様に声をかける方がいなくなったと。以前は「メルツ侯爵は穏やかな御方」と言われていましたが、今は「娘に八百四十七回も我慢を強いた父親」としか見られていないそうです。
リーリエは手紙を最後まで読み、静かに折りたたんだ。
胸がすくような感覚はなかった。ざまぁ、と叫びたい気持ちもなかった。ただ、長い間重たかったものが、少しだけ軽くなった気がした。
その翌週、オスヴァルトから手紙が届いた。封を切ると、馴染みのある丸い字が並んでいた。
リーリエ。帳面のことだけど、あれは誤解を招くよ。僕は君を傷つけようとしたことなんて一度もない。ヴィクトリアのことも、踊りのことも、全部悪気はなかったんだ。わかってくれるよね?
リーリエは手紙を読み終え、しばらく手の中で持っていた。
——わかってくれるよね。
千二百回聞いた言葉だった。千二百一回目を、手紙で受け取ることになるとは思わなかった。
リーリエは手紙を二つに折り、そのまま暖炉の火にくべた。紙が炎に巻かれ、丸い字が橙色に染まって消えていく。返事は書かなかった。
引き出しから以前の手紙を取り出し、しまい直そうとして、ふと手が止まった。以前なら——オスヴァルトの手紙の内容を帳面に書いていただろう。日付と、内容と、理由。けれど今はもう、書く帳面がない。書く必要もない。
リーリエはそっと引き出しを閉めた。
辺境の屋敷に、秋の風が吹いていた。
十二歳から二十歳まで、リーリエの一日は「許すこと」を中心に回っていた。誰かが何かをする。それを許す。帳面に書く。眠る。翌日もまた許す。それが日常だった。
許す必要がなくなった今、一日の輪郭がぼやけた。何をしていいかわからない。自分が何を好きなのかすら、よく覚えていなかった。
ある日、リーリエは庭で薔薇の苗を植えた。ニコラスが以前置いていった苗だった。植えるかどうか、三日迷った。自分で何かを選ぶという行為に、まだ慣れていなかったのだ。
赤い薔薇か、白い薔薇か。
誰にも訊かず、誰の許可も取らず、リーリエは赤を選んだ。特に理由はなかった。ただ、赤が好きだと思ったから。
——理由がなくてもいい選択が、世の中にはある。
苗を植え終えて土を均したとき、リーリエは自分の頬が緩んでいることに気づいた。笑っていた。誰かの前で作る穏やかな微笑みではなく、ただ嬉しくて、口元がほころんでいた。
こんな顔を、八年間したことがなかった。
泥のついた手を眺めた。この手はずっと、ペンを握って帳面に記録するためだけの手だった。今は土を掘り、苗を植え、自分で選んだものを育てる手になっている。
窓辺の机に座り、リーリエは新しい帳面を開いた。革の表紙は淡い青色。以前の帳面とは違う色を選んだ。
「何を書くんだ」
ニコラスが隣の椅子に腰を下ろしながら訊いた。
「今度は、嬉しかったことを記録しようと思います」
「嬉しかったこと?」
「はい。日付と、嬉しかった内容と、嬉しかった理由の三列で」
ニコラスは少し驚いた顔をして、それから口元を緩めた。
「今度は理由の欄も埋まりそうだな」
「ええ」
リーリエはペンを取った。
淡い青の帳面の、最初のページ。
日付。星暦一四三五年、金風月十四日。
嬉しかった内容——
リーリエのペンが、少しだけ止まった。
それから、丁寧な文字で書いた。
『「よく耐えた」と言ってもらえた』
嬉しかった理由。
今度は、空白ではなかった。
『初めて、わたくしの我慢を見てくれた人がいたから』
リーリエは帳面を見つめた。たった一行。けれど理由の欄が埋まっているだけで、帳面はまるで別のものに見えた。
白い帳面には千二百行の空白があった。青い帳面には、たった一行の理由がある。どちらが重いか——リーリエにはもうわかっていた。
「ニコラス様」
「なんだ」
「嬉しかったこと、一緒に数えてくださいますか」
ニコラスは窓の外の、赤く色づき始めた木々に目を向けた。
それからぶっきらぼうに、けれど確かに頷いた。
「ああ。数えよう、リーリエ」
名前を呼ばれたのは、これが初めてだった。「リーリエ嬢」でも「メルツ家の」でもなく——ただ、リーリエ。
その響きが胸に落ちた瞬間、リーリエの目尻にまた熱が滲んだ。けれど今度は、枕に顔を押しつける必要はなかった。
秋の陽射しが、二人の間に差し込んでいた。
淡い青の帳面の一行目が、光を受けて輝いている。
千二百回の空白のあとに書かれた、たった一行の理由。
それが、リーリエの新しい物語の始まりだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
この作品を書いている間、ずっと「理由の欄」のことを考えていました。千二百行の記録を書き続けるリーリエの気持ちではなく、彼女が毎晩ペンを止めてしまう瞬間——「なぜ許すのか」を書けない瞬間のことを。書けないのではなく、書くべき理由が存在しないという事実に、彼女は八年間向き合い続けていたのだと思います。
八百四十七回という数字を書いたとき、ハインリヒの震える手が見えた気がしました。自分が言い続けた「許してやりなさい」の重さを、数字で突きつけられる恐怖。オスヴァルトの百二十三回よりも、父の八百四十七回のほうがずっと残酷だと思います。
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