第四章
別荘での生活が始まって三日が過ぎた。その三日間は、アレクサンドラの二十数年の人生の中で、最も鮮やかで、そして最も短く感じられる時間だった。
外の世界では、彼女を貶める醜聞が嵐のように吹き荒れているはずだった。けれど、この深い雪に閉ざされた湖畔の家では、時間は薪が爆ぜるリズムと共に、ゆったりと、慈しむように流れていく。
「ラファエル、見て!本当に綺麗……」
午後の柔らかな光の中、アレクサンドラは凍りついた湖の縁に立っていた。かつてウィーンの舞踏会で、数千ドルの絹のヒールで踏みしめた床よりも、この厚い氷の層の方が、ずっと彼女を自由にさせてくれる気がした。
ラファエルは数歩後ろで、常に周囲への警戒を怠らずに立っていた。漆黒のタクティカル・コートの襟を立てた姿は、峻厳な冬の山の化身のようだが、その眼差しには、初日のような氷の冷たさはなかった。
「滑りますから、あまり先へは行かないでください」
「大丈夫よ。ほら、ワルツを踊っているみたいじゃない?」
アレクサンドラが雪の上で軽やかに身を翻した時、案の定、氷に隠れた段差に足を取られた。
「あ……っ」
短い悲鳴。だが、地面に叩きつけられる前に、強靭な腕が彼女の腰をしっかりと抱きとめた。
見上げると、すぐそこにラファエルの顔があった。冷たい外気の中で、彼の吐息だけが白く、熱く、アレクサンドラの頬を掠める。
「……お転婆が過ぎます、アレクサンドラ様」
苦笑を含んだ彼の声に、アレクサンドラの胸が激しく脈打った。彼はすぐに手を離そうとしたが、アレクサンドラは無意識に、彼の硬い腕を掴んでいた。
「お願い、あと少しだけ……こうしていて。今の私は、マドンナでも理事長でもないわ。ただの、臆病な一人の女なの」
ラファエルの瞳に、微かな躊躇の色が走った。彼はプロフェッショナルとしての規律と、胸に宿り始めた熱い感情の間で激しく葛藤しているようだった。だが、やがて彼は諦めたように溜息をつくと、優しく、しかし壊れ物を扱うような慎重さで彼女を抱き寄せた。
「ずっと……ここにいられたらいいのに」
「……それは、許されない望みです。あなたは光の世界に戻るべき人だ」
「あなたと一緒にいられるなら、私は暗闇でも構わないわ」
アレクサンドラの切実な告白に、ラファエルは沈黙で答えた。その沈黙は拒絶ではなく、叶わぬ夢を共有する者同士の、痛みを伴う連帯のように感じられた。
夕暮れ時、二人はキッチンに立った。今夜はアレクサンドラの提案で、オーストリアの伝統的なパンケーキ、カイザーシュマレンを作ることにしたのだ。
「いい?生地を焼いてから、こうしてフォークで細かく千切るのがコツなのよ」
「護衛の訓練に『パンケーキの解体』はありませんでしたね」
冗談を口にするラファエルの横顔は、オレンジ色のランプの下で驚くほど穏やかだった。彼は慣れない手つきでフライパンを扱い、アレクサンドラは隣で粉糖を準備する。
狭いキッチンで肩と肩が触れ合うたび、甘いバニラの香りと、彼の清潔な肌の匂いが混じり合う。それは、世界で最も贅沢な晩餐よりも、アレクサンドラの心を深く満たした。
しかし、至福の時は、唐突な電子音によって切り裂かれた。
ラファエルの腰のホルダーにある、衛星電話が震えたのだ。ラファエルの表情が、一瞬で「仕事の顔」へと戻った。彼はアレクサンドラに目配せして静止させると、短い言葉で応対した。
「……ああ。……状況は?……わかった。明朝、改めて指示を仰ぐ」
通話を終えた彼の背中には、先ほどまでの温もりは微塵も残っていなかった。
「ラファエル、何があったの?」
「ウィーンで、緊急の理事会が招集されました。あなたの叔父――エドゥアルト理事が、あなたの正式な『解任動議』を提出したそうです。スキャンダルによる財団の名誉毀損、および行方不明による職務放棄を理由に」
アレクサンドラの血の気が引いた。
「職務放棄……?彼らが私を追い出したのに!」
「大衆は刺激的な物語を好みますから。さらに、叔父側はパパラッチを扇動し、『アレクサンドラはボディーガードと駆け落ちした』という筋書きを流布させています」
ラファエルの拳が、静かに握りしめられた。
「私の存在自体が、あなたを追い詰める武器として使われている」
「そんな……。あなたは私を守ってくれているだけなのに!」
「世間はそうは見ません。元王室警護隊が、不祥事で解任された過去を持つ男であれば、なおさらです」
アレクサンドラは息を呑んだ。
「不祥事……?あなたが王室を去ったのは、誰かを守るためだったんじゃ……」
「……守るべき人を、守りきれなかった。それが私の過去です。私は、あなたに同じ思いをさせたくない」
ラファエルは窓の外の暗闇を見つめた。穏やかだった湖面は夜の帳に消え、遠くで吹雪の予兆のような風の唸りが聞こえ始めている。
「アレクサンドラ様。聖域の時間は、もうすぐ終わります。明日には、私たちは決断しなければならない」
アレクサンドラは、彼の手を握ろうとした。だが、彼は静かに、しかし明確に距離を取った。その数センチの隙間に、濁った現実という名の濁流が流れ込んでくるのを感じた。
愛する人を守るために、離れなければならないのか。それとも、全てを捨てて戦うべきなのか。
暖炉の火が、小さく揺れて消えかかっていた。アルプスの山々に、嵐の足音が近づいていた。




