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インデックスゼロの魔王  作者: あめたす


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第4話:不合理な生存者

第4話:不合理な生存者


 廃坑の奥底は、湿った土と、長い年月をかけて蓄積された沈黙が支配していた。

 地上の爆音は、分厚い岩盤に吸い込まれ、やがて遠い雷鳴のような微かな震えへと変わる。出口を塞いだ土砂の向こう側で、今まさに、私の知る唯一の熱――ジャンが、冷徹な数字の刃に切り刻まれているかもしれないというのに。指先に残るジャンの掌の残熱が、暗闇の中でひどく皮肉なほど鮮明だった。


「……ピノ、外が、静かになっちゃった」

 僕の声は、湿り気を帯びた暗闇に溶けて、頼りなく霧散した。

 ピノは、岩肌に背を預け、まるでお気に入りのレコードに耳を澄ませるような顔をして、静かに首を振った。


「静かなのは、音だけだ。空気の震えを感じてごらん。まだ、終わっちゃいない。不合理な命たちが、泥を啜りながら足掻いている匂いがする。数字にはならない、執念という名の匂いだ」


 ピノの言葉は、いつもそうだ。温度計の目盛りではなく、肌に触れる風の「質感」で世界を語る。

 僕は膝を抱え、掌の中の「0」をじっと見つめた。

 中央統治府の白磁の部屋では、すべてが透明で、説明が可能だった。光、温度、幸福の度合いまで、すべてが百分率で管理されていた。けれど、この暗闇の中にあるのは、説明できない恐怖と、それ以上にやり場のない、べっとりとした「痛み」だけだ。


「誰だ」


 唐突に、背後の闇から声がした。

 ひどく透き通っていて、それでいて鏡のように冷ややかな、青年の声。

 僕は跳ね上がるように立ち上がり、ピノを背にかばった。闇の中からゆっくりと歩み寄ってきたのは、奇妙な遮光ゴーグルを身につけた、端正な顔立ちの男だった。その身なりはスラムのそれとは異なり、無機質な軍用パーツが鈍い光を放っている。


「……なんだ。ただの子供と、寿命を過ぎた老いぼれか。期待外れもいいところだ」


 男は、吐き捨てるように言った。その身のこなしには、スラムの住人が持つ泥臭い必死さは微塵もなかった。洗練された、まるで猛禽類のような、美しくも残酷な動き。


「君、名前は。……いや、そんなものはどうでもいいな。網膜に映るお前の『数値』を教えてくれ。それで、俺が今ここで、お前を守る価値があるか、それとも食料を奪って捨てるべきか、瞬時に計算式を立ててやる」


 男――レオンは、ゴーグルの奥で、計算機のような冷たい光を宿していた。その視線は僕を人間としてではなく、生存コストとリターンを天秤にかけるべき「資源」として計量しているようだった。

 僕は、震える唇を開いた。


「……ゼロ。IQも、EQも。僕は、何もないんだ」


 レオンの動きが、一瞬だけ止まった。

 彼は僕をまじまじと見つめ、それから、耐えかねたように短く笑った。その笑い声には、世界への深い失望と、隠しきれない好奇心が混ざり合っている。


「ゼロ? ははっ、傑作だな。あのアモンが支配するこの美しい方程式の中に、完全な『虚無』が紛れ込んでいたとは。……俺はレオン。この掃き溜めで、最も効率的に、そして最も信仰心なく生き残っている、自覚的な傍観者だ」


 彼は、懐から一枚の古い硬貨を取り出し、親指で弾いた。

 硬貨は闇の中で鋭い音を立てて回転し、彼の掌の上に着地する。


「表が出たら、お前らを安全なルートへ案内してやる。裏が出たら……お前らの死体で、敵のセンサーを狂わせる囮として使わせてもらう。どうだ、公平だろう? 確率は五分五分。神のサイコロだ。論理で割り切れない運命を愉しもうじゃないか」


 僕は息を呑んだ。アモンの世界では確率さえも管理されていた。けれど、この男はそれを、命を弄ぶ遊びに変えている。

 レオンが掌を開こうとしたその時、ピノが静かに声を上げた。


「無意味だよ、青年。そのコインに運命を訊くのは、自分に意志がないと告白しているようなもんだ。……坊主、お前さんはどうしたい? その数字もどきに、自分の命を預けるかい?」


 僕は、ポケットの中の紐を握りしめた。

 ジャンが命をかけて繋いでくれたこの「手触り」を、不確かな確率なんかに委ねたくなかった。不器用な蝶々結びのように、自分の手で結びたかった。


「……表も、裏もいらない。僕は、生きて、ジャンを助けに行きたい。それがどんなに間違った計算だとしても、僕は自分の足で泥を蹴りたいんだ」


 レオンは、意外なものを見るように僕を見つめた。

 そして、一度だけ深く溜息をつくと、開く前の硬貨をそのままポケットへ放り込んだ。

「計算違いも甚だしい。非効率の極みだ。……いいだろう。どうせこの世界は、もうじきアモンの言う最適解に押し潰されて壊れるんだ。一つくらい、救いようのない『ゼロ』という名のバグを飼ってみるのも悪くない」

 彼は背を向け、迷いのない足取りで坑道の深淵へと歩き出した。


「ついてこい。システムの盲点、数字の届かない『聖域』へ案内してやる。……だが、勘違いするなよ。俺はまだ、お前のことを信じたわけじゃない。ただ、絶望する手間が省けただけだ」


 僕は、ピノと顔を見合わせ、男の背中を追った。

 坑道を出た先には、赤く染まった夕闇が広がっていた。スラムの各所から上がる黒煙は、空にある「アイアン・アイ」を、まるで煤で汚すかのように伸びている。

 僕は知っていた。

 レオンが「期待していない」と言いながら、足元に落ちていた子供の靴を、そっと道の端へ避けたことを。その動作に宿った、数値化できない微かな「体温」を。

 数字の向こう側にある、歪で、温かい、人間たちのうねり。

 

 アモン。兄さん。

 あなたは、世界を単純にするために、こんなにも美しい「複雑さ」を切り捨てたんだね。

 

 僕は、自分の胸に刻まれたゼロという痣を、誇りのように感じ始めていた。これは、何者にも定義されない、僕だけの自由の証なのだから。

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