第3話:鋼鉄の洗礼
第3話:鋼鉄の洗礼
幸福は、いつも音もなく、そして唐突に、数字の羅列によって奪われる。
ゴミ山の片隅で、僕がようやく「蝶々結び」の不格好な輪をひとつ作れるようになったその日の午後だった。重く垂れ込めた鉄色の雲を切り裂いて、天から巨大な銀の槍が降り注いできた。
それは槍ではなかった。「アイアン・アイ」から送り込まれた、治安維持部隊の強襲揚揚陸艇だ。大気を切り裂く金属音が、鼓膜の奥で不協和音を奏でる。
「……チッ、予定より早ぇな。ゼノビアの野郎、昼飯の時間も計算に入れねえのかよ。これだから数字にしか欲情できねえインテリは困る」
ジャンが、噛み締めていた安煙草を地面に吐き捨て、傍らに立てかけてあった錆びた鉄パイプを掴んだ。彼の低いIQ 70の脳は、敵の戦力も、勝率も、脱出経路も演算しない。ただ、仲間の背中に迫る危機に対して、心臓を激しく打ち鳴らすことだけを知っている。それは、洗練された戦略よりもずっと早く、そして熱く、彼の四肢を戦場へと突き動かす。
拡声器から、鼓膜を針で刺すような、澄んだ、けれど感情の欠落した女の声が響き渡った。
『リムボ・ジャンクションの居住者諸君。貴君らの存在は、今期の生存効率目標における「誤差」と認定された。速やかにデリートを開始する。抵抗は、演算の無駄である』
審判官ゼノビア。
僕を「価値のない書き損じ」と呼び、奈落へ突き落とした女。彼女にとって、このスラムに住む人々は人間ではない。数式の途中に現れた、邪魔な小数点に過ぎないのだ。小数点以下の命など、切り捨てるのがこの世界の「正しさ」なのだと言わんばかりの、凍てついた声。
「坊主、ピノを連れて奥の廃坑へ逃げろ。ここは俺たちが食い止める。数字に強い奴らに、根性の算数を叩き込んでやるよ」
「でも、ジャン……!」
「理屈を言うな! お前はまだ、紐の結び方を教わっただけだろう。自分の命も結べねえ奴が、戦場に立とうなんて思うんじゃねえ。いいか、セト。逃げるのも立派な『不合理』だ。生きろ」
ジャンは僕の頭を乱暴に撫で回した。その掌の熱さが、死の予感に震える僕の身体を、辛うじてこの世界に繋ぎ止めていた。彼の掌には、知能指数では決して測れない、分厚い信頼の皮膚があった。
空から、黒い甲冑に身を包んだ「鉄の騎士」たちが降りてくる。
先頭に立つのは、全身の8割を機械化した治安維持部隊の隊長、ドゴーンだった。彼の網膜ディスプレイには、スラムの住人一人ひとりのIQが、ゴミを仕分けるラベルのように表示されているはずだ。
「IQ 100以下の個体はすべてスクラップだ。社会の循環を滞らせるノイズに、呼吸する権利などない。効率を妨げる者は、死という沈黙こそが相応しい」
ドゴーンの合成音声が、冷たく響く。その声には、かつて自分が捨てた「感情」への憎悪が混じっているのを、僕は感じ取った。
その瞬間、静かだったゴミの街は、血と悲鳴、そして焦げた肉の匂いが混じり合う地獄へと変貌した。
僕は、ピノの細い腕を引いて、崩れかけた瓦礫の影を縫うように走った。背後では、ジャンが雄叫びを上げ、数値を武器にする機械兵たちに肉体一つでぶつかっていく音が聞こえる。重厚な装甲が、錆びた鉄パイプと衝突し、火花を散らす。
IQが低い。計算ができない。
だからこそ、彼は「ここで逃げれば生存確率が上がる」という論理に、自分を売り渡さない。一人の子供を逃がすために、死という確定した未来へ逆走する。その不条理なまでの献身こそが、この管理された世界における、最大の「バグ」だった。アモンの計算式が決して解けない、生命のうねりそのものだった。
「坊主、止まるな。前を見ろ。過去を見るのは、墓場に入ってからでいい」
並走するピノの声は、驚くほど静かだった。
彼は、街が燃え、友が斬られる光景を、まるですでに読み終えた古い物語のように見つめていた。その瞳は、絶望の先にある「真実」だけを射抜いている。
「この火はな、数字じゃ消せねえ。……憎しみや悲しみも、計算機には収まりきらねえ。いつか、お前さんのその空っぽな『0』の中に、あいつらの熱が流れ込んでくる時が来る。それを、零さないように持っていな。中身が空だからこそ、何千人分の重みも背負えるんだ」
逃げ込んだ廃坑の入り口で、僕は一度だけ振り返った。
黒煙の向こう側、ジャンが多勢の兵士に囲まれながら、血塗れの顔で不敵に笑っているのが見えた。その笑みは、アモンの完璧な美しさよりも、ずっと、僕の心を激しく揺さぶった。泥にまみれ、傷だらけになっても、彼は自分自身の「意志」でそこに立っていた。
僕は、自分の胸に刻まれた「0」を、掌で強く押さえた。
何も持たない。何も測れない。
けれど、この掌に伝わるピノの腕の細さと、遠くで叫ぶジャンの熱さだけは、僕という空白の器を、確かに満たし始めていた。数値にならない熱が、胸の奥で火種のように燻っている。
アモン。兄さん。
あなたが消去しようとした「誤差」は、いま、あなたの計算式が想定もしない温度で、脈打ち始めている。
暗い坑道の中で、僕はポケットに入れていた古い紐を握りしめた。
まだ不格好な蝶々結び。
それは、弱者が、自分という命を明日へ繋ぎ止めるための、唯一の武器だった。解けやすく、けれど絆を信じるための、不器用な誓い。
地上の爆音は次第に遠ざかり、代わりに僕の耳には、ドク、ドクと波打つ、自分自身の鼓動だけが、ひどく騒がしく響いていた。それは、0という数字が刻まれてなお、僕が「人間」であることを告げる、もっとも不条理なリズムだった。




