表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
インデックスゼロの魔王  作者: あめたす


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

2/5

第2話:ゴミ山の哲学

第2話:ゴミ山の哲学


 鼻を突くのは、重油と、饐えた生ゴミと、それから人間の皮膚が発する濃密な排泄物の匂いだった。

 上空にある「アイアン・アイ」の清潔な無機質さは、ここには届かない。あそこでは、痛みさえもデジタルな記号として処理されていたけれど、この底辺の街「リムボ・ジャンクション」では、痛みはべっとりと粘膜に張り付く実感を伴っている。剥き出しの生が、腐敗の熱を帯びて、絶えず私の肺を冒しに来る。


「……なんだ。まだ生きてやがったのか」


 僕を拾い上げた男、ジャンは、吐き捨てるように言った。彼の声は、使い古されたヤスリのようにざらついていて、けれど不思議と私の鼓膜を優しく撫でた。

 IQ 70。この帝国の基準で言えば、彼は「喋る家畜」にも等しい。けれどここでは、その低い数値こそが、人間として呼吸をしている証だった。論理という去勢を受けず、怒れば吠え、悲しければ喚く。そんな当たり前の人間臭さが、この泥の海ではダイヤモンドよりも眩しい。


「ほらよ、食え。死に損なったんなら、胃袋を動かす義務がある。腹が減ってるってのは、生きてるって証拠だ」


 差し出されたのは、何の肉かも分からない、どろりと濁ったスープの入った錆びた缶。一口啜れば、喉を焼くような塩分と、野蛮な脂の味がした。

 数値化できない「味」が、空っぽだった私の胸の中に、暴力的なまでの生の手触りを流し込んでいく。


 ――美味い。


 その直感的な感覚に、僕は自分が泣いていることにすら気づかなかった。

 泣く。それは、アモンの世界では「効率の悪い水分の排出」に過ぎなかった。悲しみとは演算エラーの一種であり、速やかにデバッグされるべきノイズだ。けれど、今の私にとっては、自分という「ゼロ」の器が、この世界の汚れきった温かさに耐えかねて溢れ出した証拠だった。

 

「坊主、そんなに泣くと、今度は乾いて死ぬぞ。お前さんの『0』は、涙を溜めるための器じゃねえはずだ」


 笑い声が、ガラクタの山に反響した。

 ジャンの背後、巨大な基板の残骸を背にして座り込んでいる老人がいた。

 

 ピノ。

 その男は、もはや「全知測定」の記録にすら載っていない、この世界の忘れ物のような存在だった。かつて「数字」が世界を統治する前の、野性的な時代を知る生き残り。


「お前さんが『インデックス・ゼロ』か。なるほど、いい顔をしてる。何も書かれていない真っ白な紙は、どんな泥水でもよく吸うからな。エリート様の数式が入り込む隙間もない、純粋な『無』だ」


 ピノは、タコで固くなった節くれだった指先で、一本の古い紐を弄んでいた。

 その指の動きには、アモンの幾何学的な精密さとは違う、どこか曖昧で、けれど絶対に揺るがない「重み」があった。職人の指先。それは空気を読み、湿度を感じ、紐の「声」を聞いているようだった。


「いいか、坊主。この世界はな、数字で計算するもんじゃない。こうやって、自分の指先の『感触』で結んでいくもんだ」


 ピノは僕を隣に招き寄せると、その皺だらけの掌の中に、私の小さな手を包み込んだ。

 その手の皮膚は驚くほど硬く、けれど内側にはドクドクと力強い拍動があった。


「計算で結ぶな。感覚で締めろ。……これが『蝶々結び』だ」


 紐が交差し、輪ができ、重なる。

 アモンが言っていた「最適解」なら、紐は解けないように、最も強固な結び目を作るべきだろう。あるいは、完全に溶接して一体化させるべきだ。けれど、ピノが教えるそれは、ひどく不格好で、左右の輪の大きさも揃っていない。どこか頼りなく、震えている。


「……これ、すぐに解けちゃいそうだよ」


 僕がかすれた声で言うと、ピノは満足そうに目を細めた。その瞳には、パノプティコンの冷たい光ではなく、焚き火のような温かみが宿っている。


「それでいいんだよ。いつでも解ける。けれど、お前が歩いている間は、決して離れない。それが、理屈を超えた『約束』ってやつさ。ガチガチに固めた論理より、こういう緩い結び目の方が、案外、嵐には強いもんさ」

 僕は、震える指で紐を模倣した。

 右と左。IQとEQ。そんな指標では測れない、ただの「紐」と「私」の格闘。

 

 失敗するたびに、ピノは僕の手を軽く叩き、ジャンは横で下品な笑い声を上げながら、正体不明の酒を煽る。

 中央統治府の白磁のタイルは、こんなふうに僕の手を汚しはしなかった。清潔な殺意はあっても、不潔な抱擁はなかった。

 けれど、僕は今、生まれて初めて「生きている」と思った。

 泥にまみれ、数字を奪われ、ゴミ山の中で紐を結んでいるこの瞬間に。

 

 アモン。兄さん。

 あなたが「バグ」と呼んだこの不確かな感触が、あなたの計算式の答えよりもずっと、僕の肌を熱くさせている。あなたは今、何を食べているの? あなたの喉を鳴らすのは、完璧な栄養剤だけなの? 


 その夜、僕は夢を見た。

 アモンが、冷たい玉座に座り、血の通わない数字の奔流に飲み込まれていく夢だ。彼はIQ210という高い知能で、自らを縛り上げる巨大な数式の一部と化していた。

 僕は叫ぼうとした。けれど、声は出ない。

 ただ、僕の手元には、さっき結んだばかりの、頼りない蝶々結びだけが残っていた。

 

「……セト。いつかお前が、その不格好な結び目で、俺を殺しに来る日を待っているぞ。その時だけが、俺の計算が『正しく間違える』唯一の瞬間なのだから」


 夢の中のアモンが、悲しそうに、けれど慈しむように微笑んだ気がした。その微笑みは、僕を放逐した時の、あの氷のような表情の裏側に隠されていた真実の破片。

 目が覚めると、頬には乾いた涙の跡があり、リムボ・ジャンクションの夜風が、錆の匂いと共に人々の低い寝息を運んできていた。

 

 僕は暗闇の中で、何度も、何度も、指先の感覚を確かめるように紐を結び直した。

 0という数字。

 それは、失ったのではない。

 これから、この手で掴むすべての「重み」


――ジャンの乱暴なスープの味、ピノの硬い掌、そして誰かの痛み。それらをすべて受け入れるための、広大な空白なのだと、僕は自分に言い聞かせた。

 鉄の雨が、また降り始めていた。

 アイアン・アイのホログラムが作り出した「演出」ではない、空が泣いているような本物の雨。

 

 でも、もう寒くはなかった。

 僕の指先には、不格好な蝶々の羽が、確かに宿っていたから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ