第五章
山が怒りに震えていた。
窓の外では、狂ったような吹雪が唸り声を上げ、マナーハウスの厚い石壁を叩きつけている。暖炉の火は低く沈み、部屋の隅々には不吉な影が這い寄っていた。ウィーンでの華やかな舞踏会が遠い前世の出来事のように感じられるほど、今の二人は荒れ狂う自然の深淵に放り出されていた。
「……来ましたね」
ラファエルの研ぎ澄まされた声が、風の音を切り裂いた。彼は部屋の明かりをすべて消し、窓の隙間から外の闇を凝視している。アレクサンドラがその傍らに寄り添い、凍てつく窓の外に目を凝らすと、雪の幕の向こう側に不自然な光が揺れていた。
それは、吹雪を突いて強引に坂を上ってくる、数台の車のヘッドライトだった。
「パパラッチ……?」
「いいえ。あの動き、あのライトの配置……叔父上が雇ったプロの工作員でしょう。スキャンダルを『確定』させるために、あなたを強引に連れ戻しに来たか、あるいは――」
ラファエルは言葉を切り、腰のホルスターから銃ではなく、無線機とフラッシュライトを取り出した。彼の表情からは先ほどまでの「隣人」としての温もりが消え失せ、冷徹な「守護天使」の顔が戻っていた。
「アレクサンドラ様、地下の食糧庫へ。そこはかつて防空壕として造られた場所です。私が合図するまで、決して出てこないでください」
「待って、ラファエル!あなたはどうするの?相手は一人じゃないわ!」
アレクサンドラは彼の腕を掴んだ。厚いコート越しでもわかる、鋼のように硬い筋肉の感触。ラファエルは彼女の手に、自分の手を重ねた。その感触は驚くほど冷たく、別れの予感に満ちていた。
「私の仕事は、あなたを守ることです。それ以外に、私の存在価値はありません」
ラファエルは彼女を強引に地下へと導き、重い鉄の扉の前に立たせた。狭い階段を照らす予備灯の下で、彼の瞳が悲痛な光を帯びて揺れる。
「……以前、お話ししましたね。私は守るべき人を守れなかったのだと」
吹雪の咆哮が、屋根を揺らす。ラファエルは遠い記憶を吐き出すように語り始めた。
「かつて私は、ある王女の警護に当たっていました。若く、情熱に溢れた方だった。私は彼女の笑顔を守るためにすべてを捧げると誓った。だが……私は、彼女に心を寄せてしまった。その一瞬の『人間としての揺らぎ』を敵に突かれたのです。彼女は誘拐され、王室は未曾有のスキャンダルに晒された。彼女の尊厳はズタズタになり、私は……名誉を剥奪され、追放された」
アレクサンドラは息を呑んだ。彼の寡黙さの裏にあったのは、癒えることのない深い傷跡だったのだ。
「私は二度と、同じ過ちを繰り返さない。アレクサンドラ様、あなたは私の誇りです。汚されることのない、清らかな光だ。だからこそ……今ここで、私を捨てなければならない」
「何を言っているの!?私はあなたを捨てたりしない!」
「いいえ。私があなたと一緒に見つかれば、叔父上の目論見通りになる。『至宝が落ちぶれた警護員と密会していた』という事実は、あなたの人生を永遠に破壊する。私を『あなたを拉致した犯罪者』として扱いなさい。私が彼らを食い止めている間に、裏の小道から脱出するルートを確保してあります。麓の村に私の協力者が待っています」
ラファエルの指先が、アレクサンドラの頬に触れた。それは、最初で最後の口づけよりも雄弁な、愛の告白だった。
「行ってください。あなたの歩むべき道は、まだ光に満ちている」
「嫌よ……ラファエル、あなたなしの光なんて、私には……!」
その時、一階の窓ガラスが砕ける凄まじい音が響いた。侵入者が家の中に踏み込んできたのだ。
「行け!」
ラファエルの鋭い怒号に押されるように、アレクサンドラは地下の闇へと逃げ込んだ。鉄の扉が閉まる直前、彼女が見たのは、迫り来る敵を迎え撃つために、孤独に背中を向けて立つ守護者の姿だった。
闇の中、アレクサンドラは膝をつき、溢れ出す涙を止めることができなかった。外では風の咆哮に混じって、格闘の音と、怒号が響いている。愛する人を地獄に残し、自分だけが清らかな「聖女」の座に戻ること。それがこれほどまでに残酷な刑罰だとは知らなかった。
「……ラファエル……」
彼女は暗闇の中で、彼の名前を何度も呟いた。完璧な人生など、もういらない。名誉も、財産も、ウィーンの喝采も。ただ、あの温かいハーブティーの香りと、不器用なカイザーシュマレンの味、そして、氷の上で抱きとめてくれた彼の腕の中に戻りたかった。
嵐が、すべてを奪い去ろうとしていた。二人の築き上げた短い聖域は、非情な現実の雪崩に飲み込まれ、今、完全に崩壊した。
魂の暗夜が、始まった。




