第六章
嵐は去った。
昨夜の狂乱が嘘のように、アルプスの朝は残酷なまでの静寂に包まれていた。雲ひとつない青空の下、新雪はダイヤモンドの粉を撒いたように眩しく輝いている。だが、その白さは、蹂躙されたマナーハウスの無残さをいっそう際立たせていた。
アレクサンドラは、地下の重い扉を押し開けた。肺に流れ込んできたのは、凍てつく空気と、微かに残る火薬の匂い。
「……ラファエル?」
震える声で呼びかけたが、答えはない。一階のホールは、見るも無残に荒らされていた。父が愛したアンティークの椅子は砕け、壁に掛けられたタペストリーは引き裂かれている。そして、白亜の石畳の上には、点々と続く鮮やかな紅――。
アレクサンドラは、暖炉のそばに落ちていた「それ」を見つけ、膝から崩れ落ちた。
それは、ラファエルが常に嵌めていた、黒い革の手袋だった。雪と泥に汚れ、指先には彼のものと思われる血が滲んでいる。昨夜、この手で彼女の頬を拭い、「ただの隣人でいさせてください」と微笑んだ、あの手のぬくもりが、今はもうどこにもなかった。
「ああ……ああああ……!」
彼女は血のついた手袋を胸に抱きしめ、獣のような声を上げて泣いた。叔父の工作員たちは、彼女を見つけられなかった腹いせに、ラファエルを「拉致犯」として、あるいは「不要な障害」として連れ去ったのだ。
彼は自分を捨てて生きろと言った。マドンナとしての清らかな名誉を守り、光の世界に留まれと。
だが、空っぽになった家の中で、アレクサンドラは気づいた。彼がいない光の世界など、凍てついた墓場と同じだということに。自分を押し殺して演じてきた「ウィーンの至宝」という称号が、いかに虚しく、価値のないガラクタであったかということに。
「私を捨てて生きろと言ったわね、ラファエル……」
彼女は、血の滲んだ手袋を強く握りしめた。その瞳から、脆い涙が消え、代わりに凛然とした炎が宿る。
「でも、お断りよ。あなたを捨てて手に入れる名誉なんて、私は一欠片も欲しくない」
彼女は立ち上がり、荒らされた書斎へと向かった。床に散らばった書類の中から、予備の衛星電話を拾い上げる。震える指でダイヤルしたのは、ウィーンに残してきた唯一の味方、老執事のハンスだった。
『……お嬢様!ご無事なのですか!?』
「ハンス。落ち着いて聞いて」
アレクサンドラの声は、自分でも驚くほど冷静だった。
「ラファエルが連れ去られたわ。叔父様たちは彼を犯罪者に仕立て上げ、私を悲劇のヒロインとして連れ戻すつもりよ。……でも、脚本通りにはいかないわ」
『お嬢様、何をなさるおつもりですか?今のウィーンは敵地も同然です。叔父上はすでに解任動議の手筈を整え……』
「構わない。私を連れ戻したいのなら、最高の舞台を用意させて。……今夜、国立歌劇場でチャリティ・ガラがあるはずね。叔父様が私の『無事な帰還』を発表しようとしている、あの舞台を」
『まさか……あそこに乗り込もうと?』
「ええ。ハンス、お願い。ラファエルの行方を追って。彼がどこに監禁されているか、あなたの伝てをすべて使って探し出して。私は……私自身の戦い方で、彼を取り戻す」
電話を切ると、アレクサンドラは二階の寝室へ向かった。クローゼットの奥に眠っていた、一着のドレスを取り出す。それは父が彼女の二十歳の誕生日に贈った、深紅のシルクドレスだった。「ウィーンの至宝」としての慎ましやかな白でも、清楚な青でもない。情熱と、決意と、愛を象徴する、燃えるような赤。
彼女は、アルプスの素朴な服を脱ぎ捨てた。鏡を見る必要はなかった。今の自分の瞳が、どんな宝石よりも強く輝いていることを知っていたから。
彼女はラファエルの手袋をドレスの隠しポケットに深く忍ばせた。彼が盾として自分を守ってくれたように、今度はこの手袋が、彼女に戦う勇気を与えてくれる。
別荘を出ると、雪原の向こうに、麓から迎えに来たラファエルの協力者の車が見えた。
「行きましょう。ウィーンへ」
アレクサンドラは、一度も振り返らなかった。かつては逃げ出したかったあの街が、今は戦場に見えた。愛する人の誇りを取り戻すため、そして自分自身の魂を救うため。マドンナは灰の中から立ち上がり、自らの意志で、光り輝く地獄へと足を踏み入れた。




