第1話:0(ゼロ)の刻印
第1話:0(ゼロ)の刻印
世界は、ひどく清潔で、ひどく無機質で、そして吐き気がするほどに「正しい」。
15歳の誕生日、僕たちは「神」に謁見する。神の名は「全知測定」。白磁のタイルのように冷徹な電子の瞳が、私たちの脳を、心臓を、その奥に潜む獣のような本能を、すべて無慈悲な数値へと置換していく。
この世界において、数値は血よりも濃く、名前よりも重い。
IQ(知能指数)は、この世界を効率よく飼いならすための「飼育スキル」だ。
EQ(共感指数)は、他人の内臓を素手で弄ぶための「解剖スキル」だ。
数値が高い者は「英雄」という名の檻へ、低い者は「歯車」という名の油溜まりへ。その選別こそが、この文明の唯一の慈悲なのだと、父である聖王アルドは、教壇から腐った林檎を眺めるような瞳で語っていた。かつて感情の暴走で核の炎に焼かれた人類にとって、論理という防腐剤は、生存のための必須条件だったから。
「セト、前へ」
無音の試験室。私の名を呼ぶ兄、アモンの声は、冬の夜に凍りついた銀のスプーンのように硬く、そして美しかった。
アモン。僕の5つ年上の兄。IQ 210という、もはや化け物じみた演算能力を持つ彼は、この「ロゴス・ノア」という巨大な計算機の、最も洗練された部品だった。彫刻のように整ったその横顔には、慈しみも憎しみも、ましてや血の通った迷いなど一片も存在しない。
僕は、震える足で測定器の中心に立った。
頭部に装着された電極が、僕の体温を吸い取っていく。視界の端で、兄が僕の数値をモニター越しに見つめているのがわかった。彼の瞳は、愛する弟を見つめる温かさなど一滴も持ち合わせていない。ただ、解くべき数式の解を待つ、孤独な数学者のそれだった。
測定が終わる。
静寂が、粘り気のある汗のように肌にまとわりつく。
電光掲示板に表示されたのは、この帝国の歴史上、1度も観測されたことのない「空虚」だった。
【IQ:0 / EQ:0】
「……ゼロ?」
審判官ゼノビアが、細い眉を不快そうに跳ね上げた。彼女の眼鏡の奥で、数字の羅列が激しく明滅している。彼女にとって、測定不能な存在はこの完璧な幾何学世界に記された「書き損じ」でしかない。
「故障ではないわ。3度再試行して、3度とも同じ結果。この個体には、世界を理解する知能も、他者と交わる情緒も――生存するための『価値』が一切存在しない。ただの肉の塊よ」
0。インデックス・ゼロ。
それは、死んでいることよりももっと酷い。存在しているのに、誰からも認識される資格を持たないということだ。論理の網目から零れ落ち、共感の磁場からも弾き出された、絶対的な異物。
「兄さん……」
僕は助けを求めて、アモンを見上げた。
彼は高い壇上から、微動だにしない。その無機質な風貌は、人間というよりは、冷たい大理石でできた絶望の象徴に見えた。
アモンが、ゆっくりと口を開く。その声に、感情の「揺らぎ」というノイズは一欠片も混じっていなかった。
「セト。お前は今日、この世界からデリートされる。それが、この世界の平和を維持するための『最適解』だ」
「消去……? 僕は、ただ、兄さんと一緒に……」
「論理を理解できない生き物に、居場所はない。お前の存在は、計算式を狂わせるノイズに過ぎないんだ。理解しろ、セト。これは慈悲だ」
アモンが、その白く細い指で、冷酷に、そして優雅に空を切った。
その指先は、愛する者を切り捨てる執行官のそれでありながら、どこか祈るような形をしていた。
瞬間、僕の足元の床が音もなく消えた。
「あぁ――ーーー!!」
落下する。
清潔な、防腐剤の匂いのする中央統治府「アイアン・アイ」から。
数字に支配された、美しい天国から。
重力に引かれながら、最後に見えたアモンの顔を、僕は忘れることができない。
彼は、泣いてはいなかった。しかし、その氷のような瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、鋭い剃刀の刃で自らの肉を切り刻むような、凄絶な「痛み」が閃いたのを、僕は見た気がした。それは論理という鎧の隙間から漏れ出した、たった一滴の猛毒のような人間臭さだった。
――落下。
叩きつけられたのは、硬いアスファルトの上ではなく、腐った生ゴミと、錆びた鉄の匂いが充満する、泥のような暗闇だった。
雨が降っていた。
中央統治府のホログラムが映し出す「予定された雨」ではない。
もっと重く、粘り強く、そしてひどく生臭い。肌に触れるだけで、自分という存在が腐敗し、変質していくのがわかるような、生命の濁流。
「……死んでねえな、こりゃ。しぶとい数値だな」
低く、濁った声が聞こえた。
泥にまみれた私の視界に、1足の、継ぎ接ぎだらけのブーツが映り込む。
「IQ 0の『お荷物』が、空から降ってくるとは聞いてたが。……おい、坊主。生きてるなら、返事くらいしな。ここじゃ黙ってると、ゴミ収集車に詰め込まれるぜ」
顔を上げると、そこには屈強な、しかし酷く疲れた顔をした男が立っていた。
反逆のジャン。その男の体には、数字ではなく、無数の「戦いの傷」が物語のように刻まれていた。知能でも共感でもない、ただ生きようとする本能の熱が、そこにはあった。
僕は言葉を返せなかった。ただ、雨に打たれ、泥を啜りながら、自分の胸に刻まれた「0」という数字が、酷く熱く、皮膚を焼くのを感じていた。
数字を持たない僕は、ここから、僕の「手触り」を探し始めることになる。
兄アモンが切り捨てた、この、美しくも汚らわしい、血の通った世界の中で。
遠く、鉄の空の向こうで、中央統治府が冷たい光を放っていた。
兄さん、あなたはそこから何を計算しているの?
泥の中で、僕は初めて拳を握った。その掌には、冷たい数値ではなく、自分の体温という、たった1つの確かな「不合理」が宿っていた。
【読者の皆様へ:本作の設定について】
本作に登場する「IQ(知能指数)」および「EQ(感情知能)」の定義や扱いは、物語の演出上のフィクションです。
現実の知能検査や心理学的な概念とは大きく異なり、数値を根拠に個人の優劣や人生を決定づける意図はございません。あくまで、数値化できない「人間の生の手触り」を描くための独自の設定としてお楽しみください。




