第七章
ウィーン国立歌劇場は、今宵、偽善と虚飾の極致にあった。
天井に輝く巨大なクリスタル・シャンデリアが、着飾った貴族や有力者たちの宝石を照らし出し、劇場内には高価な香水と期待混じりの囁きが充満している。舞台上には、アレクサンドラの叔父、エドゥアルトが神妙な面持ちで立っていた。
「皆様、本日はお集まりいただき感謝いたします」
エドゥアルトの声が、マイクを通じて厳かに響く。
「悲しいお知らせがあります。我が一族の誇り、アレクサンドラは、あろうことか彼女を守るべきボディーガードの手によって拉致され、アルプスの山奥に監禁されておりました。不徳の致すところ、彼女の名誉は著しく傷つけられました……」
聴衆から、偽りの同情に満ちた溜息が漏れる。エドゥアルトは満足げに目を細めた。
「ですが、ご安心ください。彼女は今、当局の手によって保護されました。まもなく、この壇上で彼女自身の口から、卑劣な犯罪者の罪が語られることでしょう」
その時だった。
劇場の後方、大理石の重厚な扉が、警備員の制止を振り切るようにして勢いよく押し開かれた。
すべての視線が、そこへ注がれた。
現れたのは、人々が予想していた「憔悴した被害者」ではなかった。そこには、燃えるような深紅のシルクドレスを纏い、髪を解き放ち、女王のような威厳を湛えて立つアレクサンドラの姿があった。
その美しさは、あまりに鮮烈で、あまりに高潔だった。劇場の空気が一瞬で凍りつき、次の瞬間、雷鳴のようなざわめきが広がった。
「アレクサンドラ……!なぜここに」
壇上のエドゥアルトが、狼狽して声を荒らげる。
アレクサンドラは、レッドカーペットの敷かれた中央通路を、一歩ずつ、確かな足取りで進んでいく。彼女の右手の隠しポケットには、血のついた黒い革手袋が忍ばされていた。その微かな重みが、彼女の心に鋼の意志を灯していた。
彼女は壇上に上がると、叔父の手からマイクを奪い取った。
「皆様。親愛なるウィーンの友人たち、そして、私の名誉を娯楽に変えようとしているすべての方々へ」
彼女の声は、かつてないほど澄み渡り、劇場の隅々にまで届いた。
「叔父の話は、すべて嘘です。私は誘拐などされていません。むしろ、私は救い出されたのです。この街に溢れる嘘と、名誉という名の鎖。それらに押し潰されそうになっていた私を、命を懸けて守り抜いてくれた男性がいます」
「何を言う!貴様は洗脳されているんだ!」
エドゥアルトが叫ぶが、アレクサンドラは冷徹な眼差しで彼を一蹴した。
「彼は私を『至宝』としてではなく、一人の等身大の人間として愛してくれました。私が彼に贈れる唯一の報酬は、彼の名誉を取り戻すことです」
アレクサンドラは、エドゥアルトが隠蔽していた財団の不正、そして今回の狂言誘拐の証拠となる録音データを、ハンスの手配した背後の巨大スクリーンに映し出した。会場内は、怒号と驚天動地の混乱に包まれた。
「私は今日、この瞬間をもって『ウィーンの至宝』という役職を辞任します。私はただのアレクサンドラとして、私の魂の守護者を探しに行きます」
彼女が壇上から降りようとした、その時だった。
劇場の入り口に、一人の男が立っていた。黒いスーツは破れ、肩口には包帯が巻かれている。蒼白な顔にはいくつもの傷があったが、その瞳だけは、北極星のように揺るぎない光を放っていた。
「……ラファエル」
アレクサンドラの唇から、祈りのような言葉が零れた。ハンスの尽力により救出されたラファエルは、満身創痍の体を引きずり、約束通り、彼女を「迎えに」来たのだ。
ラファエルは、押し寄せる記者や群衆をその鋭い一瞥で退け、彼女のもとへと歩み寄った。彼は彼女の前に辿り着くと、かつてと同じように、恭しく頭を下げた。
「……お迎えに上がりました、アレクサンドラ様」
「いいえ」
アレクサンドラは微笑み、彼の大きな、傷だらけの手を両手で包み込んだ。
「もう、様はいらないわ。ラファエル。……私はあなたの契約対象ではなく、ただの女として、あなたの隣にいたいの」
ラファエルの瞳に、生まれて初めて、熱い感情が溢れ出した。彼は周囲の目も、社会的地位も、すべてを忘れ、愛おしげに彼女を強く抱きしめた。
劇場のシャンデリアの光が、二人の姿を聖画のように照らし出していた。
数日後。
アルプス、ザルツカンマーグートの湖畔。春を告げる風が、残雪を溶かし、草原に小さな名もなき花々を咲かせていた。
別荘のテラスで、二人は並んで腰掛けていた。アレクサンドラはもう、贅沢なシルクのドレスは着ていない。素朴なコットンのワンピースを纏い、その表情にはかつての悲痛な美しさではなく、心からの平穏が宿っていた。
ラファエルは、テーブルの上に一通の書面を置いた。それは、かつての警護契約書だった。
「これはもう、不要ですね」
彼はアレクサンドラの瞳を見つめながら、その紙をゆっくりと、二つに引き裂いた。
「これからは、義務ではなく、私の意志であなたと共にいます。……アレクサンドラ」
初めて呼び捨てにされた彼女の心に、甘い震えが走った。
「ええ、ラファエル。……私たちの、新しい生活の始まりね」
二人は手を取り合い、光り輝く湖面を見つめた。そこには、もう「聖母」も「守護天使」もいなかった。ただ、互いの魂を救い合い、愛し合う、一組の男と女がいるだけだった。
遠くで、カウベルの音がのどかに響いている。ウィーンの喧騒はもう届かない。二人が見つけた真実の聖域で、物語は永遠の静寂と、確かな幸福の中に溶けていった。




